第五章 民 俗

  第一〜第四節 省略

第五節 口碑・伝説・昔話(民話)

 郷土には、私たちの祖先に関する数多くの口碑・伝説・昔話が伝えられている。これらはそのまま、史実を示すものではないが、祖先の風俗、習慣、思想、文化など知る上に、参考となる事柄が含まれ、郷土を知る上で大切なものである。即ち、これらがどうして起り、それが長い間、私たちの祖先の生活とどのように、結びついて来たかを考えなければならない。

    一 口碑・伝説

 1 大昔は水の底の大木町
  今から約二〇〇〇年以上前は、この地方は広々とした有明海の一部であったろう。今でも掘や土地を探く掘れば、下から牡蠣や貝の穀が多数出てくるのでもわかる。又、牟田と言う地名は、湿地の意味をあらわしているし、古賀は、荒地を意味している。この土地に、祖先はいつごろ住みつき、開拓して来たのであろうか。誰がいつごろ堀を掘ったのだろうかなど今でもこのような話がうけ継がれている。

 2 土甲呂の話 福土、土甲呂
  久留米市から柳川市へ一直線に走る、久留米・柳川街道にある土甲呂は、田中吉政が建設した。この街道を通る旅人の憩う町として出来たものの一つである。土甲呂はずっと昔、土で甲冑を造っていたことより名がおこつたと伝えられている

 3 島 権兵衛の話 福土、土甲呂
  佐賀の乱(明治七年)に加わった島権兵衛は、処刑を逃れるため、大角出身の執行平右衛門と共に土甲呂の地に逃れて来た。島は間もなく、ここで傷病死した(死期は不明)。その後、土甲呂地区は高熱病や流行病など次々に病人が出て、多数の人が死んだり病気で悩まされる人が続出したので、地区の人達はこれは島の崇りではないかと、早速彼の霊を祀ったところ、病人は元気になり、その後病人が出なくなったという。又墓の下には、多くの財宝が埋められているという。土地の人は島のことをコンペさんと呼んでいる。

 4 中村五郎兵衛の話 前牟田
  前牟田村中の御堂に、中村五郎兵衛の額文が残っている。黒木の家老に中村五郎兵衛という人がいた。浪人となって、藤山上村に住んでいた。
  其の頃、長延村萩の尾林という所の石窟に、強盗が住んでいて、人々から物をうばったり、かすめたりしていた。そこで田中侯よりかの強盗を討った者には褒美がある旨、所々に高札が立てられた。五郎兵衛はこれを見て、馬上に鉈長刀(なたなぎなた)を持って、かの石窟にやって来て、「うちとるためにやって来た」と叫んだので、盗賎も声に応じて出向い、大太刀を以て打ってかかり、しばらく戦っていたが、賊はかなわないと思い、彼の太刀をなげつけたので五郎兵衛の右の腕をつよく突切った。五郎兵衛は少しもひるまず彼の首を打落し、ただちに其の首をもって柳府にいき、その旨をうったえたので、恩賞は何がよいかといわれた。そこで城内乗打を望んだところただちに許可が出た。
  今當村庄屋及び百姓傳右衛門以下其の子孫一〇家があるが、その時の鉈長刀は傳右衛門の家に伝わっている。五郎兵衛の墓は同村奈木山の上にあるが、碑銘ははっきりしない。墓所の浄め等おろそかになって、其の崇りが有る故、墓碑を神と改め毎歳一一月一九日一族寄集い祭礼を行っている。此の事が今はたえていると云う。

 5 提灯林(ちよちんべし) 前牟田
  城島・横溝町間の県道で、今は賑やかになっている、大溝小学校附近一帯を提灯 林とゆう。古老の話によれば、昔、この一帯は、森や竹薮だった。明治の中頃までは、夜暗くなって近くを通ると、提灯を持った人が道案内をしてやるといって、森の中へ連れ込んで、食べ物を持っていると、全部取ってしまった。それは狐か狸の仕業だということである。それでこの附近の地名を提灯林と言うようになった。

 6 横溝の碑 堀田 深野
  円通庵という尼寺の廃址に、八院の合戦で戦死した、立花右衛門大夫源鎮実と、次男の立花善次郎親雄の憤墓がある。五輪の塔婆が立てられているが、その銘は一基には「為○仙宗○分居士」他の一基には「為笑達宗岡居士」とある。また、傍に、「奉建立石塔一基慶長五年十月二十日」とある。
  或る老人の語るところによると、父(鎮実のことか)が、肥前勢のため刺殺されたのを聞いた子息(親雄のことか)は、熱病のために床に伏していたが、憤然と起き上り、鉢巻をしっかりしめて敵中に攻め入り、敵将の首を討ちとり、ここまで来て割腹をして果てた。そこでここにこれを祀ったものだという。
  其の後久しく人魂が出て、西の(肥前)方へとんで行ったと言う。円通庵については、江上村(今の城島町江上)大安寺の下寺で、尼寺であったということ以外はわからない。

 7 「ぜんて」の地名 堀田
  掘田の北側に「ぜんて」という地名のところがある。そこは現在でも大きな楠の下に、六体の六地蔵が祀られている。古老の話によると、ここに昔、禅寺があったと言う。その名は、「じょうしょう寺」といっていたという。これは「禅寺」「ぜんでら」から「ぜんて」となまったのだろうということである。

 8 薬師女にまつわる話 前牟田・姪池
  昔、安和年間(九六八ごろ)西牟田城の領地前牟田村に、隠れていた二人の武士がいた。兄は吉武外記(げき)、弟は織部(おりべ)と言った。外記に女の子が二月八日(この日はお薬師さん祭日)に生れたので、薬師女と名づけられた。
  この娘はとても綺麗で世にも稀な美人、その上心の優しい利口な娘だった。それで遠近の人々が、うちの嫁に欲しいと毎日押かけてきた。然し、何分にも一人娘だから、他所にはやれぬと断り続けたが、余り騒がれ(うるさ)いので、一五歳の時、乳母を附けて肥前の国間辺(あいべ)という村に出したが、その土地の領主吉門の家に迎えられることになった。その年も暮れ、翌春百花咲き乱れた庭で遊んでいたら、空の彼方から忽然として、容貌偉大な若者が飛込んできて、アレッと言う間もなく娘を引提げて飛び去って行った。
  さあ大変、吉門は大勢の家来を使って探したが見当らなかった。ところが、七五日過ぎた朝、村に在る大きな池の真中の霧の中に左手に金幣を握り、右手に金の錫杖(しやくじょう)を持って現れ「私はもと筑後国前牟田の(むら)の者、そこには広い平野がある。その証端(あかし)として、今宵一夜のうちに、三本の松を(はや)しましょう。また、八幡は鎮守の大神であるから、領内に八幡を建立せよ」といって姿を消した。吉門は驚きながら、この旨を西牟田城主に伝えると共に、前牟田村の平野を探すと、なんと不思議「おつげ」の通り、立派で大きな松が三本青葉を茂らしてをり、豊年の相が見えたのである。
  吉門はいたく感歎し、前牟田に神祠山門鐘楼を建造し、平松若宮八幡と名づけた。歳を経るに従い、世人の信仰厚く、神威益々輝いていったが、其後世は戦国時代となり、戦に破れた大友軍残兵がこの宮を焼き、鐘楼の鐘を盗み千歳川(筑後川別名)下流を、船で渡ろうとして難破、鐘は川に沈んでしまった。その故この地を鐘ケ江村(現大川市三又)といった。
  こうした騒動にも、前牟田村の人達はじめ、吉武兄弟は、よくご神体(当時は神仏混合で合祀していた)を守りつづけた。其の後、前牟田村の人々はお宮を再建した。又吉武兄弟も隣郷の蛭池村に仏神を遷して、小さな御堂を建てた。なおその後、吉武外記の末裔である吉武杢之丞が一人の男子を出家させ修道させ、享禄年間に伝誉住意と名づけて開基し、大司山釈在院二尊寺と改めた。現在も寺の縁起並びに若宮八幡の由来と併て薬師女の話も言い伝えられている。

 9 牟田祭 蛭池
 蛭池三島神社の境内に牟田家の祖霊社がある。これは、この地の牟田家の祖先牟田筑前守家村の霊を祀るという。家村は延應元年地頭職に補せられて、伊豆国から西牟田に来た西牟田弥次郎家綱の庶子であって、当時廣池といっていたこの地に、館を構えて代々ここにいた。この霊社の祭りを牟田祭という。
 祭りの当日はその子孫の家二二名のみが、拝殿に座って祭事が行われていた。着座の順も歴然としていて、神主といえどもその上座に着くことは許されなかった。現在は約四〇年前から地区全部の祭りとして行われている。

10 弥次郎さん祭 蛭池
 天正一四年(一五八六)の役で、西牟田氏の一族は大友氏に攻められ、蛭池にいた牟田筑前守家村の末子家種にも、危険がせまった。そこで、乳母の平木忍は、自分の姓を名乗らせて、家種を育てたと言われている。
 弥次郎さんとは、西牟田の初代地頭職西牟田弥次郎家綱のことで、牟田家の先祖である。このような経緯によって平木姓の関係者で弥次郎さん祭りが行われているのである。

11 木本神社の話 八町牟田
 八町牟田下の木本神社のご神体は、昔ある人が、木の本という田んぼで、田を耕していたところ、牛に引かせていた鋤が、土の中の軽石にあたって、すきがつぶれてしまった。ところがその軽石から赤い血が流れていたので、驚いて拾いあげ、今の神社にご神体として祀ってあると云う。ご神体を祀ってある所の扉を開けて、内を覗き込んだら目がつぶれると、年寄の人達から言い伝えられている。今ではいぼの神様として軽石をいっぱい神社にお祀りしてある。

12 草野又六 上木佐木
 昔、大木町一帯は湿地帯であった。その広大な沼地を堀割り整地して、美田に造り変える設計施工責任者が草野又六という人物であったそうな。その工事は、殆んど、その地域住民の労役奉仕によるものであり、工事中は農産物の収入も皆無の状態で、住民は血の滲むような困窮に耐えさせられたという。この苦痛の中から、誰いうとなく、次のような言葉が住民の間にいいはやされるようになった。「木六・竹八・葦九月・草野又六いまが斬り時」木六とは木を切る適期は六月がよい。又竹を切るのは八月が適期ということで、葦は九月が刈り取りの適期ということである。草野又六は、年間いつでも出遭ったら斬るといわれる位、この工事が難工事のため、草野又六がにくまれていたそうである。この工事の大切さは分っていても、当面の生活苦から草野氏を殺したら、工事が中止されるのではなかろうかという住民の願望があったようである。
 こんな話が古老の間で語り経れている。又一説に、草野又六の墓は、今の草野町に残っているという説があるが定かではない。

13 立野にも八院合戦の戦死者の塚 奥牟田
 八院合戦の際、立花の家臣某は、左胸に矢を射ぬかれたまま馬にまたがり、戦場からのがれて、立野でどうと馬から落ちて命を断った。その亡霊を弔うために、現在堂屋敷にその塚がある。中村や中通方面に小塚が残っているのは、多分この頃の兵士を葬ったものであろうと思われている。

14 平五郎の左義長 平五郎
 江戸も末期の頃、平五郎(たいらごろう)という少しお人好しの中年男が村に住みついて、使い走りや農家の手伝いなどして、その日を送っていた。たまたま一月一四日正月で酒を饗応され、左義長の藁塚の中で眠っていたらしく、それを知らない村人や子供達が左義長に火を放ち、五郎さんは大火傷を負って死んで仕舞った。それからこの村では左義長を焚かなくなったと古老の言い伝がある。平五郎の字名の起りもそれからではないかといわれている。

15 光秀の置土産 筏溝
 明智光秀がまだ若侍の頃、諸国行脚をして、その途中、平五郎の恭敬院に立ち寄り、二八日の間をそこに宿泊し、出発の際に自分の武運長久と報恩のため、持っていた霊画を奉納した。これは僧()源信の真筆で「山越の御影」という霊画で当院では三三年毎に開張することになっている。
 その後、当院は天台宗から浄土宗となり、光秀山西向寺と改名した。

16 蒲池家と朽網(くたみ)家 筏溝
 豊後朽網城主宗寿は、城を捨てて一一歳の宗常をつれて、母の郷里蒲池へ来た。西蒲池の崇久寺にしばらく居候をして蒲池姓を名のることにした。叔父にあたる宮童丸が、筏溝にいることを聞き、筏溝に来て尋ねたところ、浄光院という小さな家のあとを教えてもらったが人は誰も住んでいなかった。(今の「門の内」)そこで遠い親戚の池末六郎右衛門の食客となった。(中通の三島神社の南側)そこで六郎右エ門の娘を、宗常の嫁にして、現在の朽網家のところで農業をすることになった。
 門の内とは、いまの観音丸にあるが薬師堂・地蔵堂のあとは全くなく田地になっている。朽網氏の墓は筏溝下荒巻敬太郎宅の東側にある。

17 朽網よいやな節 筏溝
 朽網宗寿父子が、池末家の食客として世話になっている内に、九重山のふもと朽網地方に唄われた「朽網よいやな節」を歌ったところこれが伝承されている。別名朽網節で主として祝賀・結婚式に唄われている。歌詩は民謡の項参照のこと。

18 沖参り 福土 福間
 旧八月一二日の大潮の時期に、福間には、年一回の沖参りという楽しい行事があった。それは、大正の初期まで続いた。五〇人乗り程の船八幡丸三隻に、若者・中年・一般というように夫々八竜神宮横の舟着場にて分乗し、城島を経て筑後川に出て引潮に乗り、大川沖まで行き、そこで海の神に神酒を献じ、福間地区の発展安全を祈願した。途中、船上では、早朝より準備した御馳走で歌に踊りに興じた。芸者まで加えてのお祭りだったという。蛭池三島神社の神官さんも同乗した。
 八竜神宮とは、現在の大雷神社の前身である。今でも、同神社の拝殿には、有馬藩主の真筆といわれる「八龍神宮」と書かれた額が真正面に掲げられている。

19 英彦山権現参り 横溝 堀田
 昔、堀田地区には、英彦山権現参りのため、地区全戸で、講を組んで毎年四〜五名の者が、筑豊まで英彦山権現参りをしていた。参りが終って帰って来ると、必ず地区の権現様に、その報告をしていたという。昭和の初期頃まで続いていた。講のある日は皆集まって、楽しい話に花が咲き、村人達の楽しみの一つになっていたという。堀田の権現を祀る祠のあるところは掘田屋敷という田の地名のところで、ここは、昔、堀田左近の館跡と思われる。掘田左近と増田権現そして英彦山参りは昔から古い関係があったように思われる。 尚堀田権現の敷地は現在も官有地になっている。
 この風習は町内他地区でも行われていた。

20 高良山の杖 横溝
 久留米の高良大社の杖を、村人達がその村に奉じ、身を清め正装し、先祓いの人が祓い清めつつ、次の二人が箱に入れた高良山の杖をかついで、各家々を巡ると家人達は、その杖の下を潜りながら、長寿と無病息災を願い、且つ、家運の繁栄を祈願していた。又家族で当日留守をしていた人のために、本人の着物など身にまとうものを潜らせてかわりにしていた。
 昭和の中頃まで、横溝一帯に行われていたが、現在はやんでいる。

21 裸寒行 大木町
 戦時中出征している家の人や村人達が、出征兵士の武運を祈りながら、褌一つの裸・はだしになって寒い冬の日でも休むことなく決めた日に、地域のお宮から氏神様、そして風浪宮や時には高良大社などへ、一丸となってお参りをしていた。今は語る人もなくなった。風浪宮の神事の一つとして裸寒行の行事が残っている。


    ニ 昔話(民話)

1 いつも泣いているお婆ちゃん
 むかしお寺の門前に、おばあちゃんが住んでいて、このお婆ちゃんは、毎日表てん口に立ち、空を眺めては、しくしくといつも泣いていました。
 ある日のこと、お寺の和尚さんが、このお婆ちゃんに、あなたは、天気の良い日も、また悪い日も、泣いてばかりいられるが、それはどうしてですかと、その訳をたずねたら、お婆ちゃんが言われるには、「わたしには二人の娘がいて、長女の方は、雨傘を売っている店に縁づいています。また、次女の方は、草履ば売っているところにお嫁に行っています。そういうことで、晴れて天気のよい日には、長女のところの傘が売れずに因っているだろうと思い、また、雨の降る日には、次女のところの草履が売れずに難儀しているだろうと思えば、親馬鹿といいますか、悲しくて、かなしくて、泪がでてきてしようがありません。」 といったそうです。
 そこで、さすがは和尚さん「お婆さんよ、このように気持ちを切り替えたらどうですか、天気の良い日には、次女の所の草履が売れて売れて、商売繁盛で喜んでいるだろうと、また、雨の日には、長女のところは傘がとぶように売れて儲かっているだろうと考えれば、毎日が楽しくて、ほんとに幸せに暮らせますよ。」と言われたら、暗くてしわぶかいお婆ちゃんの顔が急に明るくなり、生き生きとしてきたそうな。

2 出でゆけさまんこから
 どこの家も、昔はかどん口の横のところの障子戸の窓に、木を小さく割って作った、格子をはめたさまんこ窓があった。ところで、ある家で夫婦喧嘩がはじまったげな、それは、むこどんがたんなかから仕事ばやめて昼めしくいにあがらしたげなりや、おっかさんの炊きようらすおせ(おかず)がまだできとらんじゃったげな、そこでむこどんが「おお、おりやひだるうして、ひだるうしてのさんごたる、おまえや仕事がううぬるかけんで、できん」といわしたげな。そしたりやおかっさんがかあ−となって、負けんな「あたしや、あんたより少しばかり早ようあがっただけで、なんのそげんさばきゅうの、あんたんごと、いつもあせがるなら、おだん辛抱しきらん、ほんに、けんか(こんな)うちにや、おろごとなか、ででゆこごたる」と、つっかからしたげな。そこでむこどんが「ううん、そんならぬしやでてゆけ、さまんこ・・・・から」といわしたげな。
 その声ば聞いたおかっさんな、くどさんに燃やそうと握っていた麦藁ば投げ捨てて、ごぜんにほたくり上がり、箪笥の中の着物ばうう風呂敷に包んで、かどん口からでてゆこうでつさっしゃったら、むこどんが言わすにや「おりや、かどん口からでてゆけとは言うとらん、さまんこから出てゆけ」と言うたぞ。
 さまんこは、この様子ば見ていて、おりもけんかのときや、役に立つなあと、ふふちうて笑らうたげな。

3 井戸つるべの(しずく)
 炊事の水を汲むのに、むかしは井戸つるべで汲みあげたものです。
 ある家で、花嫁さんがお嫁入りしたあけの朝早く、ねえさんかぶりに襷がけで、かいがいしく井戸端にゆき、朝餉の支度をするのに、水溜め桶に水を汲みあげていたら、お姑さんがやって来て、水溜桶の底板をぼんとほかして、さあこの桶に水を溜めなさいと言われたそうです。花嫁さんはおかしなことをなさると思いながら言われたとおりせっせとつるべで水を汲みあげさあ−と溜桶に入れても底の無い水桶にはひとつも溜まりません。
 そうしているところにまたお姑さんが来て、底のある水桶と交換し、こんどはつるべの底ば、ぼいとほかしてから、これで水を汲みあげて溜めなさいと言われたそうです。こんども言われたとおり、なんべんもなんべんも汲んでいたら、つるべと縄についている雫で少しずつ水桶に溜ったそうです。
 そこでお姑さんがこられて、おっしゃるには「わたしもここにお嫁に来たときに、こんなことをしました」と、そして「これから家のくらしをしてゆくのには、主人がどんなに働き稼いできても、嫁さんが貯める考えがなく、どんどん使えば、この水桶のように一つも貯りません。収入は少くとも貯めようと思う気持があって、ほんの僅かでも貯めれば、いつかは桶一ばいになりますよ」と、新しい生活のスタートに家訓らしいことを言われたそうです。

4 こうじんさんのすみ
 おどんどんがこまかときにや、朝小学校に行くとき、おっかしゃんが、かならずくどさん(かまど)のこうじんさんのすみば、あたまのちょんちょんさん(てっペん)に、にしくりつけてやらした。
 学校にいってみると、だってんつけとる、つけとる。とりわけ髪ばつんですぐん者は黒黒としていた。
 三年か四年ごろまではそうなかったばってん、五年生ごろになると、ちょっとおかしゅうなって、おっかしゃんのつけてやりよですさすと、せんでよかちゅうて逃げ廻ったが、そりばひっつかまえて、くろぐろとこうじさんのすみばつけらしたもんたい。
 ふとなって、あるときなぜこうじんさんのすみばつけやんかと、おとっちゃんにきいてみたりや、こうじんさんは火の神様で、このへんな堀の多かけんお前どんが堀にへえって溺れ死なんごったい。火の神さんな水とは仇ぢゃんけんね、お前どんば守ってくれらすとたいと、話しかけてくれました。

5 淋しかった三本松
 侍島の北西蛭池境に三本松と呼ぶ所があって、昔はこんもり繁った林と松の大木が聳えていた。とても淋しいところでたぬきがいるとか、松の木に馬の足が下るとかいわれていて大変恐がられていたそうな、或る月夜の晩に、村の人がそこを通ると、傘をさした女がにこにこと笑っているのに出会ったそうである。「たぬきめ出たな」と思って、知らぬふりして通り抜けたという。また或る夏の夜、通りかかると堀の水ぎわで今度は男が鉢巻きをしながら(こも)を切っていたそうである「又たぬきめ」と思って通り抜けて来たそうであるが、このようにたぬきが住みついて人々を化かしていたという昔話が今にいいつがれている。今は土地改良事業で昔の面影はなくなり大きな道が出来てさま変りしている。

6 雷さんと蚊帳
 昔は雷が鳴ると子供たちは桑原桑原と唱えながら、桑の葉を取って来て、頭に乗せたり耳に入れたりしたものである。又お臍を出していると、雷さんから取られると言うので、臍をおさえたり、シャツ等を着てかくしたりした。大人達は、蚊帳(その蚊帳は麻物がよいと言われていた)を出して部屋につるし、一と隅を落として張っていた。もし雷さんが落ちて来ても、蚊帳からころげ落ちると言うのである。
 家族全員が蚊帳の中で雷が鳴りやむまで、じっと待っているが、その間に子供達は、親からいろいろ話を聞いたりした。その内に、よく眠ってしまったりしたもんである。これが雷鳴り除けの方法であった。
 今では蚊帳のある家も少くなったし、蚊帳を知らない子供達も多くなった。

7 片足のバッタ
 ある所に、一匹のバッタがいた。どうしたことか、このバッタには片足が無かった。バッタは毎日毎日、その自分の片足を探していた。ある日、バッタは「どうしても片足がない。どこにあるのですか。」と神様に聞いてみた。すると、神様は「お前の片足は、山を三つ越えた所の頂上にあるよ。」と言った。早速バッタはその山を登り始めた。いく夜もいく夜も休まず登り続けた。
 そして遂に三つ目の山の頂上に着いた。だが、そこには、見渡す限りの原っぱだった。バッタは、神様に「神様のうそつき!足なんてどこにもないじゃないか。」と言った。すると神様は「バッタよ、お前は山を三つ越えてきた。こんなに登れた。もうお前の片足は必要ない。それだけの足でも、十分生きていける。」と言われた。それからバッタは片足で、いつまでもいつまでも原っぱを飛びはねたと言う。

8 なぜ木佐木というの
 昔、本木(現大川市)に空を突くような大木があったそうな、朝日が昇るとその影は、肥前の山を覆ったという。夕方には、夕日で影が、筑後の山や平野を覆い盡したというほどであった。
 ある時、その大木が東に倒れたそうな、そして木の丁度中ほどが中木という地名になり、木の先にあたるところが木先(木佐木)となったという。その一番頂上を上木先(上木佐木)と呼んだということで、今でも古老の間に話しっがれている。

第六〜第八節 省略