第二節 経  済

     一 農  業

 (一) 稲作のはじまり
 弥生時代の前期の紀元前三世紀頃、板付(福岡市)に水稲をもたらした人々は、どこからきたのだろうか、南支那の非漢民族である苗族などが移動して、北九州や南朝鮮に流入したのではないかという説がある。また北支から朝鮮半島に渡った農耕はかなり早く、朝鮮の農耕は日本の弥生時代より早く始っていて、南朝鮮では、畑作農業と稲作農業が既に行われていて、これらの朝鮮人が北九州に農耕を移したという説もある。
 ともかく板付(福岡市)を中心とする稲作が、紀元前三世紀からはじまり、紀元前二〜一世紀を通じて比恵などにみられるような、かなりの農耕集落が形成され、これらの村を代表するものが奴国王と名乗り、紀元一世紀には後漢を出して金印を拝領するだけに成長する。

1.稲作伝来についての諸説
 わが国への稲の伝来経路については、東南アジア→沖縄→南海地方とみる南方説、南支那→北支那→朝鮮→北九州とみる北方説、および江南→北九州とみる江南説がある。
 安藤広太郎氏は、「日本古代稲作史研究」では江南説をとられているが、ここでは、安藤説の大要をあげておこう。
イ、稲の耕作は、印度と支那で、それぞれ独立してはじめられたとみてよい。
ロ、わが国の稲作は、江南地方で稲を常食としている南方民族が北九州、朝鮮に移入してきて伝えたと思われ、その稲は、江南地方で栽培が発展していたジャポニカ系の粳であったと考えられる。
ハ、伝来の時期は、弥生期のB・C一〇〇年頃であって、平坦低湿な河辺や沼沢地で栽培がはじまったと考えられる。
ニ、わが国の稲作は、南朝鮮地方とほぼ同じ時代にはじまり、どちらが、どちらに伝えたということはないようである。
 江南説であれば対馬海流に乗って多数の集団移民が可能で、技術の伝来が容易であること、また北九州や大和地方から出土した弥生土器の籾痕がジャポニカ系であることなどがあげられる。(筑紫の歴史と農業より)

2.最初の農民
 弥生時代は、コメと魚を大いに食べる日本人の食生活の基本ができ、狩猟採集民の多くが、畑作と結合した水稲栽培をおこなう農民に変身しはじめるとともに、東アジア国際社会に本格的に登場し、階級社会への道を歩みはじめた時代であり、日本の歴史のなかでも一大転換期にあたる。
 稲はインドのアッサムから中国奥地の雲南地方を起源とし、はるか日本列島にまで伝えられるが、さまざまな新しい技術や社会組織など、文化、政治、社会的な体系から文化複合として受容された点に意義がある。その伝来ルートは諸説があるが、直接の祖型は、朝鮮半島西部の無文土器文化に求められ、弥生文化は、福岡県を含む玄海灘沿岸部の低湿地の舞台に、まず形成されたとされている。

3.板付遺跡の水田
 県内の弥生土器は、これまで前期、中期、後期に大別され、それぞれの時期はさらに三期に区分されている。弥生文化は、縄文晩期の農耕文化に、新たに大陸系磨制土器、金属器などの要素が加わった時期に成立すると考え、最古の弥生土器を板付1式土器、最新の縄文土器を突帯文土器(晩期後半〜末)として認識してきた。
 こうした認識は、一九五一年(昭和二六年)〜一九五四年(昭和二九年)の福岡市板付遺跡の調査が出発点となっていたが、最近の調査結果によって時代区分は揺れはじめており、突帯文士器の時期を弥生早期として設定しようという意見もある。
 こうした見直しのきっかけとなったのは、やはり板付遺跡の「縄文水田」の発見であった。水田の耕作土中からは、多量の炭殻があり、水田雑草の種子も出土しているので、本格的な水田であったことは間違いない。また、取水、排水の設備をもつことから、湿田ではなく、半湿田とみられ、予想以上に高度な水田技術体系をもっていることがわかる。
 低湿地の水田の造成は豪族の力に依存しなくとも、集落の共同事業として、あるいは個人の努力によって実施可能なことである。(福岡県の歴史より)

4.筑後地方の稲作農業と農民
 縄文晩期(二三〇〇年以前)稲作農耕技術を有する農耕民族の一団が渡来した時、日本列島の先住民族の社会形態や生活は、まだ穴居生活の域を出ず、山野に鳥獣を追い、山菜、木の実を採り、河海に魚や貝を採り生活をしていた時代であった。稲作技術を有する農耕民族が渡来し、板付(福岡市)や莱畑(佐賀)で、水稲栽培農業が行われ生活集団が、はじめられた。また稲作が渡来すると一〇〇年後には、いたるところで稲作集団や小集落が出現した。(縄文晩期紀元前三世紀)
 福岡県内には、このはかにも縄文晩期、弥生初期の立屋敷(遠賀郡)の土器の出土などがあり、八女郡小坂の炭化米・朝倉郡栗田、三井郡立石、筑紫郡永岡、などの籾圧痕が報ぜられているが、板付の籾は、今まで発見されたもののうち最も古いB・C二〇〇年頃とみられ、さらに昭和四六年(一九七一)の福岡市教育委員会による弥生前期水田遺跡調査では現在の地表下二メートルの位置から木杭の列が発見され、標高にして六・五メートルの位置が、当時の地表とみられた。
 このように、板付は調査が進むにつれて、わが国の水稲栽培が縄文晩期にさかのぼることも予想させ、前述の安藤氏のB・C一〇〇年よりもかなり古い時代から相当高度の稲作が行われていたことが明らかとなってきたが残念なことには、この附近はほとんど市街化が進み、その痕跡さえも消滅しょうとしている。

5.稲作導入初期の立地条件
 福岡南部地域で、弥生前期(B・C三〇〇〜一〇〇年)の遺跡として知られているのは、板付(那珂地区)、比恵(堅粕地区)、金隈(席田地区)、伯玄(春日市)、中(大野城市)などがあり、隣接して、藤田、有田(福岡市西区)がある。縄文期の終りも近い頃、度々漂着してくる朝鮮人や江南人に臼と杵を教えられて穀類の脱穀、脱??の方法を覚えた筑紫縄文人は、何度も畑の穀作を試みたが、その度毎に圧倒的に優位を占める鳥獣虫害にやられて、畑作は思うようには進展しなかっただろう。

6.稲作の広がり
 弥生時代の水田は、まず海岸に近く、附近に住居地に必要な高地がある沼沢地にはじまり、しだいに、平地の林の奥や丘陵の狭間の湿地に拡がっていると思われる。

7.水  利
 (1) 矢部川、山ノ井川、花宗川の自然地理的構造
 矢部川は、この地方では筑後川に次ぐ河川である。山ノ井川、花宗川は半人工的な用排水幹線によって、筑後川と微妙なつながり方をして、そこに山ノ井川から沖端川に至る間に、展開する代表的クリーク地帯を形成する。矢部川右岸旧久留米藩領に当たる沖端以北のクリークは、アオに関係のないクリークであり、花宗川関係のクリークは、厳密に言えば、アオ利用型とアオ非利用型の中間に当たるクリークである。アオ利用型の形式には、直接筑後川から引水するものと、域内に引き入れてから再度揚水するものがある。この地方では、上流の水源の水が不足するので、四月初旬から八十八夜までの春水通水の間にクリークに満水する。八十八夜以後は、山ノ井川でも花宗川でも、矢部川からの水は、余水以外は流入しないので、その後は余水と、天水とアオ利用によってかんがいする。従って、その間各村々を区画するクリークの樋管、樋門の統制管理は極めて厳重である。山ノ井川、花宗川は、このように水源が安定していない派川である、山ノ井川、花宗川の用水不足は、矢部川全体の水不足の反映である。従って、旧久留米藩領である右岸が用水不足であるばかりでなく、旧柳河藩領である左岸も 、また、水不足に悩まされてきた。そこで矢部川においては、久留米藩及び柳河藩はお互いに自領の用水堰である花宗堰及び松原堰の上に、他領の堰を越えて堰を設けそこから回水路によって、自領の堰の直前で、再び、矢部川に水を落とし、自領の水を確保するという競争を演じてきた。山ノ井川と花宗川の春水滞留を、少し具体的に記述してみよう。

省略
山ノ井川、花宗川水系図 山ノ井川取水口(八女市)

(2)山ノ井川(筑後志には山ノ井堤川とす、また正原川、生津江川、或は城島江川と称す)
 星野川右岸、八女市川崎の山内地内で、星野川の水を古井井堰により引水し、途中川崎、長津、忠見、上妻、福島、岡山、羽犬塚を経て水田江口堰に至る間(一九二〇ヘクタール)を、かんがいする用水幹線水路である。この川は、八女市福島の国道橋から福岡県管理河川であるが、江口堰に至る間の水路用地、用水権とも山ノ井用水組合の管理である。そして、取水口水門以下の堰?は、それぞれの関係集落が管理する。山ノ井川は、春期は四月一ケ月間、秋期は収穫後の一五日間停水して水路の補修を行う。
この時期以外は、年中通水している。しかし、既にこの山ノ井用水組合地内で、用水が不足するので、組合長の権限で組合内部の特に用水不足地区に、他地区の取水を制限して非常通水を行うことが出来る。

山ノ井川井龍堰付近の風景

 つまり、かんばつ対策を制度化しなければならないほど、用水不足は恒常化している。この非常通水は、もちろん、江口堰までで、それ以下のクリーク地帯には、どんなに用水不足が生じても、通水の義務はないことになっている。従って、この水系による溝渠地帯の用水は、江口堰からの余水と筑後川のアオ揚水である。それにクリークは、既に、筑後市水田地区から、クリーク地帯となるので、江口堰上流の重富堰(筑後市若菜、堰幅一三、七m堰長一一、五m石造、高さ○、四五m、可動両岸取水、取水量○、三〇八三m3/S、開渠によりクリークに引水関係区域、高江、重富、若菜の七七ヘクタール)及び江口堰(幅一〇、七m、長六m、コンクリート造、可動、筑後市大字高江、関係区域、江口五〇ヘクタール)から水田地区のクリークに導かれた水が、地区内の樋管によってコントロールされた後、余水となって流れ込む。こうした山ノ井用水の余水をうけて、典型的クリーク地帯への山ノ井川からの本格的取り入れをする堰が、江口堰下流一、四キロメートルの大木町大溝の福光地先にある獺の橋堰(幅四、五m、長三m、高二、二m、コンクリート造、その間を幅一、五mのもの一門一、二m のもの二門計三門の角落堰、関係地区、大溝、福光、犬塚の九五三ヘクタール)である。四月中旬から五月中旬までは春水の期間である。クリーク地帯は、山ノ井組合内の筑後市水田から始まっているので、春水は山ノ井川では、重富、江口、獺の橋三堰から導入される。

山ノ井川(排水、アオ取水)城島六五郎堰

 獺の橋の右岸に引き入れられた春水は、広川の庄原堰や生津樋管によって引き入れられた春水、及び、水田の久富堰や、富江堰から流下した余水及び五ノ家から千間溝によって導入された西牟田の余水と合して、犬塚の生津、岩古賀、福光、一丁原、南清松、北清松、三瀦の草場、城島の内野、浜のクリークに導入される。
 また、獺の橋堰の大角口から、左岸に取り入れられた春水は、重富堰や江口堰から導入された余水と合して、横溝五反田を経て木室の上白垣、下白垣、江上の筒江、三又の下林、諸富の溝渠を満たし、千間堀に導入され新橋江湖に注いでいる。春水は、貯留と苗代水に使われ、夏水まで山ノ川に依存する地区は、獺の橋堰周辺の大溝一帯に過ぎない。そこで夏水は、山ノ井川のアオを、揚水する江上土地改良区、筑後川から直接揚水する青木、三又土地改良区のポンプ揚水によっている。青木、三又ではアオ揚水ポンプは、六月一日から一〇月一五日までの間運転する。江上土地改良区の運転期間は六月一日から一〇月一〇日までである。

花宗川取水口(八女市津ノ江) 花宗川観音丸井堰

 (3) 花宗川 (筑後志には花宗井堤川とす、また一名平松川ともいう)
 花宗川は、矢部川の分派にして、八女市上妻津ノ江から岡山に入り、前古賀字藤丸にて更に分派して、一は、松永川となり、一は、西下して筑後市水田(この地方では長峰川、又は蛭子川ともいう)を経て、大木町大字蛭池で最もクリーク密度の高い三瀦郡に入り、クリークに貯水しつつ筑後川に注ぐ、それ自体が一大導水路である。
 旧八女郡一、八五〇ヘクタール、旧三瀦郡一、八三〇ヘクタールの計三、六八〇ヘクタールをかんがいしている。
 八女郡側は、花宗用水組合、三瀦郡側は花宗太田土木組合によって管理され、三瀦郡側のクリークヘの配水とクリークからの揚水は、三瀦南部土地改良区が担当する。花宗川は、四月五日に取水口が開かれ、矢部川の水を取り入れて通水を始める。これがクリークに貯留されるが、三瀦郡側へは八十八夜以後は通水を停止する。それ以後は、八女郡側の専用となって、三瀦郡側には余水しか回らない。山ノ井組合が、非常配水をするのに対し、八女郡側の花宗組合は、組合長が配水権を持ち、組合長の専権による特別配水を行う。このように、水は既に上流側で不足している。花宗川は一〇月一五日になると、取水口を閉じて通水しない。秋期停水という。一一月中旬、クリークを持たない八女郡側の河川かんがい地区に対し、警備(消防)用水、家事用水、水車用水、藺草用水として少量の通水をする。春三月中旬、花宗川補修のため四月五日まで春期停水する。
 つまり、河川かんがい地区である上流八女地区と、クリーク地帯である下流三瀦地区との用水獲得の時季をずらし、八女地区が用水を必要としない春水期間、これをクリーク地帯に通水し、クリークに貯留させるのである。花宗川の流量は、関係区域三、七〇〇ヘクタールを同時に賄うには、絶対的に不足するからである。
このような山ノ井川、花宗川の春水慣行をみてくると、結局クリークは、平野に下りた溜池である。西牟田地区の溜池の春水とこの点では類似点が見いだせる。それが溜池でなく、クリークになっているところに、この地域の自然地理的条件が考えられる。
 筑後平野東部の山地から西流する小河川は、山地にはっきりした集水面積を持たない。高良台地が矢部川近くまで迫っており、山ノ井川を星野川と、花宗川を矢部川と結びつけるには、人工によらねばならなかった。
 山麓線に並ぶ渓口部より扇状地を形成し、その前面は扇状地性の低地から三角州へと移行し、沖積世初期の海進を受け、以後の海退と堆積が相まって陸化してきた。
 有明海は、日本有数の干満差の激しさで知られ、干潮時に露出する干潟は、最大幅六キロメートルに達する。
 海退と堆積によって出来た沖積平野は、すっぼりとこの満潮のなかに包みこまれる。干潟の澪筋は、その陸化に伴い江湖という特殊河川となる。
 この江湖と矢部川を結び、耳納山地から筑後川に至る一貫した水系としたのが、山ノ井川であり、花宗川である。
 この平野の地質地盤は、比較的不透水性であり、水を貯留しやすく、また土地は、掘削しやすい。
 自然かんがいの出来ない地形であるから、水を一枚一枚の田にまで水路によって導く必要がある。更に、技術の低い段階では、地下水が不要で、飲料水を得ることが出来なかった。そこで、村を巡る水路が必要である。水源が不足しているので、余水利用を繰り返しながら、反覆利用の体系をつくることが必要である。

花宗川酒見堰移転改装中
(大川市酒見)

 土地は低湿であり、内水排除が問題である。かくて樋管統制による平野全面にわたる用排水の体系をつくったのがクリークであった。
 春水慣行にみられるように、山水とアオを組み合わせた上で、平野全体にわたる水のローティションとしての春水慣行を組み立てねばならなかった。こうして平野全体に、自然、人工の両面から展開されたのが、山ノ井水系、花宗水系のアオ利用型クリークである。この地区のクリークは、筑後川と矢部川の組み合わせの上にできているので、この地域のクリークは、矢部川の水源開発と筑後川の水源開発のからみ合わせの上で発達してきたのである。
 そこで、この地域のクリーク、つまり村落の形成は、水源に近いところから始まる。筑後川沿いと扇状地性の低地から三角州への移行部にかけて、まず開発された。すなわち、以上の地域に弥生遺跡と条理の跡があり、その中間のクリーク密集地帯には、それがなく、クリークも雑然としている。荘園時代になって、それまで条理が施行されなかった荒地や湿地の開墾が行われ、それは小地域による各地まちまちの開発であり、戦乱の時代となれば、「むら」を守るための環濠集落が形成されることになる。
 そのような余水利用権的な各地まちまちの水利用に対し、一貫した水系としての利用の体系をつくったのが、近世大名の水利事業であった。それは、まず筑後一円を領有した田中吉政の事業から始まる。
そのような既存の水体系の整備と同時に、干拓及び筑後川周辺の中島の開拓が進められることになる。
そこに、旧柳河領に当たる矢部川右岸を主とする矢部川水系の柳河型(非アオ利用型)クリーク地帯の水系が整えられていく。
 ここでは、アオ地帯と違って、水源は矢部川以外にないので、どのようにして、かんがい区域全体に流水を確保するかが問題である。そのために下流への漏水を確保するような堰の構造になっている。
 堰の井手上げ、改修について、立会、監視等の慣行がうるさいのである。上流に水源を涵養すること、すなわちダム構築、あるいは筑後川上流中津江川の水を矢部川へ引き込むことまで考えた。一応、日向神ダムとして実現しているが、このダムの容量ではなお不足である。
 現在においても、水不足に起因する問題については、まことに厳しいものがある。

 (4) 山ノ井川、花宗川の起源
 続日本紀に、道君首名が和銅の末(七〇八)に筑後の守となり、生業を勧め陂地を興し築きてかんがいを広め、人其の利を蒙るといへり、然れば山ノ井、花宗の両河川は、或は、この時代に矢部川の水を引きてかんがいに便せんがために掘削したる運河式の溝渠なりしに非さるかと記されている。

 (5) 山ノ井川の改修
 山ノ井川は、八女郡川崎大字山内で星野川より分派し、八女市筑後市を経て大木町獺の橋に注ぎ、大木町と三瀦町の境界を流れ、更に城島町を横断して筑後川へ注ぐ二級河川である。その延長八、〇八〇キロメートルに及ぶ昔は川幅一〇メートル乃至二〇メートルの蛇行型峡流で、雨期には水吐きが悪く、毎年幾度となく洪水に見舞われその被害は甚大で、流域沿線の住民は被害が出る度に、山ノ井川の改修を祖先よりの悲願として県河川課に訴え続けて来たのである。そうした中で、昭和二七年三月(一九五二)当時の県議権藤尚二の努力もあって、県河川課長吉開技師に改修計画が依頼され、昭和二八年二月(一九五三)その青写真が公開され大溝村役場において検討がなされた。当時の村長古賀彦次郎、村会議長田中弘、助役島伴太郎、土木主任松枝千代喜、外土木委員四名、福間地区代表一〇名が加わり、再三に亘り検討がなされた。その計画たるや、河川の幅員五〇メートル、屈折なきよう耕作田の中央を一直線に掘り割り、順次旧河川の埋立てを行う計画に、関係住民は驚愕し、集落座談会を開くことに一決し、二月二〇日福間地区住民の懇談会を真福寺において開催したが、反対意見強く会議が 難行したのである。三回目の会議において、土地買収価格反当六万円、県費買い上げを四万円に決定する。また、外部より購入替田二割を、無償で埋立地分譲六割有償拂い下げの条件で和解成立、三月より着工に至った。
 当時五ケ年計画で、五億円の国県費、二割を町村負担という事業費で工事施工が進められた。
 昭和三〇年(一九五五)町村合併により事業は大木町に引き縦がれた、同年時に三瀦、城島も町制が布かれ、事業施行とともに関係者の利害に絡む問題も、河川改修委員会の努力によって解決され、昭和四九年四月(一九七五)全域に亘り工事完了した。
 過去二三年の歳月と二二億円の費用がつぎ込まれ、残務整理も昭和五一年(一九七七)まで完全終了した。

 (6) 淡水(アオ)取水
 筑後川下流域は、河成及び海成によって干陸化された広大な水田地帯である。一般に山地の水源から遠く、河川取水も中流域のような落差がないので難しく、用水に恵まれない所がある。干陸化の過程において、用水確保のためにクリークが造成され、雨水、河川水、淡水を一時的に貯留することにより用水不足を補ってきた。この淡水取水も筑後川本流の流量が減少したり、水位が低下する時には思うように取水出来ず、一部で用水に支障をきたしている。佐賀県側は、樋門による取水が多いが、福岡県側は主にポンプによる取水が行われ、筑後川からの淡水取水量は、記録的なかんばつ年であった昭和四二年(一九六七)において、約一三、六〇〇m3という調査結果が残っている。淡水取水は下流域独特のもので、満潮時に筑後川を遡上する海水によって押し上げられた河川水を(淡水)ポンプや樋管、樋門によって取水するものであり、その塩分濃度を見計らって、取水可能な短時間に水田が必要とする水量を一斉に取水する方式である。
 取水された水は、一旦クリークに貯水され、必要に応じてかんがいされる。クリークの貯水量は、普通一週間分程度で、水田へはバーチカルポンプ等でかんがいしている。取水される用水の塩分の限界濃度は、○、一パーセントといわれているが、住民は長年の勘によって取水管理を行っている。
 このように淡水利用地区は、またクリークが網の目のように分布し、クリーク面積は、平均で水田面積の約一〇パーセントに及び、多い地区では、二〇パーセント以上の所もある。淡水の取水箇所は、洪水の危険や水位変化の速い本川取水よりも筑後川からの逆流水を支川で取水する形式が多い。淡水取水の方法は、場所によって、やや形式が異なっている。例えば浮島(川口より約一一キロメートル)より上流の本川及び支川にある樋管、樋門及びポンプは大潮満潮時に取水している。ただポンプの場合には、小潮満潮時でも取水している。
 樋管や樋門の場合には、敷高を大潮満潮時に合わせ、その上に水門を設置しているので、ポンプ揚水のように小潮時には取水できない。また大川市酒見樋管では、最満潮時には塩分濃度が高すぎるので、それ以前の水位の低い時、つまり、潮が遡上し終わる前の淡水を取水している。樋管によって取水しながら塩分濃度をチェックして、限界に達した時、取水を止める操作を専ら管理人の勘に頼っている所もある。更に下流河口部に近い大野島、大中島、道海島などは、満潮時には高い塩分濃度となるので、逆に小潮の干潮時にポンプ取水を行っている。ただし、これらの地区では、取水管理が難しいので、時には高濃度の塩水を取水することもある。
 淡水取水状況は、以上のようであるが、この方法には長年の歴史があり、取水方法も独特である。しかし、塩分濃度等の取水条件が、本川の流量の変化に左右される面もあって、安定した方法とはいえず、現在行われている淡水取水方法も万全ではない。

 (7) 貯水堀(クリーク)
 筑後川左岸の主な用水源は、筑後川からの淡水取水、矢部川水系の河川水と日向神ダム、花宗溜池その他小溜池群及び下流平坦部に縦横に分布しているクリーク群の貯留水である。
 当大木町のクリークは主として矢部川掛りであって、支流星野川の河川水を利用している山ノ井、中ノ井用水掛り、矢部川本川に設置された花宗堰から矢部川の自流と、上流に建設された日向神ダム及び花宗溜池と貯留水を利用している花宗用水掛り、更に、下流は大規模な用排水兼用のクリークが不規則に分布し、筑後川沿いには淡水利用地帯もある。平坦地における、人間の生活とクリークのかかわりは切っても切れないものがある。(筑後川農業水利誌による)

 (8) 洪水対策と井堰
 従来淡水取水は、ポンプ並に樋管に依存した、まことに不安定な方法であり、洪水の際の排水についても、山ノ井、花宗両河川とも樋門の開閉のみで行っていたので、筑後川満潮時には排水が出来ないような状態に陥ることがあった。
 淡水取水を容易にすることと、排水に万全を期するため、山ノ井の最下流城島町六五郎に井堰の改修が、昭和二七年(一九五二)より昭和四九年(一九七四)に二〇億円余の経費を注入し、非溢流型二段式ローラーゲート、純経間扉高、一二、七〇×○、九五mの樋門及び排水ポンプ一五〇〇馬力(毎秒排水量二五トン)が設置された。また、花宗川最下流の酒見井堰も従来の形式では不充分であり、現在井堰の下流に大規模な井堰の新設移転が進行中である。
 洒見井堰完了後は、淡水取水も容易になり、また、洪水時においての排水についても万全を期することが出来、わが大木町も水害から免れることになるであろう。

 (二) 農政の移り変わり
 1.初代筑後守 道君首名(みちのきみおぴとな)
 元明天皇の和銅六年(七一三)八月、新羅より帰省した道君首名は、初代筑後の守として赴任し、国土開発産業振興に尽力した。これより先、文武天皇四年(七〇〇)、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等と共に律令撰定の命を受けて任官し、大宝元年(七〇一)六月、天皇の命により僧尼令(そうにりょう)を大安寺に説いており、同年八月大宝律令を完成し、首名も行賞にあずかり正六位を授けられた。
 その後、養老二年(七一八)には正五位に進み、同年四月に死去した。
首名は筑後守であった時、肥後の国司を兼ねていたが、農業発展の基盤である耕地造成のためこの地方特有の沼地の泥土を握りあげ、濯漑水を溜める陂池(はち)をつくったり、排水をよくするための工事をするなど、筑後国の条里施工も首名によって行われたものといわれている。
 また、首名は人民のくらしをよくするため、田畑を耕し作物を栽培することを奨励し、米作は勿論野菜や果物を植えたり、鶏や豚を養うことまで適切な指導をした。作物栽培については、自分みづから時々見て廻り、懇切に教え、導きに従わない者には、はげしくとがめたので老人などは、隠れて首名を恨み、騒ぎたてたけれど、秋の取り入れには、その効果が現れて、豊かな収穫があり皆よろこんで、心服しない者はなかったといわれている。
 首名は、死後感謝されて神に祀られた。その神社は久留米市大善寺町夜明の印鑰(いんやく)神社であると言われている。なお楼門をくぐつて左の方に、小高く石垣で囲った塚は「乙名塚(おとなつか)」と呼ばれ、首名の墓であるとされ、近郷の人々はいまもこの墓を「オートノサンの墓」と云っている。

 2.上代の税
 人が自然採取のくらしより、定着農耕を営むようになり、比較的狭い土地で多くの人の生活が可能となって、集団のムラができた。また、生産によって獲得した物資の蓄積は、私有財産の観念が生まれた。
ムラ共同組織の中で、働きの違い、能力の差は自然に分業化と階級社会を創りだしたが、集団を維持統制していく上での決まりごとのなかで、税のしくみができた。石庖丁による稲の穂首刈りの古代より、時代が下るに従い権力による支配者は、貢租をだんだん厳しく取りたてていったのである。例えば律令制度の基本的な税のしくみは、租・調・庸・雑徭があった。
 ○ 租は、正税ともいわれ、口分田・墾田などの輸租田に課し、一反の収穫七二束に
   二束二把で、収穫高のほぼ三パーセントにあたり、大部分が国・郡の正倉に貯えら
   れて、国・地方の財源にあてられた。
 ○ 調は、成人男子に課せられた人頭税で、布・絹・糸など地方の産物を課した。正丁 
  (二一〜六〇歳)の標準量に対し次丁(六一〜六五歳残疾)は二分の一、小丁(一七
   〜二○歳)は四分の一と定められた。
 ○ 庸は、年に一〇日の歳役のかわりに、正丁に布二丈六尺・次丁にその二分の一を
    賦課した。
 ○ 雑徭は、毎年正丁六〇日、次丁三〇日、小丁一五日以内と定め、池溝などの土木
    公役を課し、重い負担であった。
 筑後国の税は(とを)朝廷(みかど)の太宰府にまとめられてから、中央に送られたのであるが、郷土の調の作物は楮皮(こうぞがわ)(むしろ)防壁(たてごも)(とま)蒲薦(かまむしろ)(すのこ)(竹または葦であんだもの)・漆・胡麻油・醤鮒(ひしおぶな)楚割(すわやり)(雑魚の肉を細くさいてかわかしたもの)・??(きたい)(まるごとほした肉)・押年魚(おしあゆ)・漬塩年魚・煮年魚・煮塩年魚・鮎鮒と定められていた。
 筑後の国司藤原仲能(なかよし)は、退職後七つの蔵を建て、その中に七つのかめを据え、かめに入れた金・銀は七万両であったとの説があり、当時の権力者がいかに自分のふところを、こやしていたかが窺われる。

3.太閤検地
 先ず検地という言葉について述べてみよう、検地とは豊臣、徳川政権下、農民の田畑一筆毎に間竿、縄等を用いて測量し、段別品位石高を定めること。さおいれ、なわうち、地検、検注(検地打ち)段別の測量(検地帳)近世幕府大名が領地郷村の検地の結果を記録した土地台帳、また別名水帳とも言う。
 田畑を測る言葉として、次のような呼び方がある(測量・丈量・竿入れ・竿打・縄入れ・縄打)など。
 稲作農業の開始当時は、地主とか小作人とか上下の階層もなく、従って、小作料を取る者はなく、出す必要もなかったであろう。故に、田畑の広狭を知る必要もなく、したがって測る必要もなかった。その後、貢物、租税を取る者が現れ、税を出す階層とに分化し始めたのは何時頃からか、各地の農業稲作集団がある時期から一斉に貢租を取る者と出す者に階層が分かれたのではなく、それは区々であったと思われる。支配者と被支配者とに階層が分化した当初、貢租を取るのに、その田畑の面積を調べ、一定の額を徴収したとは思えない。然らば、田畑の面積を測って一定の租を取るようになったのは何時であろうか。
 四世期初頭から、始まったであろう、所謂、天孫民族の日本列島統一の事業は、七世期初めになると列島を制圧大和政権が成立、唐の制度を軌範とした律令が制定され、田畑の面積を図り班田収授制が成立した。一般の広さは三六〇坪であり、この時田畑上、中、下の品位も既に決定された様であり、此の制度は、豊臣秀吉が天正一五年五月(一五八七)九州を平定、天下を統一して全国田畑の検地を施行するまで続いたのである。
 後世、これを太閤検地と言う。太閤検地は(一五八九−一五九八)の間に全国に施行、一間を(六尺三寸竿とし)一段三〇〇坪田畑上中下と下下四等級の石盛、京桝使用等統一した基準を用いた。この検地によって、石高制を確立し、封建領主の土地所有と小農民の土地保有とが全国的に確立された。次に京桝について述べる、京桝については豊臣秀吉が中世以来乱れていた量制の統一をはかって制定した桝、江戸時代に至り東国では江戸桝を、西国では京桝を用いたが一六六九年全国を京桝に統一した。一升桝は、方四寸九分深さ二寸七分(六四八二七立方分)である。各地の藩主は、農民からの収奪強化手段として、統一された筈の京桝の五分から一割位大きい桝を使用していたと言われる。此の太閤検地の時、筑後地方検地は、山口玄藩という人が、竿奉行として検地、石高を決定したので、これを山口高と言い三二万石余と決定され、この中には住居地(居屋敷)も含まれ貢租の対象とされた。文禄三年(一五九三)田畑屋敷、六尺三寸竿を以て三〇〇歩を一反として検地すべし。上田は一石五斗、中田は一石三斗、下田は一石一斗、下下は照料して之を定むべし。上畑は一石二斗、中畑は一石、下畑 は八斗、下下は照料をして之を定むべし。屋敷は一石二斗たるべし云々とある。
 これが貢額の基準となるのである、その三分の一を税として上納、三分の二を農民の取り分としたが、収量の三分の二が百姓の手に入っていれば百姓一揆は起こらなかったであろう。その時々の権力者は如何にして、より多くの貢粗を農民から取るかを考えたのみであり、幕藩封建時代になると所謂知らしむべからず、依らしむべしと言い愚民政策を取って、正直に働くだけの人間となしたのである。百姓は搾れば搾るほど取れると言い、その極限まで収奪を重ねたのである。江戸幕府となり、各地の領主に任ぜられた支配者は、少しでも多くの税(物成といった)を農民から取るために、各藩とも何回か検地をやり直したようである。
 筑後地方では、太閤検地後、有馬豊氏が元和七年(一六二一)久留米藩二一万余石の領主として着任以来二代藩主忠頼の時、承応二年(一六五三)検地が行われ、夏作にもその収量の十分の一上納を命じた。これを承応の検地と言う。降って六代則維(のりふさ)の時、正徳二年(一七一二)から二ケ年をかけて竿入検地をした結果、増加した田畑の面積は一四一二町八反余であった。そうして、その時から夏作もその収量の三分の一上納を命じ次第に収奪を強化していったが、これが享保一三年(一七二八、正徳検地から一六年後)上三郡百姓一揆の原因となったのである。徳川政権が倒れ、明治政府となってから、新政府はその財政に行き詰まり、今迄物納であった貢租を金納に改正、併せて、貢租の増収を計り明治七年(一八七四)から地租改正のため検地を施行した。
 この時は、一筆毎に測量面積を算定、其の品位を上・中・下の三段に分けてそれを記入した地券を発行し、田の位面積所有者名を記入した字絵図が出来ている。(筑後地方の稲作農業と農民により)

 4.久留米藩時代の農民
 久留米藩に有馬豊氏が入国した元和七年(一六二一)の当初、領中田畑畝数石高税法に付いて、田中氏旧制の書出しを郡村に命じたところ、領民の多くは、奸詐を構えて正しく書き上げず、或いは水帳証文(土地台帳)を削り或いは畝数石高の数量を減じて書き上げたため、高並その書上の数に五割を加えて、高三二万石余に当たる年貢三ツ七歩五厘の納にして、入国翌年の元和八年迄課税した。
 かくして、旧制を正しく申し出た村々は大いに困窮するに至り、翌九年(一六二三)二八万六四七石余と決定し、これを久留米藩御内検高として、表高とは別個の藩内だけの基準としたが、この時の新高は、六代則維の正徳二年(一七一二)の検地(正徳検地)により、御内検本地高三二万八六〇〇余石と改訂されるまで維持された。
 久留米藩々祖有馬豊氏は、勝手方鵜飼甚右衛門の創意を容れて、既に福知山八万石の領主時代に一二万石の軍役を徳川幕府に請い(農民犠牲の上に五割増しの軍役を自ら請い受けて自己の栄達を計った)後に久留米二一万石に転封の際にも、これがスライドされて、過重の負担を負うことになったから、財政破綻の根元はまずこゝに根ざしていると言えなくもない。こうした藩財政の危機的状況をふまえた農政はいきおい、その収奪の度を高めざるを得ないが、これは当然百姓一揆という形での抵抗に遭遇することになる。
 久留米藩時代の大規模な百姓騒動は、都合三回あり、第一回は六代則維の享保一三年(一七二八)に第二回は頼○(よリゆき)の宝暦四年(一七五四)に第三回は九代頼徳の天保三年(一八三二)勃発を見たのであるが、それぞれ数郡ないし全領単位で駆動した大がかりなもので、享保一三年の一揆では藩が全面的に屈服し、在方惣裁判本庄主計父子の死罪という形で収束した以外は、第二回も第三回も農民側に夥しい犠牲者を出して決着するという、悲惨な結果に終わっている。
 百姓一揆が勃発した時は、百姓の言う事は認めると家老連名で言っておきながら、一応騒ぎが静まると手のひらを返すように態度を変えて、三七人もの百姓の首を切り、領主の言う事を聞かぬ者は此の通りだと農民を武力で威し上げ、今まで以上の重い物成を取り上げたのである。即ち宝暦四年(一七五四)の上納米高は享保一六年(一七三一)から慶応三年(一八六七)まで二二七年間、今に遺っている正租収入記録の中で一番多く、記録されている。

  (1) 久留米藩令と農民
 次に掲げるのは、久留米藩が藩令として百姓宛に書き出されたものの数多い中から抜粋して記述してみる。
○御書出之類一ノ上 (寛永 − 正徳)
一、百姓と藩士との間に何かあった時(出入)藩士には罪は問わない(諸給人構不申)大
 庄屋は郡奉行に申し出て、百姓に落度があれば入籠を申し付けると言うのであり、時
 によっては所謂無礼打ちもあったのであり、当時百姓には、人権のかけらもなかったの
 である。
 ※ 原文は左の通り
   百姓出入、諸給人構不申、小庄屋、其上大庄屋致沙汰、不相済儀、郡奉行戸田勘
   触田、馬渕加兵衛、山口忠兵衛、佐々彦右衛門、後藤九郎左衛門、不埒明儀は郡
   代之申断理非承届候上以籠余申付、其以後可令言上事。
一、百姓は大和政権律令時代の昔から自分の住所さえ勝手に移ることは出来なかっ
   た。
 ※ 原文は左の通り
   従他所走百姓理非次第返可申、勿論此方より走りたる百姓も相届、理非次第ニ戻
   候様ニ可仕事。
一、郡中村々の免租(上納高)は、郡奉行が検見役人を出して役人と百姓が合意の上で
   決定せよ、もし百姓が合意しない時は春法(春作付前に予定した穫れ高)によって
   反当の上納高を決定せよと言っている。何れにしても、支配者は如何にして、百姓
   から多くの貢祖を取るかを考えたのである。
 ※ 原文は左の通り
   郡中免祖之儀、検見之者差出し、郡奉行検見之者見及、百姓も令徳心、村々ニ受
   免可申付、百姓無得心所ハ春法を取其之上にて当り免可相極事。
○その年の収穫高は下見帳を元に郡奉行達が合議の上決定免租帳(収穫高帳)に書き
  入れよ、と言っている。此の時郡代等他からの申し入れは通らず、おそらく郡奉行連
  中の言うままに決定されそれに依って上納を命ぜられたのであろう。
  食う米のあるなしにかかわりなく上納させられた。
 ※ 原文は左の通り
   検見下見之帳出来候てより、郡奉行、戸田勘触由、馬渕加兵衛、山田忠兵衛、
   佐々彦右衛門、五島九郎左衛門、並預り郡代立合、吟味の上を以免相帳可書付
   事。
○麦(夏作)にまで年貢をかけたのである。百姓はどうして食って行けと言うのであろう。
 ※ 原文は左の通り
   麦年貢右同然之事。
○まだ藩の米倉に納めていないものは、残り米を売って、その時の高い値段で計算銀子
  で出せと言っている。
 ※ 原文は左の通り
   蔵入未進之儀は残米拂高ねのなミニ銀子ニて可差上事。
○百姓は藩命に対して絶対服従であり、従わねば御法に背くものとして罪を科せられ
  た。
 ※ 原文は左の通り
   面々給地百姓数年定来通相違申問敷事、年貢の節ハ検地の者相定之通り可納
   取、百姓於異議は郡奉行出合可致沙汰、其上を以て給人所存次第たるべし、尤検
   見停止之事、右之條々堅可相守、若於違反之輩有之ハ依其科之軽重屹度可処罰
   科者也。寛永弐丑年二月二四日(一六二五)
○享保一三戌中年二月九日(一七二八)夏御物成増石高被仰出候御書出し
 何と言う暴言であろうか、夏秋の収穫物は全部領主の思うままであり、秋作は全部領
 主が取り、夏作だけが百姓の取り分の所もある。久留米藩では、損毛している田畑は
 一枚毎に検見(小検見)して取れ高によって公平に上納させるので、上納は他藩より
 も軽いので、米が余るからと米を食べる者があると聞くが、そんな贅沢をするから食糧
 や種籾が不足するようになるのだ。
 余った米を雑穀に替えて食えばそんなことにはならない、不埒の至りであると叱ってい
 る。当時の権力者は農民を何と考えていたのであろうか。以上は享保一三年上三郡百
 姓一揆の原因となった触書である。
 ※ 原文左の通り
   夏御物成之儀、村々作畝多小土地之善悪先未の年御改石高被相極候、然ハ其節
   詮議未熟に付、先合之石高之内拾歩壱上納九歩之百姓作徳ニ相極候へ共、其以
   後畝改諸式尚更吟味之上、只今秋御物成同然三歩壱上納三歩二作徳ニ被相極
   候、得其意無滞可致上納候、惣て夏秋収納之事御領主之思召次第、秋作ハ全御
   所望、夏作の分百姓余作として御用捨の御方も有之由、御領中の儀ハ小検見ヲ以
   甲乙無之様ニ御改之上、上納軽き御定ニてハ余米多作食ニいたし候もの、有之
   由、抱地多小且貧福こよってハ勿論食物之善悪可有之事ニ候得共、余米ヲ雑穀に
   引替候ハ、作食乏候とも其難鮮ク可有之所、不覚悟故種作食不足儀と相聞不埒之
   至ニ候、将又御上米代銀被召上候儀ニ付て何角浮説申唱候ものの有之由、御國
   役之事ニ候へ共御上納之内は何ケ年ニても可被為召上筈ニ候得共、右之通夏秋
   御物成向後三歩一上納被仰付ニ付、当夏以来ハ御上納米代銀御蔵差出、在方よ
   りハ不被召上候、尤寺社並在方町之儀ハ只今之通可然上納事。
    右之通之趣領中一派(一統力)ニ可申渡候
                       以上
      享保十三年戌申年二月九日
                本庄 主計  判
次に同書から、此の時農民が藩に出した嘆願文の一つを記述する。
 夏物成が十歩一上納と定められてからも実際は九歩の作徳にはならず、残りは僅ばかりで種や食うのに不足で難儀しているのに、此の度秋作同様に三歩一上納せよと仰せられても百姓はどうする事も出来ません。夏物成の上納は何卒昔の通りに御願い申します。又秋作物成上納も三歩二作徳と御定めいただき、殿様は本当に百姓の作徳が三歩二あるとお思いでありましょうが、悪い役人がいて本当の穫れ高を殿様に申し上げます。百姓の納める上納は収穫の六、七歩にもなり百姓は今日では草木の根等を食い飢死はしていませんが、今年の夏作が取れるまで食いつなげるかどうか分かりません。田地は次第に荒れて行きますが皆んな役人達が悪いからであります。と言っている。そして此の外にも同じ内容の難願書が、竹永組、明石田組、石浦組、生葉郡里村百姓中からも提出されている。
 ※ 原文は左の通り
    乍恐御難申上覚    塩足組
  一、夏御物成御改之上十歩一上納九歩作徳に(承応二年検地の時一六五三年)被
   仰付候段、御改不直ニ付作徳僅相残作食不足仕難儀仕居候処ニ、今度之夏御
   物成之儀秋御物成同然ニ被為仰付候段承知驚入奉存候、只今之通ニてさへ暮
   兼居中候問、増上之儀ハ不及申上、先規之通ニ被為仰付被下條様に奉願候事。
  一、先辰の年畝改(正徳二年検地)被仰付小検見合切御様シ(田畑一筆毎に合入を
   して試す)御物成、当組より辰の年以来去来末之暮迄(正徳二年から享保一二年
   まで十五年間)相増候俵数夥敷儀ニ御座候得共、奉畏御上納仕候、尤最初被仰出
   候儀ハ、三歩一上納三歩二作徳ニ被仰付候旨ニ御座候得共、三歩二の作徳曽て
   無御座候、其子細ハ壱坪之内五歩拾歩ヅツ、勝れ候て能出来候所御座候にて様し
   合御取被成、合付小まへ御捨テ切増多く(端数の切上が多い)、合生籾を惣畝ニ
   当り被仰付候ニ付(生籾の量をそのまま反当収量とすること)、御定法之通ニハ大
   分違、廉直とハ難申上奉存候、庄屋百姓見立桝付之通ニて坪取揚候てハ見立の
   通ニてハ無御座候を、剰切揚辰己両年合付ヲ以奉御免御極被成候ニ付、六七歩
   ニ相当り申候、先御代様(五代頼旨)出御免御定法之儀、拾ケ年平均ヲ以御免御
   繕ひ被為置候段承伝候、夫ヲ辰の年(正徳二年)畝改被為仰出候、御定法段々相
   違仕、近年は風損、早損、水くさりセ痛御座候ても、壱ケ村之都合ニて御上納分御
   座候へば御検見も難叶、進で過料免被為仰付候ニ付、只今之御仕置ニてハ下とし
   て一言之善悪難申上、難儀至極奉存候、右申様子御上様ニハ三ケニ百姓作徳之
   様ニ被思召上候、春法御改役人御免相之体乍存知、我意ヲ企、諸人、難ヲ不顧御
   忠節ヲ言立ニ仕、万民ヲ苦め候之儀筆紙ニハ難申上尽奉曹候、全ク三ケ弐百姓作
   徳ニ成申候ハバ、百姓草臥可申様無御座候、
    右申上候様ニ六七歩上納ニ相当申候ニ付、大高抱候百姓は不及申上大形潰申
   候、年々之積ニて当春至作食も所持不仕、堀根等仕只今迄ハ飢死不仕候得共、当
   夏作迄ハ取続難斗奉存候、下作主無御座田地も荒申條ハ、偏ニ悪人供の仕わざと
   奉存候、 以下略
○牛馬売買御運上銀御赦免願上條事
 正徳二年検地してその秋から三歩一上納、三歩二を百姓の取り分としていただきましたが、実際は七歩八歩の上納となり完納すれば妻子家財牛馬を売り払っても足りません。又田畑を売ろうとしても今では買手もない。その上に夏作まで秋作同様の上納をせよと言われても、どうしようもなく呆れはてていたのである。
 牛馬の売買にまで税金を掛けたのである。何という酷政であったであろうか。
○享保十三年中ノ三月三日明石田組惣百姓中から激しい文言で返答次第では百姓も考えのあることを庄屋の添書付て藩主へ申出ている。
 ※ 原文は次の通り
  一、辰之年(正徳検地)小検見己後新規ニ、歳々諸上納相増候ニ付、女房子供牛馬
   に至迄飢ニ及可候ニ付当春先御代之(五代頼旨)通ニ御願申上候覚悟に奉存居中
   候折柄、又々夏成増石被仰付十方ニ暮あきれ申候、何之道ニも先御代之通御仕
   置被為仰付被下候様ニ奉願候、願之通り返答奉承知仕度奉存候。
   若百姓中願の通相立不申候ハバ、御返答次第了簡御座候。 以上
     享保十三年中ノ三月三日
                明石田組惣百姓中
 それぞれ組の百姓から出された難願書に、その庄屋の添書が提出されているので、その中の一つを書いておく。
○享保一三年中年八月  塩足組 庄屋中の添書
 殿様の御申付であるから有難く御受けして上納滞り無いように致さねばなりませんが、実情を申し上ぐれば百姓は年々追送りで今はどうすることも出来ぬまでに成っています。それ故に私達庄屋と致しましても下々の百姓から上納を御言い付の通り、取り立てる事は出来兼ねますので、何卒百姓共のお願い申事を御ゆるし下さる様にと言っている。
 ※ 原文は次の通り
   乍恐奉申上覚  塩足組庄屋添書
   今度村々惣百姓中御訴訟奉申上由ニて書付指出候紙面、当春御家老中様御書出
   ヲ以被為仰渡候御紙上之趣、何も難有安心仕居申候処ニ、今度御書出ヲ以被為
   仰渡候御紙上奉拝見、尚又申上度品ハ御願申上候候ニと被為仰出、難有奉存上
   候、御書出の上御訴訟ケ間敷儀恐至極ニ奉存上候へ共、百姓中奉願上候通年々
   追送ニて秘至度指支困窮仕候ニ付奉願上候、頃日委細被仰付候上ハ御難申上候
   段千万恐多奉存上候へ共、百姓中申上候通実々指支、御物成諸上納銀米以前之
   通全上納仕兼相滞申候得ハ、別て此以後私共取立之儀無覚束奉存上候、御憐愍
   之上ヲ以御難申上候通ニ被為仰付被下候ハ、偏ニ難有可奉存上候、右之段宜被
   仰上可被候  以上
      享保一三年申年八月    塩足組 庄屋中
○享保の一揆に際して出した久留米藩の触書
 この時の一揆に対しては藩の譲歩により農民の要求は認められ、農民側に犠牲者は一人もなく、その時の責任者であった本庄主計が藩主頼維の激怒を受け切腹をし、家老稲次縫は追放逼塞を命ぜられた。
 すぐその後に藩の触書が出ている。
 ※一、検見之事今般重々被遂御詮議、三歩壱上納三歩弐作徳、水旱風損其年之立毛
   ニ随い相違無之様可相定旨、委細被仰出候趣役人中可申渡旨、可得其意事。
百姓共の願い事は相分った、と言いながら次の様な「附」を出して逃げ道を作っている。
 ※ 附 右の通重々御廉直ニ被仰出候上は、検見之儀筋なき願或下改等私曲於有之
 は、急度可被及御沙汰事藩の役人達が正直に検見して決定するのであるから、それ
 に対して文句を言ったり、自分達で勝手に検見をして藩の検見に文句をつけてはなら
 ない。
○兎に角、多く成った分は上納しなくてもよい、昔通りの上納でよいということである。
  ※ 原文は次の通り
   ○夏成増石之事、寒困窮之躰具ニ於達御聴は、可被及御沙汰様無之事候、元来
    百姓儀不令納得儀は被仰付思召ニ之無候故、再往遂詮議候様被仰出候処、兎
    角被仰出可然旨達て申上候ニよって、申渡候様ニ被仰出たる事ニ候、増石不及
    上納、有来通之石高可相納事。
   ○馬売買運上之事、右同然之筋ニ候、向後羽犬塚売買之外、御領内ニて馬売買
    は運上被差免候事。
   ○漁法運上之事、去年申渡候品之儀、元来委細は上ニ御存知不被遊事候條、新
    法之分差免候事。
      右の通可申渡候   戊申五月廿二日
○以上書出された様に農民の要求を藩は認めたのであるが、此れから以後も藩は手を
  変え品を変え収奪を強化していったのである。(筑後地方稲作農業と農民による)

5.苛酷な貢租制度
 久留米藩の公貢租制度は有馬藩農民の苦難の歴史である。はじめは、村高に応じて三ツ七歩五厘の定免であったが、二代忠頼の承応二年(一六五二)に検地が行われ(承応の検地)定免検見併用の土免に改め、ついで則維の正徳二年(一七一二)の正徳検地で新に春法を始め、立毛を逐一検見して、その年の立毛の高に応じて毛実の三分の一上納三分の二農徳と決めた。しかし、この純然たる検見法は煩雑なるため、実施二ケ年にして翌々四年正月には春免法に改めている。この春免法は毎年その秋の収穫高を予想算定し、三分の一征を以ってその租高を定めるものをいい、したがって物成は以前の土免に等しく秋に至って損毛あれば検見の上減免するというもので結句承応の制に復したことになる。同年二月にはとかく不同のあった夏物成を確定し麦と菜種を夏物成と定めて、その惣数およそ大小麦一万二〇〇〇余石、菜種一六〇〇余石を銀値に直して、およそ二百五〇貫目として銀納させることとし、さらに同年三月には本地開地ともに物成一石につき二石二斗四升の割で高役を命じてこれまた銀納と定めている。このように変転をくり返した久留米藩租税制度も、大体正徳年中には定着を見たのであり、 これにより久留米藩一ケ年の免高は、およそ四三万俵から、三七−八万俵前後を往来しているが、ここで特に注目すべき点は、久留米藩には目ぼしい商品作物が殆んどなかったため、近世全期を通じて固定した貢租にのみ頼らざるを得なかったということである。このことは必然的にたえず進展膨張を続ける商品経済の渦中にあって、久留米藩の慢性的財政窮乏をより一層深刻なものにしたのであり、その対策として藩の取った手段は、上米、上銀のほか御家中家来人別銀、在町畝掛、小間掛と称する一種の人頭税の賦課、田掛とは田畑に対する臨時の税であり、小間掛とは町家に対してその家の広さに対して賦課した税および銀札の発行等のくり返しであり、そして又、時々思い出したように発せられた勝手方改革令と倹約令であった。
一、享保一七年(一七三二)ウンカの大発生により稲作が大被害を受けている。その時藩令が出されている。稲作が損毛で百姓共が難儀しているが、お上は打続いての御差支で御救いの米も出せない。大庄屋、小庄屋達貯えのある者から出し合い、その組々で助け合い飢える者が無いようにせよと言い、反面食う物が無いからと百姓達が集合、いろいろ相談して藩に対し不平がましい事を思い立つ事はならぬ、若しそうした事が起った時は大庄屋、小庄屋は騒動を思い立った者と同罪だと触を出している。
 飢え死した者が一万一千二百人も出た享保飢饉の年も八三、七五二俵の年貢米を上納させている。二俵か三俵残りを持っている者からは上納を取り立てる事が出来るが壱斗しか残っていない者は極々の貧乏人であるから取ることが出来ない。一組に凡千人飢人があり間には餓死もあると書いてある。
 当時三瀦郡には下記の大庄屋があった(享保一三年−宝暦四年)城島組、福光組、生津組、八町牟田組、蛭池組、江上組、夜明組以上七組であった。
 ※ 藩令の原文は次の通り
 一、及飢候類百姓共、若相集何角致相談党を結或ハ理不尽之仕形決て無之様、大庄
   屋、小庄屋共堅可相示候萬一左様之もの於有之は、様子ニよって頭人同然之科
   可被仰付候、此段可被申候渡候。
お上は今勝手方逼迫で急にお救いの手段も立てられないので、村々の中で貯えのある者で救って行けと言ったが、誰も貯えを出す者はなかったようである。
我々の祖先は、苛酷極まる貢祖に耐えながら草根、木皮で飢えを凌いだ事を思うとまことに感慨無量なものがある。(筑後地方稲作農業と農民による)

6.筑後の百姓一揆
 徳川幕府時代、久留米藩にいろんな事件が起ったが、そのなかで大きな騒動は享保・宝暦の百姓一揆である。
 藩の財政を支えているものの大部分は、農民の働きによる年貢であったが、水害・旱害・暴風・虫害と、うちつづく天災・飢饉に打ちのめされながらも、農民は、貧弱な農具で営々として土地を耕し、種子をまき灌漑・収穫と汗を流したが、厳しい租税のとりたてに、それは惨めな生活であった。
 ふだん素朴で柔順な百姓も、生死の土壇場に立てば悲痛な叫びをあげて、その苦しみを訴えずにはおられなかった。そして決死の抗争を起し、村・郡とこぞって権力者に抵抗するに至った。これが農民暴動すなわち百姓一揆である。特に享保・宝暦の一揆は有馬藩政の中でも特筆すべき重大事件で、三瀦郡大木町地方の農民にも非常に関係ある騒動であった。なお、享保一三年(一七二八)ごろまでの、この地方の天変人災の概略は次のとおりである。
 宝永 五年(一七〇八) 二月二日強雨洪水、五月二二日大雨洪水五〇年以来である。人災としては、
                  五月一四日禁裡御普請手伝を申しつける。
 正徳 三年(一七一三) 三月在町御救米出る。春飢饉・在町飢人・穀物高値、七月大風雨高潮・榎津・浮
                 島・青木島人馬六七〇余死ぬ。
 享保 四年(一七一九) 五月洪水、六月大旱魃、七月大雨洪水、八月大雨大風、冬中雨天続く。
 享保 五年(一七二〇) 六月大雨・洪水。洪水に流れ収穫皆無で飢饉が起こる。
 享保 六年(一七二一) 六月大洪水、夏旱魃にて不作、からつゆ続く。
 享保一〇年(一七二五) 四月雨降続・洪水、七月秋蝗多発生する。
 享保一一年(一七二六) 五月大雨洪水・瀬下町の浸水五尺(約一・六米)七月五日大風。

 これを見ると、ほとんど毎年、洪水・旱魃などが起っており、また、このころの藩政の状態は次のとおりであった。
 宝永 四年(一七〇七) 一一月諸国銀札通用停止のことを江戸から申して来た。三年前に発行の銀札を停
                  止。そのため物価は高騰する。
 宝永 七年(一七一〇) 四月在町畝掛三匁五分、下人一匁五分、人別銀などを命じてくる。
 正徳 四年(一七一四) 二月春免法制定=田畑年貢は春法を留めて春免などを命じてくる。
             注 春免法とは毎春その秋の貢数を計算し三分の一の税をまえもってその高を定め
                ること。
 享保 二年(一七一七) 田畑竿入。草野又六大検見をする。夏成一反に付一斗、或は二斗ずつ上納させ
                 る。これは他年農民に大害を生ずる根本となる。
 享保 六年(一七二一) 御領中銀通になる。新銀一匁につき七二交替。
 享保一三年(一七二八) 二月夏物成の上納率が一〇分の一であったのを三分の一に引きあげる。


  (1)享保の百姓一挟
 享保三年(一七二八)二月に、享保一揆が起った。その発端は、藩主則維の側近、本庄主計が財政方に登用され自分の権勢を増大するため、享保一三年二月夏物成(大豆・麦・辛子)の上納率を正徳四年に決められていた、一〇分の一を、三分の一に引上げたことに直接の原因があった。それとまた、今迄の税徴収のやり方にも不満があったからである。
 上三郡(生葉・竹野・山本)の農民は、「正徳二年の税制改革が、検見けみに際して朝露のうった稲穂を検量したため、升目ますめ(枡ではかった量)が余分に増されている。収穫の高い田を検見して、それを基準にされたので極めて不利になり、米年貢の上納量が三分の一をはるかに越えていることを強調し、「今回更に夏物成(麦・菜種など)を一〇分の一から三分の一に増やされては、今でさえ苦しい生活が尚苦しくなるので、年貢の量を、米・麦・菜種も正徳二年前に戻すことを主張した。夏物成は総数およそ麦大小一万二千石、辛子千六百石余、これを銀に直して銀納すべて二百五十貫目、この高を銀納せねばならなかった。農民は農地に五穀は実らず、過重な納税に苦しみ、各種の公役にも狩り立てられ、あわ・そば・大根・いも・木の実・野菜などを常食とし、やっと命をつないでおり、次第に餓死する者が出るようになった。
 享保十三年正月二五日、藩主則維参勤交代のため江戸へ出発の朝、城門前の門松を抜き取り、土足で踏みにじっている農民がいた。出発は延期され二月二〇日に出発した。
在方総才判さいはん(総管理者)本庄主計は、「上納についてこれで出来高十分の一であったものを三分の一に改める」と領内農村に布告し、その布告書の中に「今までの上納額が軽る過ぎたので、米飯を食っている百姓がいるが、これは極めて不埒である。上納後の余米は、雑穀(麦・豆など)と代えて食うべきである」という字句があった。
 これは農民の心を極度に刺激した。「生葉(浮羽)・竹野・山本を初め、三瀦・上妻・下妻」の六郡は、いきなり立って不穏の集会を開き、重税対策の協議をした。この険悪な事態を察して、家老有馬監物・有馬内記等は年貢新税法を撤回したがよかろうと協議し、江戸の則維に早打ちで報告したが、則維は折返し家老に「百姓如きに恐れをなすのは腰抜の所行、断固として処断し、新税法を施行せよ」という返事であった。農民は憤激して城下に忍び込み、側近の武士を夜の暗みに紛れて袋だたきにし、藩の公共物を破壊したりすることが多くなった。藩では馬回役といって大将の馬のそばに付き添い、護衛に当たる騎馬の武士を増して、城下の警備を厳重にした。
 一方農村では、大庄屋・庄屋を除いた全村民は、誓詞連判を取て結束を固めた。八月一八日には、山本・竹野・生葉の三上郡の百姓五千七百余人が善導寺に勢揃いし「上納軽減の即時実施」を要求目標に、むしろ旗を押し立て嘆願書をかざし、二〇日の夜善導寺を出発、追分町まで進み、二三日迄同地に滞在、二三日には府中切通しまで来て、城下に押し寄せることを決議した。三瀦地方の農民も、これに呼応して直訴の実力行使をなす行動体制が整った。
 この時、表方御用番有馬因幡は、郡奉行安藤和久之丞・粟生佐太夫を、馬で御井町に駆けつけさせた。
安藤和久之丞は「有馬因幡殿は、農民の希望を御きき入れになり、今後は以前の上納法に返すことは勿論、更に春免物成は、高一〇石につき一石一斗之減免を、ここに堅く約束され御書状を下された。因幡様を信じてすぐに解散し、家業に励むよう郡奉行として申し渡す」と言った。
 有馬因幡の書状を見て、郡奉行の言葉が真実であることを知り、夢かとばかり驚喜し、しだいに退散した。
 九月一七日、春免御物成一〇石につき一石一斗の御減赦となり即時実行された。一一月三日、本庄主計やその子平右衛門と久米新蔵は、庄島弓小路の明屋敷で「上をかすめ下を欺き、百姓騒動に及びし候段不届の至り」ということで死刑となった。一揆側は、一人の犠牲者も出さなかった。それで農民は有馬因幡の恩に感謝をなし、久留米市通り外町に五穀神社として彼を祀ったのである。
 その後、享保一四年(一七二九)四月大旱魃。八月大風・大雨。同一五年(一七三〇)四月二七日、暴風洪水麦熟せず在方笹の実を取って食った。同一七年(一七三二)三月大火・大雨続く。五月大雨洪水、閏五月九日洪水、六月より七月まで気候不順、日々霧雨が降り蝗大発生し、久留米領飢饉。飢餓迫り三瀦郡の一組飢人凡一千人あり、間には餓死する者や病死したり行倒れの者も出た。
 在町は粟・そば・芋・大根を、山辺の者は柿・栗・樫の実だんご・檪の実だんご、里辺は芹・嫁菜の類を食う程であった。一七年(一七三二)九月二日、藩は公儀(幕府)から一万五千両を拝借し、凶災に備えた。同年一一月穀物・野菜は高値になる。この一七年から翌一八年の秋穀の収穫まで大飢饉で、領内死者は合せて一万千百九十八人であったが、農民はじっと我慢して芹を摘み、嫁莱を食って耐えた。
これは有馬因幡の処置に感激したからである。
 このころ惨状を次のように記録している。すなわち、一七年に久留米領内で飢人・餓死者がでてきた。
そして、三瀦郡では、まず、各農家の農耕馬が餓死するその数三九〇余匹。一七年一二月一四日に、南筑後方面の御救御売延米二万俵が若津港に着船した。一八年、耳納山へ葛根握りに登る者が多くなったが、握りながら力つき山で餓死する者が続出す。享保一八年(一七三三)二月一一日領内飢人を調べるため、在々へ下見役を差し出して調べたところ、ただ今餓死二千人飢人一万人程あり、飢人は次第に増していったとある。
 また、三瀦郡下に時疫流行し木佐木村辺り「どこの家も二〜三人病臥し、上高橋村飢人三百人余、ただ今迄に六十人が餓死した」とある。このような悲惨な状能で、郡中の農地は荒地が多く、公役で田植をするため惣郡割付夫が出た程であった。
 一八年一・二月ごろ五穀の値段急に高くなり、米一俵正銀(銀貨)四十八匁、銀札で一五○目余。米二十文銭百六十目、粟百四十目、蕎麦仝値段、大麦百二十日、二月一日米二百目一升百二十六文売(石原家記) とある。

  (2) 宝暦の百姓一揆
 享保一三年の百姓一揆後も、天候不順がつづき、毎年農作物の結実・収穫期に、洪水・暴風雨・旱魃などが続き、くわえて蝗・ウンカが多量発生し、作物は減収、または、壊滅的な打撃を受けた。その間に、悪性の流行性感冒や疫病さえ広がり、うちつづく天災・飢饉で領民の生活は塗炭の苦しみであった。
 宝暦三年(一七五三)一月、幕府は諸国の大名に備荒貯穀を命じた。久留米藩は一一月二二日、公儀(幕府)から御囲籾を命ぜられた。米二万一千俵御囲になり、内一万俵買上の筈であったが、その支払いがなく、みな農民の負担となったので大問題を起す一つの原因となった。
 当時藩内の世相は、一般領民は、餓死寸前であったが、領民の徴税賞罰の権を与えられていた大庄屋・庄屋は、藩主の権威をかさに着て、厳しく年貢を取り立て、その幾分かを必ずごまかして我が物とし、藩当局には飢饉のため租税が十分に集らないことを理由として、庄屋は二棟・三棟の土蔵には常に貯蔵米が山をなすという状態であり、また、米をつぶして酒を造ることを禁じられていたが、上層階級では公然と白酒が炊まれた。
 七代藩主有馬頼?は、世界的な和算の研究家として知られていたが、藩行政については、至って放漫的で顧りみず、その上豪遊三昧の行状であった。その一つとして、大川村若津に新しく遊女町をつくり、頼?好みの御殿を建築して、その費用を領中百姓に課したのである。
 頼?の藩主在職は、五五年の長きに亘ったため、藩の財政は慢性的に窮乏に陥り、大阪の鴻池や江戸商人からの借財がふえていった。このように破綻した財政を建直すために、窮令の一策として、前代未聞の人別銀という特別税、即ち八歳以上の男女共、一人一率に銀六匁の賦課を、宝暦四年(一七五四)二月二二日命じた。銀六匁は、米一斗五升分に値していたのである。
 天災にたたきのめされ、苦しみに喘ぎながら、苛酷な重税に耐えてきた農民は、いよいよ生きてゆくぎりぎりの線まで追いこまれ、遂に、藩内全域でこの圧政に対し、三月一九日、立ちあがった。三瀦と下津・上津三郡の一六歳から六〇歳までの男は西牟田原に集り、その数六万といわれた。また、生葉・竹野・三井・山本・御原の五郡は筑後川八幡川原に集まりその数一〇万といわれた。集団は納税減免と人別銀法撤回請願のための同盟誓詞の膨大な血判状を掲げ実力行動を起す。
農民は蓑笠を着て、手に手に鎌や鉈をひらめかし、数丁の鉄砲も持っていた。狂気の如き群衆はときの声をあげ、いたるところの大庄屋・庄屋・用達の家など六〇軒を打壊し、必死の抵抗で藩の悪政を糾弾した。久留米藩は一挙にして未だかってない騒乱の坩堝と化したのである。この時、藩では、農民を相手できる人物は、家老有馬石見以外には一人もいなかった。頼?の母、盛徳院の内命を受けた岸民部は、荘島にいた有馬石見の下屋敷(別邸)に行き「今回の一揆は久留米藩でいまだかってない大事件であります。このまま手遅れしたなら、一揆の農民はなだれをうって、城内に乱入し、久留米城は、またたく間に修羅場となること必至、そうなると重大な落度となり、きっと闕所(所領没収)又は国替になると思います。二一万石藩の存亡をかけた大事件であります。どうかお救いを」と言われ有馬石見は立ち上がった。そして石見は総奉行山村典膳を浮羽へ、岡田頼母を三瀦の方へ出向かせ、次の高札を辻々に立てさせた。
 一 郡中総百姓のこの度の駆動については、一人も咎人(罪人)を出さないから安心す
    るがよい。
 一 郡中当年の植付には格別精を出すこと。もっとも当一カ年問は御年貢半納と定め
    る。
 一 今後、諸種の願事は石見屋敷へ直接訴え出ること。
 領民は初め、あまりに寛大な布告を見て疑ったが、青山秀左衛門は各郡の指導者を集めて、石見家老の言葉に間違いないことを伝えたので、農民一同は歓喜して、石見に感謝し、それぞれの村へ帰り、一揆の騒動は鎮まった。其後参勤交代を終えて、帰藩した藩主頼?は、この一揆に対し左のような極刑でのぞんだのである。
 ○死刑 三七名 ○追放 七六名 ○過料 四七名 ○逼塞 三名 〇出牢居村差返 二九名
 右のうち本町関係の尊い犠牲者は左の通り。
  三瀦郡八町牟田村  百姓  又右衛門
  三瀦郡八町牟田村  百姓  儀左衛門
  三瀦郡上八院村    百姓  藤 八
  三瀦郡吉祥村     百姓  長右衛門
  三瀦郡大角村     百姓  孫兵衛
  三瀦郡土甲呂村    百姓  加 吉
  三瀦郡八町牟田村  百姓  孫右衛門


※(三)〜(二三) 省略
※二 大木町の商業〜三 商業(製品) 省略