第二節 文  化

    − 宗  教

 (一) 神  社
 敬神崇祖の精神は、我が国民の伝統的な精神であるが、戦後(昭和二〇年以降)は宗教の自由が叫ばれ、神社への関心は昔時の面影も薄れている。然し、現在も国民生活の中には、いろいろな行事を通して、この伝統的精神は生きつづけているといえよう。次に本町にかかわる神社の変遷と現況についてみてみよう。

1 神社の変遷
 天慶七年(九四四)平安時代の筑後国神名帳によれば、三瀦郡内に五三社があったといわれている。
本町関係の神社は見当たらないが、横溝本村の広門神社は、元慶二年(八七八)郡司境伊賀建立した記録がある。
 その他、本町にある神社建立を調べてみると、古いものは平安時代平治元年(一一五九)より南北朝時代永和二年(一三七六)までに一七社、次に室町時代永正三年(一五〇六)より江戸時代寛文一一年(一六七一)の間に二社を数えるが、あとは建立年月日はわからない。

2 神社の整理
 明治二一年一二月福岡県神職会議所三潴支所(後福岡県神職会三瀦支会という)が設けられてから、神職学識の修養祭式礼典の研究、神社由緒等の調査が進められた。
 明治三九年神社合祀の訓令により、神社行政の大革新を行い神社合祀が行われた。また、同年四月勅令をもって神饌幣??料を供進することの出来る神社の指定方が制定された。
 本郡でも大正四年二月神社整理の大方針を定められ、整理に着手された。その時、村社六社及び無格社二〇七社が合併されている。現在福岡県神職会三瀦支部があり、神道文化の向上や関係機関との連絡に当たっている。
 社格は、明治六年に決定された。本町内には県社なし、郷社二社、村社二一社があった(その他は無格社)が戦後昭和二一年に至り、それらの社格は廃止された。
  〇 府県郷村社昇格標準は次の通り決められていた。

   府県郷村社昇格標準
      府社・県社への昇格標準  郷社への昇格標準 無格社より村社
への昇格標準
由   緒一、延書式若しくは六国史所載の神社
二、又は一国の総社、一郷の総社たりしもの
三、又は祭神の功績史乗に顕著にしてその地方に縁故
あるもの、 又は特別の由緒ある神社
仝 上
境 内 地六百坪以上五百坪以上三百坪以上
社  殿本殿・拝殿・鳥居及社務所
但し、社殿の構造、境内の風致等其の府県内
の壮観にして最も著名なるものたることを要する
仝 上本殿、拝殿、鳥居
財   産現金五千円以上若しくは之に相当する国債証書
又は土地
三千円以上二千円以上
氏子崇敬者二千戸以上千戸以上二百戸以上

3 各神社の現況

 (1) 三島神社 (旧郷社) 蛭池
三島神社 蛭池
  大木町大字蛭池字宮前にある。祭神は、事代主神・春日大神・住吉大神・八幡大神・高良玉垂命である。延応元年(一二三九)西牟田弥二郎家綱が、地頭職に補せられ、伊豆国より宮地に来て、寛元二年 (一二四四)庶子牟田筑前守家村に至り、父の意をつぎ尊崇したという。また、父が伊豆三島神社を當地に勧請したともいう。当時は鎌倉幕府が神祇の崇敬に、特に意を注いだので、累代八幡神を崇敬したのは当然で、守護地頭として赴任した御家人は、夫々各地に八幡宮(八幡神)を建立したのである。尚、境内の祖霊社は、当地の地頭牟田筑前守の霊を鎮祭している。明治六年三月一四日郷社に指定されたが、昭和二一年廃止された。
 例祭は一一月一五日である。現在の神官は宮崎明である。当社に関する古文書が宮崎神官宅に保存されている。

  (2) 三島神社(旧郷社)大薮
  大木町大字大薮字大薮にある。祭神は事代主神・春日大神・住吉大神である。寛延記によれば鎌倉時代正安三年(一三〇一)大薮地頭高橋丹藤兵衛藤原基氏が、伊豆国より勧請して建立し、九月一七日より一九日まで、田中村・大薮村・奥牟田村の三村から祭礼を勤めた。尤も古来社領一二町あった時は、二月一五日、一二月一五日祭礼が行われ、御幸、やぶさめなどの行事があったが、その後領主田中兵部に至って退転したと伝えられている。当社は明治六年三月一四日郷社に定められたが、昭和二一年廃止された。現在の神官は永田恕一である。
 尚当社の楼門は大木町では、稀な彫刻による二階楼門の建造物である。

三島神社 大藪広門神社 横溝

(3) 広門神社 (旧村社) 横溝
  大木町大字横溝字本村にある。祭神は、住吉大神、息長足姫命(神功皇后)である。町内に祀られている神社の内では最も古い神社で、元慶二年(八七八)、郡司境伊賀によって、摂津国住吉神社より勧請された。境内には郡司境伊賀を祀る祠がある。然るにこの最古の神社も昭和五五年火災により神殿及拝殿が焼失し、祖霊社、楼門、末社を残すばかりとなっていたが、昭和六二年神殿、拝殿・楼門は再建された。境内に再建碑が建てられている。
 尚明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止となった。例祭は陰暦一一月九日である。
当神社に関する古文書が、当地内藤勝幸宅に保存されている。

 (4) 志賀神社 (旧村社)前牟田
志賀神社 前牟田
 大木町大字前牟田字粟内にある。祭神は、綿津見(わたつみ)三柱神(底津少童(そこつわだ)命・中津少童命・上津少童命)を祀る。嘉禎二年(一二三六)中村伊豆守が勧請した。その後、亨禄元年(一五二八)斉藤加賀守隆実寛文記には加賀守澄実となっている)再興すると伝えられている。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止となった。例祭は一二月一九日である。

 (5) 高良玉垂命神社(旧村社)笹渕
高良玉垂神社 笹渕
 大木町大字笹渕字北ノ前にある。祭神は、武内宿禰、住吉大神、譽田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)を祀る。嘉禎二年(一二三六)江上備後亟種冬が勧請した(寛文記には摂津国住吉より勧請したとある)明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止となった。例祭は一二月一五日である。

  (6)三島神社(旧村社)大角
  大木町大字大角字宮本にある。祭神は事代主神、春日大神、住吉大神で、由緒は不詳である。(蛭池三島神社神官の話によれば、蛭池三島神社の分霊とのことである)明治六年三月一四日村社に定められる。大正一〇年七月二〇日大字大角町の三島神社を本社に合祀したとある。昭和二一年村社は廃止された。例祭は一〇月一五日である。

三島神社 大角大雷神社 福土

  (7) 大雷神社 (旧村社) 福土
  大木町大字福土字福間にある。祭神は雷神玉依姫命を祀る。永正三年(一五〇六)勧請した。(また寛文記によれば永正二年(一五〇五)津根田又左衛門が建立したとある)村社であったが、昭和二一年廃止された。例祭は一二月一二日である。

  (旧無格社)

番号  神社名  所 在 地   祭  神   由緒 (又は例祭) その他
 8住吉神社  福土、土甲呂住吉大明神  嘉禎二年(一二三六)勧請した、江上種冬が
建立した境内には田中吉政を祀る祠がある
 9若宮八幡神社前年田、平野息長帯姫命
品陀和気命
10兵部神社  横溝、横溝町田中吉政田中吉政は関ケ原役後、筑後一円三二万五千
石の大名として、柳河城に移り、慶長一四年ま
で、この地方を治めた功績は大きい。
特にこの地では柳川より久留米に至る道路を
開き「御免地」をもうけたので、この道路一帯は
拓けていった。
それゆえ、この地方の人々は田中吉政を祀り、
その功績をたたえお祭りをした。これを「田中
祭」といった
11月読神社  横溝、道本月夜見命 俗に三夜さんと呼んでいる
12天満神社 横溝、堀田菅原道眞祭礼は八月二五日
13天満神社 横溝、池ノ上菅原道眞
14若宮八幡神社横溝、五反田仁徳天皇
15天満神社 上白垣、沖田菅原道眞

 (16) 木本神社(旧村社) 八町牟田
木本神社 八町牟田
  大木町大字八町牟田字中江にある。祭神は泣沢女命を祀る。元久元年(一二〇四)に勧請した。また、寛延記によれば、木本大明神の御神体石像、木本宮は承久元年(一二一九)八町牟田村民部の開元建立すると申し伝えがある。
 明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止となった。例祭は一一月一一日である。

 (17) 天満神社(旧村社) 八町牟田
  大木町大字八町牟田字宮内にある。祭神は菅原道眞を祀る。承久三年(一二二一年)野口道覚が勧請した。寛延記によれば、天満大自在天神絵体を承久二年(一二二〇)野口道覚が筑前宰府より勧請したとある。
 明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止となった。例祭は一一月一七日である。尚、境内の楠の大木群は、町内唯一の町指定の文化財天然記念物として保護されている。

天満神社 八町牟田高良玉垂神社 絵下古賀

 (18) 高艮玉垂命神社(旧村社) 絵下古賀
  大木町大字絵下古賀字宮前にある。祭神は、武内宿禰、筒男三神(底筒男之命、中筒男之命、上筒男之命)応神天皇を祀る。平治元年(一一五九)建立とあるが、由緒はわからない。
  明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止となった。例祭は九月九日である。

(19) 玉垂命神社 (旧村社) 侍島
玉垂命神社 侍島
  大木町大字侍島字宮脇にある。祭神は武内宿禰、少童三神(底津少童命、中津少童命、上津少童命)応神天皇である。永和元年(一三七五)領主大膳が高良山より勧請した。
 明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。
例祭は陰暦一一月一三日である。

 (20) 三島神社 (旧村社) 上木佐木
  大木町大字上木佐木字宮前にある。祭神は、事代主命、住吉大神、春日大神を祀る。由緒はわからな い。明治六年三月一四日村社に定 められたが、昭和二一年廃止された。例祭は一〇月一三日である。

 (21) 三島神社(旧村社) 上牟田口
  大木町大字上牟田口字三所にある。祭神は、事代主命を祀る。由緒はわからない。
明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。

三島神社 上木佐木三島神社 上牟田口伊弉諾神社 上八院

 (22) 伊弉諾神社 (旧村社) 上八院
  大木町大字上八院字南立堀にある。祭神は伊弉諾命、伊弉册命を祀る。由緒はわからない。
  明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は一一月一五日である。

  (旧無格社)
番号 神社名 所 在 地  祭   神    由緒(又は例祭) その他
23天 満 宮上木佐木上菅原道眞例祭は九月二五日
24大 神 宮上本佐木上天照皇大神例祭は一月一六日、五月一六日、九月一六日
25天 満 宮上木佐木中菅原道眞例祭は九月二五日
26三島神社上本佐木下事代主命例祭は一二月九日
27東天満神社上木佐木下菅原道眞例祭は一月二五日、八月二五日
28石案天満宮上木佐木下菅原道眞例祭は九月二六日
29天満神社上牟田口北菅原道眞
30広瀧神社上牟田口南大日霊貴、日本武尊併祭、応神天皇、宇賀魂命
31権現宮 上牟田口南天忍穂耳尊
32天満神社上八院下菅原道眞天明元年(一七八一)再建される。祠宮松本長
門主信治、庄屋的場儀平の記録がある
(平成四年わかる)

(33) 今松神社(旧村社)  高橋
  大木町大字高橋字高橋にある。祭神は、事代主命、今松権現、住吉大神、春日大神を祀る。正慶元年(一三三二)大薮村領主高橋藤兵衛弟高橋三河が高橋村に移り、大薮村三島神社を勧請した。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は、一〇月一一日である。
今松神社 高橋三島神社 大藪(小入)
 (34) 三島神社 (旧村社)  大薮
  大木町大字大薮字小入にある。祭神は、事代主神を祀る。寛文記によれば、嘉元二年(一三〇四)富 安蔵人が伊豆国より勧請したとある。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。
例祭は一〇月二二日である。

 (35) 高良玉垂神社 (旧村社)  奥牟田
  大木町大字奥牟田字西村にある。祭神は、武内宿禰を祀る。寛文記によれば、永和元年(一三七五)八月一五日池上蔵人が高良山より勧請したとある。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は九月九日である。
高良玉垂神社 奥牟田三島神社 三八松(荒牟田)
 (36) 三島神社(旧村社)  三八松
  大木町大字三八松字荒牟田にある。祭神は、事代主神、住吉大神、春日大神を祀る。伊豆国三島神社より勧請した。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は一〇月一六日である。

 (37) 老松神社(旧村社)  三八松
老松神社 三八松
  大木町大字三八松字中村にある。祭神は、菅原道眞、父是善、母を祀る。永和二年(一三七六)勧請した。寛文記によれば、太宰府より勧請したとある。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は一〇月一五日である。

 (38) 三島神社(旧村社)  三八松
  大木町大字三八松字吉祥にある。祭神は、事代主命を祀る。建仁元年(一二〇一)蒲池村より勧請したとある。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は一〇月二〇日である。
三島神社 三八松(吉祥)三島神社 三八松(野口)
 (39) 三島神社(旧村社)  三八松
  大木町大字三八松字野口にある。祭神は、事代主神を祀る。元久二年(一二〇四)蒲池村より勧請した。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二二年廃止された。例祭は一〇月一七日である。
 
(40) 八幡神社(旧村社)  三八松
  大木町大字三八松字中野にある。祭神は、応神天皇を祀る。寛文記によれば、元久二年(一二〇四)山城国より勧請したとある。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は一〇月一五日である。
八幡神社 三八松三島神社 筏溝
 (41) 三島神社(旧村社)  筏溝
  大木町大字筏溝字水町屋敷にある。祭神は、事代主命を祀る。建仁元年(一二〇一)勧請した。寛文記によれば蒲池村より勧請したとある。明治六年三月一四日村社に定められたが、昭和二一年廃止された。例祭は一〇月一七日である。

   (旧無格社)
  番号 神社名  所 在 地  祭  神     由緒(または例祭) その他
  42 琴 平 社 奥牟田東  大物主命、宗徳天皇
  43 天 満 宮 奥牟田西  菅 原 道 眞   例祭は八月二四日

 〇平成三年現在の大木町内神社受持神職名は次の通りである。
 ・宮崎 明(蛭池) ・永田恕一(三八松) 宮崎熊男(住所大川市下牟田口)
 ・広松光久(住所大川市下八院) ・松本守一(住所城島町内野)

 (二) 寺  院

1 佛教の変遷
第二九代欽明天皇の時代(五三九〜五七一)に百済より佛教経論が伝わり、初めて、佛教が朝野に伝播していった。本町内の寺院にも、時勢の変遷に伴い盛衰があった。廃寺等の、古文書から現在の寺院までの記録を見るに、延暦・寛元年中の事も一部記述されているが、現在あるものは主として室町時代から安土桃山時代に建立された寺院が多く、一〇寺院を数え、更に現代に至って、三寺院が建立され、計一三寺院が現存している。
 寺院とは佛をまつり僧侶がいて、儒教を修めるところをいった。佛像のみを安置して、常住の僧侶がいないのを佛堂というが、これらには、古来阿弥陀堂・薬師堂・地蔵堂などと称して、村里に数多く建立されていた。明治維新以後は、次第に頽廃転退したものが多い。本町内の現況については後述する。
 古くは、由緒ある名刹には領主が、寺領として土地を寄附していたから、その租穀の収入によって、堂宇の修理、衣食、法会の料としたが、廃藩になってからは、あるいはそれらの寺領は削られ、あるいは没収せられて寺院の維持が困難となったものがある。あるいは檀徒の異動などの時勢の変遷によって、法相宗が天台宗に、天台宗が禅宗に、また禅宗の末庵が一向宗に改宗するなどの事があり、あるいは寺院を他へ移したものもあった。現在の本町内の寺院は次の通りである。

2 寺院の現況
(1) 真福寺  福土
 大木町大字福土字福間にある。大光山真福寺という。宗派は、浄土真宗東本願寺派で、本尊は、阿弥陀如来である。享禄四年(一五三一)福土村の住人田中出雲守、僧侶願乗上人が開基され、慶長元年(一五九六)に本願寺から本尊及寺号を授与されている。寺宝の多くは、明治に焼失したが、開基記録や古仏書などと中国の明の神宗皇帝代万暦一五年、日本では天正一五年(一五八七)の銘ある篝火鉢と察せられる鉄鉢が現存している。現在本町寺院では、一番古い。現在の住職は第二四世調哲成師である。
真福寺 福土清浄院 前牟田
(2) 清浄院  前牟田
 大木町大字前牟田字寺分にある。松林山到明寺清浄院という。宗派は浄土宗鎮西派にて、本山は善導寺で、本尊は阿弥陀如来である。永禄一〇年(一五六七)大友家の老臣で領主豊饒美作入道永源が、大友義隆の菩薩を弔う為に創建して、感誉了道上人が開基した。現本堂は中興雲蓮社洞誉上人忍光和尚が宝暦五年(一七五五)に再建したという。板札が残っており、堂内の欄間等は同代のものである。尚院敷地内に宝筐印塔や十時惟久供養の地蔵尊、江上の廃寺九品寺の観音堂などがある。現在の住職は第二四世高根大定師である。里老の伝えによれば、「寺後(東方)に古墳ありて古松一株がある。大友義鑑戦死の塚と言い、ここに霊牌を置き、到明寺殿と号したと言う。往時は八月二四日祭礼をし、参詣人も多かったと伝えている。」

(3) 薬師寺  横溝
薬師寺 横溝
 大木町大字横溝字町にある。愛宗山薬師寺という。宗派は真言宗九州教団にて、本山は東長寺で本尊は薬師如来である。大正六年(一九一七)岡崎真蓮尼堂宇を再興した後、昭和二八年に岡崎真雲和尚が宗教法人とした。本尊薬師如来石像は江戸中期に造立されたと寺伝にあるが、詳らかではない。尚昭和六二年に三八松の加島香清師が樹齢四〇〇年の楠の一木彫りの薬師如来像を謹彫奉納した。第三世広沢泰山師が寺院の整備をしたが、現在は、地区や信者の方によって管理されている。

(4) 二尊寺 蛭池
二尊寺 蛭池
 大木町大字蛭池字西原にある。大司山釈在院二尊寺という。宗派は浄土宗鎮西派にて、本山は善導寺で、本尊は阿弥陀如来である。天正元年(一五七三)吉武杢之亟嫡子伝誉住意上人が開基した。
 本尊両脇に安置している阿弥陀如来、釈迦如来の由緒ある二尊の内特に阿弥陀佛木像は創建以前の古佛である。又現存の古文書に依れば、閻魔法王尊像は寛政九年(一七九七)造立のもの、本堂正面の掲額は享和三年(一八〇三)に作られたとある。現在の住職は、第二一世吉武宏海師である。

(5)西元寺 八町牟田
 大木町大字八町牟田字中江にある。木本山西元寺という。宗派は真宗大谷派にて、本山は東本願寺で、本尊は阿弥陀如来である。天正五年(一五七七)清和帝第三皇子篤実公嫡子、木本右京之進が蒲池鎮漣と龍造寺の娘の菩提を弔う為に出家し(右京之進は剃髪して了念といった)矢ケ部原に創建して、その後二〇〇年を経て現在地に移転された。
 現在の住職は、第二一世木本諦眞師である。
西元寺 八町牟田宝福寺 上八院
(6) 宝福寺  上八院
 大木町大字上八院字寺屋敷にある。龍護山宝福寺という。宗派は曹洞宗にて、本山は、永平寺で本尊は聖観世音菩薩である。現存する文政年間の古文書より、開基の諸庵彰序大和尚が天正一四年(一五八六)に入寂している処から、開創は天正年代以前である。このように由緒ある寺院で創建当時の寺歴が詳らかでないのは、柳河藩から久留米藩に藩地替えになった折、故意に寺歴を抹消したからである。尚当寺には文化八年(一八一一)表装の銘ある龍天善神白山権現の軸物や文化一〇年(一八一三)奉納の大般若経六〇〇巻等、寺宝が多く現存している。又境内には宝篋印塔一がある。
 現在の住職は第二七世土井保彦師である。

(7) 妙行寺  上牟田口
妙行寺 上牟田口
 大木町大字上牟田口字金屋町にある。紫雲山妙行寺という。宗派は真宗大谷派にて、本山は、東本願寺で本尊は阿弥陀如来である。慶長元年(一五九六)京都より大谷法主本願寺教如上人に随行して来た田中三郎橘行親僧名釈行心上人が下牟田口に創建した。後宝永三年(一七〇六)に当地に移転された。
境内の黒松及び楠の大木は、移転当時に植えられたと寺伝にある。現在の住職は第一六世田中純孝師である。

(8) 弘照寺  上牟田口
 大木町大字上牟田口字二俣にある。宗派は、真言宗御室派にて、本山は仁和寺で本尊は弘法大師である。昭和二八年(一九五三)宗教法人木佐木教会(本四国六一番香園寺木佐木出張所)として牟田口良現和尚が創建し、昭和六一年弘照寺と改称した。
 現在の住職は第二世牟田口英良師である。
弘照寺 上牟田口円照寺 大薮
(9) 円照寺  大薮
 大木町大字大薮字大薮にある。大井山円照寺という。宗派は真宗大谷派にて、本山は、東本願寺で本尊は阿弥陀如来である。開基は、宇都宮道兼の末裔同国蒲地城主壱岐守義久の弟犬塚刑部大輔家久僧名浄清上人が天正元年(一五七三)に創建した。
 後寛永一四年(一六三七)に堂宇を再建した。その当時の七高祖佛画等多く現存されている。尚当寺内には「一草庵」村の美術舘があって、貴重な絵画等が常時展示されている。現在の住職は第一九世蒲池暁青師である。

(10) 明楽寺  三八松
明楽寺 三八松
 大木町大字三八松字荒牟田にある。菅原山明楽寺という。宗派は、真宗大谷派である。本山は東本願寺で、本尊は阿弥陀如来である。元亀三年(一五七二)京都菅原道真公の後胤菅原対馬僧名善西上人が矢ケ部原に創建した。その後二〇〇年を経て、現在地に移転された。寺の古文書に依れば、弘化元年(一八四四)本堂が再建され、佛天蓋・唐挟間巻障子等再建当時の物が現存している。現在の住職は第一七世坊守住職代務菅原澄子師である。尚当寺の開基を語る文書が残されている。

(11) 正念寺  三八松
正念寺 三八松
 大木町大字三八松字荒牟田にある。浄照山正念寺という。宗派は真宗大谷派にて、本山は真宗本廟東本願寺で本尊は阿弥陀如来である。天正元年(一五七三)当時柳河城主蒲池鑑盛の客臣山名(鳥取)正吾戦乱に出家して僧名良心如正法師の開基で、元和三年(一六一七)四代住職慶心師が寺号・本尊佛を東本願寺に申請授与された。昭和四六年の火災で、多くの寺宝、古文書が焼失したのが惜しまれる。
然し門信徒の尽力によって本堂・庫裡・鐘楼・山門等が昭和六一年に再建された。現在の住職は第一五代鳥取威大師である。

(12) 西向寺  筏溝
 大木町大字筏溝字西田にある。光秀山西向寺という。宗派は浄土宗鎮西派にて、本山は、善導寺で本尊は阿弥陀如来である。天正三年(一五七五)存大和尚の創建であって、寺宝に恵心僧都源信(九四二〜一〇一七)作といわれる阿弥陀三尊来迎絵図がある。また境内に宝暦一三年(一七六三)の銘ある地蔵石像が建っている。現在の住職は第二三代井上光哲師である。
西向寺 筏溝無量院 三八松
(13) 無量院  三八松
 大木町大字三八松字吉祥にある。無量院という。宗派は、浄土宗鎮西派にて、本山は善導寺で、本尊は聖観世音菩薩である。明治三六年(一九〇三)浄土宗として再興したが、現存する弘化二年(一八四五)の当寺の古文書によれば、創建から当代頃は泰空山吉祥院普門寺といい、本尊観音像は、瀬高本吉の清水寺の本尊と同樹材で造立されたとある。また外陣の格天井の花鳥の絵図は、慶応年間(一八六五〜一八六七)に描かれたものと言われているが摩滅して判明されない。現在住職は不在で、土地の人々が管理している。記録によれば、大正の末頃には井上浩典師、昭和の中頃までは村田顕承師の名が残されている。

3 廃  寺

(1) 円通庵廃寺跡  横溝
 大木町大字横溝字深野にある。円通庵は城島町江上大安寺の末寺であって、本尊は薬師如来であったという。又大安寺の創建は延暦年中(七八二〜八〇五)とあるが当庵はいつごろ建立されたがはっきりわからない。尚円通庵は慶長五年(一六〇〇)八院の役に当時の住職が割腹した為に廃寺となったという記録があり、その位牌は今に大安寺に安置されてあるともいわれている。又一説には、尼寺であったという言い伝えもある。
 当敷地内に立花右衛門大夫親子の墓碑がある。これは、八院合戦の際戦死した立花右衛門太夫源鎮実、同次男立花善次郎親雄を葬る五輪の塔姿二基である。
 尚県はこの地を円通庵石塔群として記録している。町も文化財として保護しょうとしている。

(2) 慶雲寺廃寺跡  蛭池
慶運寺廃寺跡 蛭池
大木町大字蛭池字田頭にある。慶雲寺は寛元年年中(一二四三〜一二四六)西牟田筑前守が建立し、七堂伽藍を営み一時は曹洞宗派の盛況を呈していた。しかしながら、西牟田家が滅亡した後は頽廃して、現在では僅かに其の跡を残し、周囲に溝を繞らすのみであるが、その当時のこの地方の盛況を想像することが出来る。
 近くに牟田筑前守家村の塚がある。平成三年この地も土地改良事業で変ってしまった。

 (三) 省略

 (四) その他町内の祠・佛堂等の現況
 大木町内には数多くの祠、佛堂等が見られ、時代と共に祖先の人々が信仰して来たようすを知ることが出来る。これらの祠、佛堂などは、歴史を語る大切なものとして記録にとどめておくべきであろう。
現況を、地区別に整理すると次の通りである。
 ○大角地区(八体) 祇園社・淡島社・安房社・社日社・坂本神・天満宮・下ノ宮・観音堂
 ○福土地区(一三体)(十間橋)稲荷社・観音堂・無名堂
           (土甲呂)弘法大師堂・祇園社・天満宮・島権兵衛堂
           (福間)天満宮・社日社・弁財天・薬師堂・馬頭観音堂・墓碑
 ○笹渕地区(一二体)祇園社・舟神祠・若宮社・弘法大師堂(三)・観音堂(二)・虚空蔵
           社・乳房観音堂・恵比寿社・天満宮
 ○前牟田地区(一四体)(東)天満宮(二)・稲荷社・祇園社・観音堂・弘法大師堂・中村
           伊豆守堂・(西)若宮社・弘法大師堂(二)・廻り観音菩薩・観音堂(三)
 ○横溝地区(五九体)(堀田)雷神・権現社・荒人神・弘法大師堂(二)・文珠菩薩堂・観
           音堂(三)・稲荷社(二)・六地蔵(二)・阿弥陀如来堂
           (道本)荒人神(二)・薬師堂・観音堂
           (中島)天満宮(二)・弘法大師堂・大日如来・不動明王・八八ケ所諸
           佛・観音堂(二)・釈迦如来堂・薬師堂・稲荷社塚
           (五反田)祇園社・稲荷社・観音堂
           (横溝町)観音堂・薬師寺内佛像群=観音菩薩(六)・弁財天(三)・地
           蔵尊(二)・六地蔵(二)・鯖大師・稲荷社(二)・開祖岡崎真蓮尼像(二)
 ○上白垣地区(一体)(沖田)観音堂
 〇蛭池地区(七体) (南)天満宮・若宮社・観音堂(二)
           (中)八幡社・権現社・虚空蔵社
 〇侍島地区(一三体)(東)古宮社・若宮社・虚空蔵社・稲荷社・観音堂
           (中通り)地蔵堂・阿弥陀如来堂
           (久良木)八幡社・観音堂・地蔵堂
            (西)乳神・薬師堂・地蔵堂
 ○八町牟田地区(四体)(上)観音堂・六地蔵
            (下)玉武社・観音堂
 ○絵下古賀地区(九体)天満宮・琴平宮・祇園社・観音堂(三)地蔵菩薩(二)・弘法大師
            堂
 ○上木佐木地区(六体)観音堂(三)・地蔵菩薩・八八ケ所諸佛・薬師堂
 ○上牟田口地区(一一体)弘照寺内一三佛・観音堂(八)・薬師堂・祇園社
 ○上八院地区(二体)宝福寺内八八ケ所諸佛・無名堂
 ○高橋地区(五体)天満宮・早馬宮・祇園社・弘法大師堂・観音堂
 ○大薮地区(二二体)(大薮)天満宮・安田社・早馬社(二)・ぜぜのさん・坂本社(二)・
             祇園社(田中)・観音堂(二)・文珠菩薩堂・薬師如来
            (小人)天満宮・若宮社・久那止神(二)・観音堂(二)・地蔵菩薩・不
             動明王・延命地蔵尊・一三佛・
 ○奥牟田地区(一四体)(西)坂本社・ぜぜのさん(二)・観音堂・地蔵菩薩(三)・弘法大
             師堂(三)・大日如来・不動明王
            (東)観音堂・弘法大師堂
 ○三八松地区(三三体)(荒牟田)安房社・若宮社・ぜぜのさん(二)・祇園社・弘法大師
            堂・観音堂
            (中村)天満宮・社日社・二宮社・よっかさん・薬師堂・毘紗門天・地蔵
            菩薩・観音堂
            (吉祥)天満宮・祇園社・おこし休め・不動明王・地蔵菩薩・弘法大師
            堂・薬師堂・八八ケ所諸佛(二)
            (野口・中野)天満宮・塞神(サエノカミ)(二)・月読社・祇園社・島神さん・塚神さ
            ん・観音堂・阿弥陀如来
  ○筏溝地区(七体)天満宮・早馬社・坂本社・祇園社・社日社
             ・薬師堂・観音堂

 (五) 省略

     ニ 文化遺産

 大木町は低地三瀦に属し、低湿地で溝渠は、日本一と言われるはどで、歴史的時代にも、開発は随分遅れていた。然し、排水と灌漑の両者をかねた農耕文化は貴重な基底をなしている。
 最近では農地改良事業が行われ、先祖が孜々営々として築いて来た文化遺産も、つぎつぎと消えていくのは残念である。そこで現在までに明かにされた古代からの遺産を、その時代に生きた祖先のあかしとして、ここに書きとめ後世に残し、今後の生活や研究の足がかりとすることは大切なことである。

 (一) 有形文化財
 町内にある有形の文化財のうち江戸時代以前のものは、町指定の文化財として保護するように、昭和六一年より町条例が制定され保護に努めつつある。現在までに指定をうけたものはその旨特記しておく。

1 宝篋印塔(ほうきよういんとう)
 印塔は過去・現在・未来にわたる諸佛の遺骨又は御経(仏典)を奉蔵する供養塔である。印塔には、宝篋印塔・五輪塔・多宝塔などがある。これらは宗派によってその形が異る。大木町の印塔は宝篋印塔である。
宝篋印塔は、鎌倉時代中期ごろ、今から凡そ七五〇年前、浄土宗を中心に建てられたもので、相輪・笠・塔身を積みあげ、塔身の周囲に梵字を刻んだものが多い。
 梵語又は梵字は、古来印度語で、印度から中国に波り、我が国へは空海が佛法を修業され帰国の際(八一〇)持ち帰られたと伝えられる。

 (1) 清浄院宝篋印塔 前牟田 町指定文化財
 大木町大字前牟田、清浄院内にあるこの塔は、宝暦一三年(一七五一)今から凡そ二四〇年前に建てられたものである。塔身に刻まれた文字は次の通りである。  上段右に、一切如来心、同左に秘密全身舎利、下段に宝篋印陀羅尼、とある。全身舎利とは、佛の遺骨のことで、陀羅尼とは保持する意味を持ち、即ち浄土宗の開祖は法然上人であるから、上人の教えを奉蔵し、いつまでも心にとどめていくための供養塔として建てられたものである。笠の下の梵字は不明。

 (2) 宝福寺宝篋印塔 上八院 町指定文化財
宝福寺宝篋印塔
 大木町大字上八院、宝福寺境内にある。この塔は、文化元年(一八〇〇)今からおよそ一九〇年前に建てられたものである。

2 六 地 蔵
 もともと、地蔵尊は、中国の唐時代から我が国に伝来したといい伝えられている。日本では、平安時代(一〇〇〇)中期頃から、民間に広く信仰の権化として流行したものである。
 地蔵菩薩は、択迦如来の教えを引きつがれ、衆生済度の道を歩まれ、無数の分身に変化され、衆生救済に身を捧げられたので、千体地蔵菩薩とも言い伝えられている。
 六地蔵とは平安時代(一一五六)の保元二年に小野(たかむら)が六体の地蔵を一つの石に刻み、法雲山の大善寺に安置したのが始まりと伝えられている。
 六地蔵の六は大道即ち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のことで、それらの道を済度される地蔵菩薩のことである。六地蔵の形式には、次の四つの型が見うけられる。
 〇 一体型六体組の六地蔵 − それぞれ一体の地蔵が六体並んでいる型
 ○ 二体型六体組の六地蔵−それぞれ二体ずつ彫刻されたものが三組で一揃い
 ○ 石幢型(石塔)六地蔵−一基に六体を彫刻したもの
 〇 板碑     六地蔵−板石に六体彫刻されたもの

(1) 笹渕六地蔵 笹渕 町指定文化財
笹渕六地蔵 笹渕
 大木町大字笹渕にある。御堂に安置されており、室町時代末期と推定されている。この地蔵尊は、石幢型(石塔)一基に六体を彫刻したもので特に笠のつくりが立派である。(本体の周囲がコンクリートで固められているため、刻んである文字等が不明である)

 (2)大角六地蔵 大角 町指定文化財
 大木町大字大角にある。石憧型(石塔)一基に、六体を彫刻したもので、高い塔身が特徴である。明和元年(一七六四)閏一二月五日に再建奉納され、施主郎心の銘がある。

 (3) 前牟田六地蔵 前牟田 町指定文化財
 大木町大字前牟田にある。石憧型(石塔)一基に、六体を彫刻したもので、万延二年(一八六〇)に建てられたものである。現在は、道路横の墓地に安置され、風雨にさらされているので、南面の二体がこわれている。この六地蔵を見ると一つ一つの地蔵の姿が異っているのがよく理解できる。

 (4) 筏溝六地蔵  筏溝 町指定文化財
 大木町大字筏溝、荒巻久典宅地内にある。ここの六地蔵は町内の他のものとちょっと異なっていて、六角形の石に刻まれた石幢(石塔)一基に六体を彫刻したものである。したがって、六つの地蔵尊の違いがよく表現されている。又笠の形も平たくて他と異っている。造りから見て、江戸末期のものと思われる。

3 板碑(イタヒ又はイタビ)
 板碑は、平安中期の貞元年間(九七六年頃)から、鎌倉〜室町時代の天文年間(一五三二年頃)まで約五五〇年にわたる戦国時代の世相を反映した信仰のあらわれである。戦国時代の武士階級は、もちろん、庶民階級も不安な心境から簡易な方法で、現在・未来の姿を板碑に託したものといえよう。
 板碑は、ひらたい形の石の上部、又は、中央部に梵字や佛像を刻み、その下に供へ具、供養者名を彫り追善供養した石塔姿である。梵字は、佛教上の権威ある象徴として石塔に刻まれている。梵字は、梵語を表記するために用いられた古代インドの文字であるが、中国・日本では梵字のもつ呪術的威力が強調されて、あらゆる佛教遺物に氾濫するまでになった。
 板碑などでは、梵字一字をあてて一定の佛菩薩をあらわすもので、その一字が限りない佛の恩恵を安けるものである。

 (1) 侍島板碑 侍島 町指定文化財
侍島板碑 侍島
 大木町大字侍島、北島寿宅の庭にある。安土桃山時代の天文二年(一五三三)の作で、今から約四六○年位前のものである。中央の梵字の刻みは、八町牟田下の板碑の梵字と同じで、阿弥陀如来を表している。下部の左右にも梵字が刻まれており、右の梵字は観音菩薩、左の梵字は勢至菩薩を表している。
  現在、町内の板碑の中では、一番古いものである。

 (2)八町牟田板碑 八町牟田 町指定文化財
 大木町大字八町牟田、木本神社境内にある。中央に刻まれた梵字は侍島の板碑と同じで阿弥陀如来を表している。建主、年号等は不明である。

 (3) 上木佐木坂碑 上木佐木 町指定文化財
 大木町大字上木佐木上区にある。板碑の上部に梵字が刻まれている。安土桃山時代天正二〇年(一五九二)に建てられたものである。建主は不明である。

 (4) 福間板碑 福間 町指定文化財
福間板碑 福間
 大木町大字福土、田中弘利宅の庭にある。この板碑は佛像を刻みこんだもので、町内では唯一と思われる。板碑の中心には、阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が彫られている。
 現在八月一七日は「イボ(疣)観音」として、地域の人々のお詣りの対象となっている。建主、年月日、は不明であるが代々田中家が供養している。聞くところによれば、江戸時代中頃(二〇〇年以前)のものと考えられる。

 (5) 吉祥板碑 吉祥 町指定文化財
 大木町大字三八松吉祥の無量院前にある。板碑は、中央部が風雨にさらされ傷んでおり、刻まれたものは定かでない。上部に頭の形をした痕跡があるので、観音像か地蔵尊が刻まれていたものと推察される。
 石の選び、形の取り方を見ると、比類のない存在であり、建立年月日は明らかでないが、江戸時代末期のものと考えられる。

4 石塔群
 (1) 円通庵石塔群 堀田
円通庵石塔群 横溝
 大木町大字横溝字堀田にある。円通庵廃址境内に次のような石塔群がある。現在では、一部消滅しかけている。福岡県遺跡分布地図によれば次の通りである。
 ○五輪塔 二、○無縫塔一、○板碑一、○宝篋印塔一

5 徳田彦大明神 大角
 大木町大角にある。大角三島神社参道に、猿田彦大明神が祀ってある。高さ一メートル五三センチで天保七酉申年(一八三六)とある。猿田彦命は国っ神の一人で、天の八巷住んでいたが、天孫降臨の際天鈿女命(あまのうずめのみこと)の命を受け、道案内人として先導した中世に到り庚申の日にこの神を祀り、道祖神として崇めた。俗に、さえの神とも言う。

6 楼  門
 (1) 三島神社楼門 大薮 町指定文化財
三島神社楼門 大薮
 大木町大字大薮の三島神社境内に建てられている。この楼門は三間三戸八脚の二階建楼門である。神社建築様式からおよそ一六〇年位前(江戸時代末頃か)に建てられたものと思われる。楼門の各所に彫られた彫刻は、町内では見られない立派なものである。この三島神社は、旧郷社である。

7 鳥 居
 鳥居は、神社参道の入口、山、川、等の自然界の入口に建てられ、その地域が聖域である事を示すものである。鳥居は表に、明神鳥居、神明鳥居、両部鳥居、山王鳥居に分かれており、大木町内の神社の鳥居は明神鳥居である。
 起源には日本始源説とインド、中国、朝鮮渡来説とがあって定説がない。語源も「鶏が止り居る横木」「人が通り入る門」の説があるが定かではない。
 次に大木町内の鳥居年代別(江戸時代以前のもの)一覧をあぐれば左の通りである。経過年数は一九九〇年を基準。
 (1) 大角三島神社      天明五年(一七八五) 経過年数 二〇五年
 (2) 笹渕高良玉垂命神社 天明九年(一七八九)  〃 〃  二〇一年
 (3) 八町牟田木本神社   文政五年(一八二二)  〃 〃  一六八年
 (1) 大角三島神社      天明五年(一七八五)  〃 〃  二〇五年
 (2) 笹渕高良玉垂命神社 天明九年(一七八九)  〃 〃  二〇一年
 (3) 八町牟田木本神社   文政五年(一八二二)  〃 〃  一六八年

三島神社鳥居 大角鳥居部分名称
 (4) 八町牟田天満神社   文政一〇年(一八二七) 経過年数 一六三年
 (5) 上木佐木三島神社   文政一〇年(一八二七)  〃 〃  一六三年
 (6) 上八院伊弊諾神社   天保五年(一八三四)    〃 〃  一五六年
 (7) 上木佐木下三島神社 天保九年(一八三八)    〃 〃  一五二年
 (8) 三八松荒牟田三島神社 弘化二年(一八四五)  〃 〃  一四五年
 (9) 大薮三島神社      弘化三年 (一八四六)平成三年取り壊される。
                           経過年数 一四四年
 (10)上八院天満神社    嘉永六年 (一八五三)   〃 〃   一三七年

8 狛  犬
 我が国の狛犬は、中国からの伝来といわれている。神社・仏閣の守り神で多くは石造りである。開口 (ア)、閉口(ウ)の一対とされている。
 大木町内の狛犬年代別 (江戸時代以前のもの)一覧は次の通りである。経過年数は一九九〇年を基準。
 (1) 犬角三島神社         天保 七年(一八三六) 経過年数 一五四年
 (2) 笹渕高良玉垂命神社    天保一二年(一八四一)  〃 〃  一四九年
 (3) 上木佐木三島神社      安政 二年(一八五五)   〃 〃  一三五年
 (4) 三八松荒牟田三島神社   文久二年(一八六二)    〃 〃  一二八年
 (5) 絵下古賀高良玉垂命神社 文久三年(一八六三)    〃 〃  一二七年
     「子連れ狛犬」
高良玉垂命神社狛犬 笹渕
同社境内に石製の子連れ狛犬の一対がある。牡の方の背中には子どもをおんぶし、また牝の方は子どもにお乳を飲ませている子連れの狛犬である。ところで、どうして子連れ狛犬であるかは、古老のいい伝えによれば、大切な子供を悪疫から守り、また強く、賢く育てようという親の切なる願いをこめたあらわれで安産と子育ての守神として信奉してきたものといわれている。
 (6) 八町牟田天満神社  元治二年(一八六五)
             経過年数一二五年
 (7) 八町牟田木本神社  元治三年(一八六六)    経過年数一二四年

9 灯 籠
天満神社灯籠
 八町牟田
 灯籠は照明用具の一つで、もと僧房の灯火具から起り、神社・仏閣などの常夜灯として使われた。灯火は、照明となるとともに除災、招福(災を除き、福をもたらす。)の聖なる火である。
 大木町内の灯籠年代別(江戸時代以前のもの)一覧は次の通りである。経過年数は一九九〇年を基準。
 (1) 八町牟田天満神社   天保四年(一八三三)    経過年数一五七年
 (2) 絵下古賀高良玉垂命神社 天保四年(一八三三) 経過年数一五七年
 (3) 侍島玉垂命神社    天保五年(一八三四)    経過年数一五六年
 (4) 蛭池三島神社      天保九年(一八三八)    経過年数 一五二年
 (5) 福間大雷神社      嘉永三年(一八五〇)    経過年数 一四〇年
 (6) 笹渕高良玉垂命神社 嘉永四年(一八五一)    経過年数 一三九年
 (7) 大薮三島神社      嘉永六年(一八五三)    経過年数 一三七年
 (8) 荒牟田三島神社    安政二年(一八五五)    経過年数 一三五年

10 手洗盥
 手洗盥は、身を清め、心を静ませ神仏に礼拝するために設けられたものである。大木町内の神社の手洗盥の年代別(江戸時代以前のもの)一覧は次の通りである。経過年数は一九九〇年を基準。
 (1) 大薮三島神社       寛保二年(一七四二)  経過年数二四八年
 (2) 三八松八幡神社      明和二年(一七六五)   〃 〃 二二三年
 (3) 上木佐木三島神社    文化一〇年(一八一三)  〃 〃 一七七年
 (4) 八町牟田天満神社    文化一四年(一八一七)  〃 〃 一七三年
 (5) 上木佐木下三島神社   文政五年(一八二二)   〃 〃 一六八年
 (6) 三八松荒牟田三島神社 文政七年(一八二四)   〃 〃 一六六年
 (7) 八町牟田木本神社    天保六年(一八三五)   〃 〃 一五五年
 (8) 高橋今松神社       天保一二年(一八四一)  〃 〃 一四九年
 (9) 上牟田口三島神社    天保一四年(一八四三)  〃 〃 一四七年
 (10) 吉祥三島神社      天保一五年(一八四四) 〃 〃 一四六年

三島神社手洗盥 大薮

 (二) 無形文化財
1 久留米絣重要無形文化財技術保持者(人間国宝)
久留米絣重要無形文化財
技術保持者故松枝玉記氏宅
 本町は、かつて江戸時代から農家の副業として、久留米絣の生産が行われ、一時盛んな時代があったが、現在では、これらに関係する人も少くなった。最近、久留米絣のよさがまた見直されはじめてきた。これらの伝統工芸を守りぬいてきた人々の中に、久留米絣重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定された方々も多くは故人である。現在は田中キヨ子が活躍されている。なお若い人の中に研究を継承されている人がおられることは喜ばしいことである。
 ○故矢加部六郎(笹渕)○故矢加部アキ(笹渕)○故松枝玉記(笹渕)〇故松枝一(笹渕)○田中キヨ子(福土)

2 掛川技術保持者(県認定)
 本町は、古くから農家の副業として、藺栽培が盛んで、昭和九年には、全国第二位となった。藺製品の畳表や花莚などは、早くから海外への輸出がなされていた。その藺製品は、各農家の手動式織機(現在は電力自動織機)で作られていた。掛川はその藺製品の中の一つで、今でも手動式の古い伝統技術を守って織られている。
県は、その技術保持者を認定し、伝統工芸の保護育成に当っている。本町では、左記の方々が認定を受けている。なお若い人の中に技術継承を志ざす人がいるのは喜ばしいことである。
〇故真崎儀一(上牟田口) ○広松ツチエ(三八松) ○馬場トシ子(大薮)

 (三) 天然記念物
1 国指定天然記念物 鵲
 筑後地方には、国指定天然記念物として、(カササギ)が棲息している。本町にも昔から「コウライガラス」とか「コウゲガラス」とか「カチガラス」とか呼んでいる。高い楠や電柱、鉄とうなどに巣を作る白黒まだらなカラスである。
 この鳥は、豊臣秀吉が朝鮮での戦の折「カチ、カチ」と鳴くので縁起がよい鳥とされ、朝鮮から持ち帰り、広めたと言われている。大正一一年(一九二二)国の天然記念物に指定されている。

2 町指定の天然記念物
 昭和六一年より、町文化財指定條例に基づき文化財の保護をすすめている。土地改良事業等で、昔の自然が失なわれていく中で郷土の自然を残し、緑豊かな潤いのある町づくりを進めるために、先ず町内の神社境内にある松、楠、もち、等を調査しその結果、大きいもの(古いもの)から町指定とし、貴重な樹木として保存、保護していくようにしたものである。
 現在指定の状況は次の通りである。(幹廻りは地上一メートルのところを計測している。)
(1)松
伊弊諾神社 松
 上八院
指定番号 幹廻り  所在地
 1      2m35cm 八  院  伊弊諾神社
 2      2.10   福  土   住 吉 神 社
 3      1.87   福  土   住 吉 神 社
 4      1.80   蛭  池   三 島 神 社
 5      1.75   前 牟 田 志 賀 神 社
 6      1.70   上 八 院 伊 弊 諾 神社
 7      1.66   上 八 院 伊 弊 諾 神社
 8      1.64   前 牟 田 志 賀 神 社
 9      1.56   笹  渕   高良玉垂命神社
 
(2)楠
木本神社 楠
 八町牟田
指定番号 幹廻り  所在地
10      4m19cm  笹  渕  高良玉垂命神社
11      3.95   八 町 牟 田 木 本 神 社
12      3.88   三八松吉祥 三 島 神 社
13      3.78   横 溝 堀 田 天 満 神 社
14      3.50   蛭  池   三 島 神 社
15      3.45   福  土   大 富 神 社
16      3.30   蛭  池   三 島 神 社
17  楠  群(23本)八 町 牟 田 天 満 神 社
  備考 八町牟田天満神社には、本町ではこれだけ楠の群生しているところはないので、まとめて町指定となった。
 
(3)もちの木
天満神社 上八院
 もちの木
指定番号 幹廻り  所在地
18      2m51cm 上 八 院   天 満 神 社
19      2.50   蛭  池    三 島 神 社
20      2.22   侍  島    玉 垂 命 神 社
21      2.20   福  土    住 吉 神 社
22      2.00   横 溝 堀 田  天 満 神 社
23      1.88   笹  渕     高良玉垂命神社
24      1.85   横 溝 掘 田   天 満 神 社
25      1.76   侍  島     玉 垂 命 神 社
26      1.70   三八松野口  三 島 神 社

 (四) 遺  跡
1 住居跡、土器散布地
 (1) 十間橋遺跡 (住居跡)
十間橋遺跡
 福岡県遺跡等分布地図によれば、この地は弥生時代の住居跡になっている。現在は消滅し、畑地になっている。行政区は三瀦町分になっているが、河川工事で大木町側にある。弥生時代は、約二〇〇〇年前後昔のことだが、ここがいつごろのものかは、はっきりわからない。
ただ、ここの住居跡から、高杯(タカツキ)(ツポ)(カメ)等の出土品が発見されたとの説がある。現在、その出土品は町内にはない。その一部が犬塚小学校に保管されている。高杯とは食物をもる足つきの小さい台、坩とは土で作って物や水等を入れるもの、甕とは物を蓄える入れものである。この時代は、水稲耕作が起った頃であるので、低地三瀦地帯と山ノ井川を利用して、農耕を営むための聚落をつくり生活したのではなかろうか。本町に関係する住居跡では一番古いものである。

 (2) 石丸山遺跡  大角
 大木町大角東にある。別名石丸屋敷とも言っている。二重の堀廻りと、雑木林になっている。現在は文政時代の墓石六墓と、外に祠が残っている。附近一帯には、高屋敷、旗屋敷、殿門屋敷、ガンドウ山、文七山等の地名が点在している。住居跡と思われる。

 (3) 前牟田中屋敷遺跡  前牟田
 大木町前牟田西にある。江戸時代の屋敷跡らしい。古墓があるが消滅している。
(福岡県遺跡分布地図による)

 (4) 横溝本村遺跡  横溝
 大木町横溝本村にある。平地で土師器土器の散布地で、現在は消滅しているが、この一帯住居跡ではないかと思われる。

(5) 堂の本陣分屋敷遺跡  蛭池
大木町蛭池にある。江戸時代の屋敷跡らしいが現在は消滅している。

(6) 西久良木遺跡  侍島
大木町侍島にある。土師器土器の散布地であるが現在は消滅している。

(7) 上木佐木宮東遺跡  上木佐木
大木町上木佐木上にある。土師器土器の散布地であるが現在は消滅している。

(8) 鍛冶屋遺跡  上木佐木下
大木町上木佐木下にある。土師器土器の散布地であるが現在は消滅している。

(9) 野々内遺跡  上牟田口
大木町上牟田口北にある。土師器土器の散布地であるが現在は消滅している。

(10) 天神屋敷遺跡  上八院
大木町上八院にある。江戸時代の屋敷跡で供養塔がある。

(11) 宮の後遺跡 上八院
大木町上八院にある。土師器土器の散布地であるが現在は消滅している。

(12) 表小路遺跡 高橋
大木町高橋にある。土師器土器の散布地であるが現在は消滅している。

(13) 宮ノ脇遺跡  小入
大木町小入にある。土師器の散布地であるが現在は消滅している。

(14) 奥牟田中屋敷遺跡 奥牟田
大木町奥牟田西にある。土師器土器などの散布地であるが現在消滅している。

(15) 六ヶ所遺跡 筏溝
大木町筏溝下にある。土師器土器などの散布地であるが現在消滅している。

(16) 観音丸遺跡  筏溝
観音丸遺跡 筏溝
 大木町筏溝にある。昭和五七(一九八二)年八月大莞地区干拓地等農地整備事業に伴う試掘調査により、遺跡の所在が明らかになった。
・ 室町時代の住居跡など、木棺墓二基と同時期と思われる、円形・方形の土壙(どこう)、柱穴群等を検出した。
・ 遺物は一〇世紀から一五世紀頃つくられた北宋銅銭、その外土師器、白磁、青磁等多数が出土した。
これらの貴重な出土品は、町の公民舘に展示している。その時代の住居のようすや生活のようすを推察できる本町の貴重な資料である。

2 城跡、舘跡
 (1) 福間村館跡 福間
 大木町大字福土字福間にある。三瀦郡誌によれば、西牟田家臣田中大膳入道の館跡で、館跡は今なお残っているとある。田中大膳入道は一〇町余を領していた。

 (2) 福間村営跡  福間
 大木町大字福土字福間南にあった。天正一二年(一五八四)に、隈右京亮、高三瀦式部、杉左近大夫等この地に、砦を構えたとある。竜造寺と戦ったが、敗北した。この砦跡は現在残っていない。

 (3) 笹渕舘跡  笹渕
 大木町笹渕にあった。西牟田家臣野間口常次郎高秀は笹渕に館を構え、居住したと言われている。現在の笹渕東らしいがはっきりした位置はわからない。(筑後市むらの生いたちの記、西牟田篇より)

 (4) 横溝館跡 横溝
 大木町横溝堀田にある。西牟田家臣堀田左近は横溝に館を構え居住したとある。現在堀田には、堀田の屋敷と言う田地名があるがその地らしい。現在その地には権現社があり、官有地になっている。(筑後市むらの生いたちの記より)

 (5)城の内城跡 横溝
城の内城跡 横溝
 大木町横溝本村にある。室町時代のものといわれている。蒲池氏は承保の頃(一〇七四)より天正の頃(一五九一)まで蒲池を中心にこの地方に勢力を有し、上妻、下妻、三瀦、山門一万三千歩を領有していた。ここはその別館跡である。この別館は蒲池五代の孫筑後守治久が末弟久弘を代官として、この地に置き、近郷を支配させたところである。

 (6) 蛭池村舘跡  蛭池
蛭池村館跡 蛭池
 大木町蛭池にある。西牟田弥次郎家綱は延応元年(一二三九)鎌倉幕府の地頭職として、三瀦庄西牟田村に下向して新城を築く。その八代目西牟田重家の弟家村が、室町時代の文明中(一四六九年頃)に二重に囲まれた広大な屋敷に館を造り、牟田筑前守家村と名乗って、蛭池を治めたと伝えられている。城は、東西三九間、南北三〇間に建てられ、二重の堀に囲まれていた。これは統治と外敵に備えた堀城であった。現在の地名を館(たち)といっている。(蛭池ものがたりより)

 (7) 大薮館跡 大薮
 元の国が博多に攻めて来た頃、弘安の役(一二八一)直後、大薮地頭として高橋丹藤兵衛藤原基氏が鎌倉幕府より派遣されて来ている。その屋敷は、現在の大薮三島神社の西方堂屋敷に構えたものと思われる。基氏の三島神社建立と屋敷あとと思われる土地(二反半)が地形的に複雑で周囲に完全な堀をめぐらしているのでこの地が館跡と推定されている。

 (8) 大薮村の城址  大 薮
 天正三年(一五八四)頃の役に、蒲池鑑廣が砦を築き大木・中村・末吉の党をして守らせたと伝えられる大薮村の城址が新考三瀦郡誌に記してあるが、現在どの地なのか定かではない。

3 古墓、古塚、石碑
 (1) 土甲呂遺跡  土甲呂
土甲呂遺跡
 福土
 大木町大字福土宇土甲呂にある。住吉神社の境内神殿東北に江戸時代のもので、田中吉政公を祀る祠がある。田中吉政公の功績は人物編を参照のこと。
  ○ 田中殿祭り又は御免地祭り
 「柳河 −久留米往来の道路は曲りくねっていて、急用の場合役に建たないと言うので真直ぐになおし、今の柳川街道を作らせた。津福から土甲呂町、大角町、横溝町、金屋町等所々御免地(免税地)にして、最寄の村々から勝手次第に作出てよい旨仰付けられたので、御免地として栄えて来た。その礼として御免地祭り、又は田中殿祭りとして残されている」

 (2) 笹渕遺跡  笹 渕
笹渕遺跡
 大木町笹渕西にある。城島町境に近くこんもりと繁った林の中に、供養塔がある。江戸時代中頃の大庄屋五代内田与一郎重昌を供養する。肥前三根郡西島郷の城主内田左近大夫豊久の末裔と言われ、出家して一歩軒と称した。禅翁道居士、享保一六年(一七三一)一二月一八日死す。七四歳、尚土地の人はこの地を「だるま山」と呼んでいる。
 与一郎は大庄屋として、この地方の開拓に力を盡くしたと今に古老のいい伝えが残っている。平成二年、土地改良事業により発掘され、供養塔は土地の人によって移転保存されている。

 (3) 清浄院東方御堂  前牟田
 大木町前牟田西にある。古老の伝えるところによれば、大友義鑑の戦死の塚と言うが、天正の戦(大友氏と龍造寺の戦)で戦死した豊州(豊後地方)兵士の墓であろうと言うことである。(新考三瀦郡誌)
 尚現在の地蔵尊は清浄院調誉上人が元文六年(一七四一)に建立したとある。

 (4) 立花右衛門太夫親子の墓碑  横溝
 大木町横溝深野にある。深野の円通庵の廃寺に、八院合戦慶長五年(一六〇〇)の際、戦死した立花右衛門太夫源鎮実、同次男、立花善次郎親雄を葬る五輪の塔婆二基がある。一基には為袰−仙宗□−居士、他の一基には笑為達宗岡居の銘がある。そのかたわらに奉建立石塔一基、慶長五年十月廿日とある。鎮実の嫡子を兵庫統実といった。
 土地の人はここを円通庵とか、立花さんと呼んで、命日には立花さんの霊をなぐさめる行事を今も行っている。
立花右衛門太夫親子の墓十時新五郎惟久の墓
 (5) 十時新五郎の墓碑 横 溝
 大木町横溝五反田にある。立花家臣十時新五郎惟久は八院合戦慶長五年(一六〇〇)、佐賀鍋島氏と柳河立花氏の戦の際に五反田方面の激戦で戦死した。時に一七才の若武者であったと言う。その惟久の墓が五反田の西方にある。現在地は土地改良事業で整地されたが、土地の人の手によって保存されている。
 尚供養の為の地蔵尊は現在前牟田の清浄院内に安置してある。

 (6) 家村の塚  蛭 池
家村の塚 蛭池
 大木町蛭池にある。延応元年(一二三九)西牟田弥二郎家綱は、地頭職に補せられ西牟田の地に来た。
その庶子牟田筑前守家村は蛭池に館を構え、この地方を治めた。その家村の塚と言われ、土地の人は丸林(まるべし)さんと呼んでいる竹薮の中に塚石があり、家村霊神之廟と刻まれている。土地の人は聖地として近づき難い場所となっている。

 (7) 牟田家祖霊社 蛭 池
 大木町蛭池にある。蛭池三島神社の境内にあるが、これは牟田家の祖先牟田筑前守家村とその他一門の霊を祭ると言われている。

 (8) 四丁町遺跡  蛭 池
 大木町蛭池にある。人里離れた宇土の東端にある。筑後市との境で「ごんのじゅう」といわれている堀に囲まれた一〇坪ばかりの森がある。昔は大きな青い板石が沢山あった。徳川時代及びそれ以前の墓石と思われるものもあったが、今は撤去されている。福岡県遺跡等分布地図によれば、土器散布地として記録されている。

 (9) (ひじり) 塚  侍 島
 大木町侍島にある。侍島大膳名に石塔がある。これを聖塚という。奉納陸捨念佛一石、天正三乙亥年 月 日とあり(一五七五)。阿弥陀大口名王の文字も見える。平地五×五メートル、高さ一メートルの土壇が残っている。だれの塚かはっきり判らないが、塚名からして、また、侍島玉垂命神社の由緒に領主大膳の名が見えるので、領主と何かかかわりがあるのではなかろうか。
 この地も、平成二年の土地改良事業で発掘され、天正三年の供養塔が出土したが、土地の人によって保存されている。
 
(10) 侍島遺跡  侍 島
 大木町侍島にある。堀に囲まれた四×四メートルの土壇に板碑がある。江戸時代の古墓で吉武右衛門尉菅原秀長の銘のある大きな板碑がある。

(11) 荒人神詞 上八院
荒人神祠 上八院
 大木町上八院にある。土地改良事業で付近はきれいに整備されたが、上八院の北西の高に一つの祠がある。これは八院合戦(一六〇〇年佐賀の鍋島氏と柳河の立花氏の戦)の際戦死した人々を祀る祠である。現在でも土地の人々は定期にお祭りを続けている。

(12) 堂の前遺跡 荒牟田
 大木町荒牟田にある。江戸時代の古墓であろう。観音堂の床下にある。(福岡県遺跡等分布地図より)

(13) 竹本南部太夫の墓  三八松
 大木町三八松にある。竹本南部太夫は野口に住み、義太夫をこの地に広めた。彼は、日本の義太夫の名匠の一人といわれ郡内は勿論、大川・久留米方面にまでその名が知られていた。南部太夫は佐賀の生れで、この地に来たのは、野口謙吾とのかかわりがあったと言われている。明治の中頃死去する。墓は道路拡幅行事の為現在地に移転された。

 (14) 熊本原仲の墓(碑)  横 溝
 大木町横溝町にある。構溝の人で、江戸時代の儒学者であり、医者でもあった。近郷の子弟の教育に力を入れた人である。横溝町共同地内に墓(碑)がある。(詳細は人物編参照)

 (15) 井上千尋の碑 大 角       
 大木町大角東にある。大角三島神社横にある。井上千尋は同神社の神宮であったが同地で寺小屋を開き、近郷の子弟の教育に力をそそいだ。(詳細は人物編参照)

(16) 佐野貞蔵彰功碑 八町牟田
佐野貞蔵彰功碑
 大木町八町牟田にある。大木町農業協同組合の前に立てられている。八町牟田の人で、明治の頃稲の害虫駆除に努め、農事の改善や発展に貢献した。墓は八町牟田下にある。(詳細は人物編参照)

 (17) 猪口万衛門車牌  三八松
 大木町三八松にある。三八松の人で、江戸時代農家の濯漑の苦労を見て、足踏水車の研究につとめ、遂にこれを発明した。その恩恵は、筑後一円のみならず、遠くまで及んだ、その功蹟をたたえた車碑がある。(詳細は人物編参照)

猪口万右衛門車碑境信太郎顕彰碑
 (18) 境 信太郎顕彰碑 大 薮
 大木町大薮にある。大薮の人で、花莚の増産と改良につとめ、アメリカヘの輸出に力を入れ、花莚の発展に貢献した。顕彰碑と記念館が大薮字田中にある。(詳細は人物編参照)

 4 その他の史蹟・古戦場
 (1) 十間橋郷場跡
十間橋郷場跡
 大木町笹渕にある。県道久留米−柳川線が山の井川を横断する所から川下に降りた附近に、藩政時代農民が藩主に納める米を集めて、久留米へ送り出していた郷場があった(河川工事で川の様子は変っている)
 山の井川は有明海の満潮の時には潮が正原附近まで満ちて来ていたし、その潮を利用し、舟に収納米を積み川を下り、筑後川をさかのぼって藩に収めていた。当時はこの地方の田租収納組は福光組に属し、大庄屋のもと附近の村々から収納米が持ち込まれていた。
 尚川工事で附近の様子は変ってしまったが、附近に今でも「郷場小屋」と呼ぶところが残っている。昔時はこの地は交通の要所で後世に一時この附近に郡役場があったこともある。

(2)大角町一里塚跡
大角町一里塚跡
 大木町大角にある。織田信長の時、三六町を以て一里とし、近畿諸国に一里塚を造ったと言われている。徳川幕府も又慶長九年(一六〇四)に江戸日本橋を基準として、七道に三六町毎に里程標をつくらせたので、諸国にひろがっていった。筑後の国も田中吉政公の頃(一六〇四)久留米城下を基点として、三四町から四〇町毎に一里塚が造られたと言われている。
 当時は道の両側に榎など植え、旅人の目安として、又いこいの場として、喜ばれたと言う。大角町一里塚は、今はその面影はとどめていないが、土地の人はこの地を「いちつか」と呼んでいる。
 大角一里塚は          
   〇小犬塚村一里塚より三六町四九間 − 約四〇一二メートル
   〇下古賀村一里塚まで(現柳川市蒲池下田町)三四町五五間− 約三八〇五メー
     トルという記録が残っている。

  (3) 正原港跡と山の井川
正原港跡と山の井川
 大木町と三瀦町の境を流れる川が山の井川である。当地方の農産業用水として大切な役割を果たしているが、また、昔から水上の交通路として重要な役割を果たして来た。
 山の井川の改修工事までは、正原に港があった。ここまで潮がのぼって来ていたので、これを利用して舟運が盛んであった。特に、昭和初期までは六トン積みの船が、五島・天草・島原から薪・石炭・いも・肥料・魚などを積んで往来し、八竜脇(八竜神宮所在地)には大きな倉庫もあった。現在はその面影はほとんどない。
 尚、山の井川の水は、福間の井竜堰(改修後の堰)の水取口や下流の笹渕揚水場から濯漑用水として利用され、大木町北部から中部一体を潤している。その後、山ノ井川口の水門も改修され、潅漑と水害と両面を処理するようになったことは、喜ばしいことである。

 (4) 八院の古戦場
 大木町西部地区一帯、八院の戦は慶長五年六月(一六〇〇)徳川家康が奥州の上杉景勝を伐ったので、鍋島直茂は子の勝茂を派遣した。石田三成は、新関を近江に設け、通行の諸侯を誘い、大坂方に従わせた。勝茂は終に三成に与して、徳川方を攻めた。父直茂は使を遣わして、西軍と縁を絶せた。勝茂は悔いて井伊直政等に陳謝したので、家康はこれを許し、柳河の立花宗茂を伐って自ら償わせた。
 一〇月直茂父子は命を奉じ、大兵を出し、先ず久留米の毛利秀包を降し、柳河城に迫った。黒田如水もまた豊後から進みこれをたすけた。鍋島、立花の両軍は江上村から八院附近で戦い、死者数百名に達した。
 二五日、加藤清正は部下を率いて瀬高に至り、如水、直茂と議し、宗茂の質を収め、宗茂が島津を伐つ先鋒になることを約させて開城させた。

 (5) 地獄橋
 大木町上八院と上白垣沖田の境に架せられた橋で、慶長五年一〇月八院合戦の際柳河立花軍がこの橋を通るのに大変苦しみ多数の戦死者を出した激戦のところと言われている。この橋に地獄橋の名が残っている。

 (6)花宗川と舟着場跡
花宗川と船着場跡
 大木町南部、木佐木校区と大莞校区との間を流れる花宗川は、同地域にとっては重要な農業用水となっている。藩政時代は花宗川筋には、蒲池下田等三ケ所に郷場があって、藩収納米を集めていたので舟運が盛んであった。
大木町南部地区の収納米はここ下田に集められていた。
 また古老の話によれば、明治初期の頃までは、八女の物産や米一〇俵程度積んだ小舟などが若津へ下り、川口からは、石炭や肥料などを積んで往来していたと言う。町内の平松や大井手には舟着場があって、これを利用していたと言う。
 今は酒見に井堰が作られて、その機能は失われたが、農業用水として町の産業に無くてはならない使命をもっている。

 (7) 条里制の遺構
 筑後国では和銅六年(七一三)頃に道君首名(みちのきみのおぴとな)が筑後守として派遣され、筑後地方の耕地整理をし、その一部が現在も残っている。これが条里制の遺構である。大薮地方には、田の地名に一の坪、三の坪、五の坪などの地名があり、その名残りをとどめている。(郷土研究家甲木清の発見による)。これらも今回の土也改良事業こより変貌してしまった。
条里制遺構大字大藪字図
 条里制の遺構の様子は前頁の地図(旧地名図)の通りである。
   
(8)小入村一里塚跡
小入村一里塚跡図
 大木町大薮にある。大川方面と八女郡方面とを結ぶ道路であった。これも田中吉政時代のものと記録されている(三瀦郡誌)当時は郷原−牟田口村−小入村−北島村の道順が書かれている。今の大薮字野田にあった。現在その跡は田となり何も残っていないが、今も土地の人は一里塚のあった辺りを小入山とか、山と呼んでいる。
 〇小入村一里塚は
  牟田口村一里塚より  三五町七間(三八二七メートル)
  下妻郡北島村一里塚まで 三五町五〇間(三九〇九メートル)という記録が残っている。

 (9) 有馬藩主の鷹狩場跡
久留米藩主の鷹狩場跡
  大木町奥牟田にある。「米府年表」によれば、三瀦郡筋御放鷹と記載されており、歴代藩主が三瀦郡筋に放鷹したと記述が見られる。奥牟田字栗ノ内には藩主の通ったという堰道を発掘したところ堰の横がかりの木わくが一個出て来た。

 (五) 出土品
 低地三瀦地域に属する本町には、弥生式遺跡などなく、新考三瀦郡誌や福岡県遺跡分布地図等によれば、大莞地区では筏溝より弥生式土器の破片が表面採集されたばかりで、他の地域からは未だ発見されていない。
 木佐木地区から採集されたものは、全部土師器だけで弥生式土器は一つも採集されていない。この地域の集落発生の起源が新らしい事を立証するものであり、集落研究上注目すべき好資料といわれている。
 大溝地区は、土甲呂から弥生式土器の破片を表面採集したのみで、溝渠綱が最も稠密な地域は、北部大莞や木佐木地区とともに、牟田集落を形成していて、出土品は凡て土師器等で、弥生式土器は発見されていない。ただ福岡県遺跡分布地図によれば、十間橋大木町側(行政区は三瀦町)に弥生時代の住居跡があったことを明記していて(十間橋遺跡)そこから高杯、坩、甕等の出土品が発見されたらしいが、それらの土器類は本町にはない。
以下省略