第四章 教育と文化

 第一節 教 育

   一 学校教育

(一)古代・中世の教育
 古代の学校は特権階級のために組織化されたものであって、わが国では、大化の改新(六四五)の後、天智天皇(六六二〜六七一)のころに初めて学校が興こされた。百濟くだらの帰化人、鬼室斯がその学職頭に任じられた。
 天武天皇(六七三〜六八六)の時代、養老律令の規程によれば、帝都には大学、地方には国学の二種 類がおかれることになった。延喜式(九〇一)には新に太宰府の学校制度が加わるので三種となる。
 国学は各国に一箇所を設け、官人かんにんの子弟を入学させた。
 太宰府には儒学を主とした学業院が天平勝宝六年(七三四)吉備真備きびのまきびにより創設されたといわれる。
 平安時代になり空海は、綜芸種智院しゅげいしゅちいんを興こし庶民に学問を授けた。平安末期となって、教育制度は全く影を没した。
 鎌倉時代、学問は主として僧侶や公家の教育のとしてその姿を保った。
 室町時代、天正一五年(一五八七)以来、筑前・筑後・肥前の一部を領するようになった、小早川隆景は、居城名島に学校を設けた。室町時代、足利学校が再興され貴賎を問わず学才のある者の入学を許 した。足利学校は兵乱の間でも学問の灯を絶やさなかった。寺院は僧侶の子弟を教育する重要な教育機関であったが、室町末期から庶民の教育機関として、寺小屋に形態を変えはじめた。

(二)近世の教育
 徳川幕府が寛永元年(一六ニ四)江戸忍ケ岡に学舎を設け(後に昌平坂に移す−昌平黌と称する)林羅山に儒学(朱子学)を講じさせると、地方の諸大名もそれにならい、藩学を開いて子弟の教育をはかるようになった。城下以外の地方には士民のため郷学が延宝年間(一六七三−)より創設されたが、大部分は天明年間(一七八一−)以降のものが多い。
 塾や学問所が栄え、寺小屋か普及したのもこの時代である。

1.藩 黌
 久留米藩の藩黌は、天明八年(一七八八)設立した講談所(修道館)を寛政八年(一七九六)に改称したもので、当初左右田尉そううたじょう九郎(朱子学)、樺島石梁(折衷派)などを教授とした。
  柳河藩の伝習館は当藩学の草創者、安束省奄(朱子学)の曽孫安東間庵の邸内に聖堂とともに設けた 講堂を基として、文政七年(一八二四)に創立したものである。

2.塾の教育
熊本原仲の墓(横溝町)
 漢学塾では、作詩作文を重視し、人格の陶冶に力を入れたので、塾主の人格をしたって学ぶ者が多かった。修業期間は三〜四年で、 特に寄宿舎での厳格な人格教育は高く評価された。塾生の年齢は十五歳以上で、一応寺小屋を終了し将来学問で 身を立てようと志す者が多く、神官僧侶、ある いは医師の子弟が大部分であった。向学の人は近隣の塾に、中には遠く日田の咸宜園かんぎえんに学んだ 者もいる。  この地方では、漢学塾として旧木室村(大川 市)に熊本正誼を塾主とする相良館、豊島篤次の克終堂(旧大善寺村)鳥飼村(久留米市)の若林残夢の塾があった。熊本原仲は文政年問(一八一八〜一八二九)に横溝村(大木町)に漢学塾を開いた。
宮崎信敦屋敷(蛭池)
 国学、歌道の塾としては旧木佐木村(大木町)の神官宮崎信敦が文政年間(一八一八〜一八二九)、同村において国学和歌の教授に あたり、久留米藩内の歌道の発展を促進し、真木保臣等の詩歌の添削をもし、永松忠行(旧大莞村)等の歌人を生んだ。
 大木町他郡内の塾は旧三潴郡誌などによれば左の通りである。

 大木町他郡内の私塾表(三潴郡誌他)
 所在地 開塾期間  開塾年 学科  塾 主 塾主の先師  備   考
三潴郡横溝村 文化年間 文化年間 漢学 熊本原仲 高山畏斉
西依成斉
横溝町共同墓地内に
石碑現存する
木佐木村 文政年間
天保年間
文政
七年
国学
歌道
宮崎信敦 香川景樹

明治以後開設の塾
 塾名 住 所 開 設 時 期 学科 塾 主 塾主の先師 その他
泡来舎 青木村 明治四−明治一二 国学 武田巌雄 船曳鉄門
三潴吟社 城島町 明治二〇−大正三 漢学 星野一郎
武田巌雄
広瀬林外
大溝村 漢学
国学
井上速見 柴山文平
糸山貞幹
船曳鉄門
大莞村 明治二五年頃 漢学 永田正樹 船曳鉄門 明治後半より大正初期に
かけ子弟の教育に当たる。
明楽寺境内に記念碑が
あるが碑面が荒れ判別し
難い。

文化七年(一八一〇)より明治三年(一八七〇)に至る六〇年間に、本町関係者で、日田の威宜園に 入門した人は咸宜園の入門簿によると左の表の通りである。
入 門 年 月 日 本 籍 本人氏名 入門当時の年齢
文政一一年二月二四日 荒牟田正念寺 釋龍音
天保五年三月一四日 蛭池 宮崎桃枝 一八
弘化四年二月一五日 荒牟田正念寺 浄栄 一九
萬延元年四月一六日 大角 田中重仲 二〇

3.寺小屋
  一七世紀の後半から各地に庶民教育が勃興した。八代将軍吉宗は経済財政難打開には知識の啓蒙が必要であり、また子弟の不良化を防ぐ上にも教育が必要なことを痛感し、室鳩巣むろきゅうそうに命じて「六諭衍義ゆえんぎ大志」 を作らせ、これを寺小屋における訓育の基本とした。寛政年間(一七八八〜一七九三)老中松平定信は 文武の奨励をし、庶民教育にも大きな影響を与えた。天保(一八三四〜一八四三)に入り水野忠邦の庶 民教育奨励で寺小屋が発達し、慶応(一八六五〜一八六八)まで続いた。寺小屋の師匠は都会では浪人、農村では僧侶、神宮・医師が多く、読み書きだけを教えるのが最多で、算術を加えたものがこれに次い だ。寺小屋は天保年間から慶応年間にかけてが最盛期で、全国各地、大字程度の地域に一軒位の割りで 寺小屋が開かれていたと思われる。寺小屋に入る子供の年齢は八〜九歳からが最も多く、一応全体の課 程をすませるには四〜五年以上かかるので、全課程を受ける者はごく少数に限られた。
 旧三潴郡誌による本町関係の寺小屋は左の表の通りであるが、ここに掲載する以外にも開設されてい たものがあったと思われる。

 大木町で開設された寺小屋(旧三潴郡誌)
所在地 学科 継続期間  師匠名 課 目  備  考 
大溝 井上千尋 読書算 大角三島神社境内の西隣に門弟が明治23年
建立した記念碑がある。
大溝 中島次助 右同
木佐木 宮崎浪穂 右同
木佐木 吉武常磐 右同
木佐木 野田素一 右同
木佐木 馬場伴作 右同
木佐木 熊本俊夫 右同
木佐木 籠護仰山 右同
木佐木 田中霊巌 右同
木佐木 鶴岡嘉三郎 右同
木佐木 鶴岡為八郎 右同
木佐木 田中次平 右同
木佐木 富松卯助 右同

(三)以下省略