道君首名 初代筑後守、道君首名は孝元天皇の玄孫彦屋主田心命の子孫で文武天
皇四年(七〇〇)六月に刑部親王藤原不比等と律令撰定の勅命を受け大宝元年
(七〇一)に僧尼令(僧尼に関する律令)を大安寺(奈良、六二〇年聖徳太子建
立)で初めて講じた。同年八月律令撰定の功により正七位下から正六位上に叙せ
られた。和銅五年(七一二)九月遣新羅使となり同六年八月帰朝後、最初の筑後
守に任ぜられた。彼は肥後国を兼治し民の生業や耕種に励み莱果の栽培、鶏豚
飼養に留意し溜池を掘り灌漑の便を計った。尚大莞地区の条里制遺構も彼の業
績の名残ではなかろうか。
後土地の住民は其の徳を慕い印鑰神社(大善寺夜明)に祀った。同神社の境内
にある乙名塚は首名の墓といわれている。養老二年(七一八)正月に正五位下に
進み、同年四月五六歳で死去した。貞観七年(八六五)従四位下を贈られた。
牟田筑前守家村 西牟田氏の家老で、その舘は蛭池村にあって東西三九間(七〇・
九メートル)、南北三十間、五四・五五メートル)、周りを堀で囲む。堀の幅東四間
(七・二メートル)、南と西は二間、北二間半で、代々ここを舘舎とした。「集家記」
によると、「始め此邑を牟田と号す、後廣池牟田と称し、又改めて蛭池と名づく。」
牟田氏開基帳に、蛭池村慶雲寺、寛元年中、牟田筑前殿菩提の為建立。寺領三
町余寄附と見える。又蛙池三島神社境内に牟田家祖霊社がある。
高橋丹藤兵衛 弘安の役「弘安四年(一二八一)」直後、大薮村の地頭として鎌倉幕
府から派遣された。名を基氏といい、藤原氏、近衛家の血をひく貴族の出である。
正安三年(一三〇一)大薮村三島大明神(現在の三島神社)を伊豆国より勧請し
た。「開基帳及寛延記云」。また、高橋村の今松権現(現在の今松神社)は、正慶元
年(北朝年号)(一三三三)大薮村地頭高橋丹藤兵衛弟、高橋三河が高橋村に移
り、大薮村の三島宮を勧請したと開基帳は認している。
蒲池久弘 大溝村大字横溝本村に城ノ内という所の城址がある。筑後十五城の旗頭
といわれる。
蒲池五代の城主(上妻・下妻・三瀦・山門で一万三千町歩を領有)、筑後守治久の
別舘の址である。治久は代官として末弟の久弘をこの別舘に置いて近郷を支配さ
せた。
田中吉政 本姓は橘、幼名を久兵衛長政と称した。天正一七年(一五四八)近江国
浅井郡に生まれ、織田信長、豊臣秀吉に仕え天正一八年一〇月、五万七千石の岡
崎城主となり慶長元年(一五九六)七月には加増されて十万石を賜わり吉政と改め
た。関ケ原の勲功により同六年筑後国三二万五千石を封録、柳河城を居城とした。
城の要害に備え規模を拡張し城濠を掘り、石塁を高め、五層の天守閣を建て、門築
地を構え、城域を広めた。領内の古城を整理し田畑となし、徹底した刀狩で土・農の
身分をはっきりさせた。
吉政は入国に当り久留米・柳河間の道路を開き一里塚を築いて里程の目標とし
た。浮島、葦塚、道海島等を開拓したり、有明海岸の干拓、筑後川、矢部川の治水
工事、山ノ井川、花宗川その他の小川、溝、堀等の水利系路を整備した。
前記柳河街道筋には町(大角町、横溝町、下田町等)を設け御免地として優遇し
たので住民は御免地祭をして藩主の恩恵をしのんだ。後、その徳を称えて横溝町に
兵部神社、土甲呂に詞を建て祀った。又佐嘉より陶工家長彦三郎を禄して西蒲池
に窯を開いた。同一四年二月一八日、参勤の途中伏見の宿で死去した。行年六二
歳。柳川の眞勝寺に墓がある。四男忠政が襲封した。
猪口萬右衛門 萬右衛門は大莞村大字三八松の庄屋猪口亦兵衛の子で、同村の桶
工猪口勘助の養子となった。萬右衛門は何とかして百姓の灌漑の苦労を減じたいも
のであると、日夜揚水機の発明に苦心していた。萬右衛門が水車を発明する以前
は、斜形の桶(打ち桶)に縄をつけて両方から引いて水を汲み揚げていた。たまたま
彼の家に泊まった一商人は灌漑の話をして、摂州淀川の水車の状況を語った。萬
右衛門はそれによって一つのヒントを得て機械を考案したが、漏水が甚だしく使い
ものにならなかった。然し機械を完全なものにするため何回も失敗を重ね、遂に最
近まで用いられていた揚水踏車を発明するに至った。時に安永六年(一七七七)
萬右衛門三五歳であった。
筑後は言うに及ばず、肥前、肥後と広くその恩恵にあずかった。指物の町大川
(中原)で製造されていた。萬右衛門のその功績を永久に同村荒牟田に建てられた
萬右衛門車碑が物語っている。文化八年(一八一一)正月二〇日七二歳で没した。
吉武助左衛門 木佐木村蛭池の人である。久留米藩の軽卒で下見役を勤めた。当時
本郡中部西牟田、大犬塚、小犬塚その他に散田といって荒廃した土地数百町歩が
あった。助左衛門は附近の住民にすすめてこれを開拓させ、各所から水を引いて良
田美地とした。いまも助左衛門の功績は三瀦町地方の物語りとして語りつがれてい
る。
墓は田川野屋敷にある。生前路傍に自ら碑を建てたといわれている。明和七年
(一七七〇)五月二八日没した。
北島徳左衛門 文化一一年(一八一四)木佐木村蛭池に生まれ、早くから花莚製造
を業とし、安政四年(一八五七)製品を持って長崎に行き、オランダ人、ポルトガル
人と貿易をし、金巾や染野薬品などを輸入した。これが我が国における花莚輸出
の最初である。しかし生産の量は需要を満たすことが出来なかったので、一時粗
悪品を輸出したため大いに信用を失墜し多額の負債により倒産しょうとした。けれど
も撓まずその業に力を入れ販路を海外各地に開く基礎を築いたのは、地方産業会
の恩人といわねばならない。徳左衛門は家業の外に村の組頭役を十年間勤めた。
明治三年(一八七〇)五七歳で没した。
佐野貞藏 天保八年(一八三七)木佐木村八町牟田に生まれ、幼時から学を好み
研究心に富み、久留米明善堂に学ぶ。明治六年(一八七三)小学校教員となる。
その頃上妻、下妻両郡の西部や三瀦郡の東部地方は甚大な螟虫被害が出て、本
郡全般に及ぼうとしたが、農民は鐘、太鼓、焚火でこれを駆除しようとするばかり
であった。貞藏は教職のかたわら螟虫の生態を研究し、四か年を費やして孵化か
ら発蛾、越冬に至るまでの実態を把握した。教職を辞して村会議員となり、明治
一二年(一八七九)一二月羽犬塚小学校で、上妻、下妻、三瀦三郡三百余名が螟
虫予防駆除協議会を開く。然し「螟虫は天災なり」と誤解するものが多かった。
更に貞藏は研究を重ね螟卵採取、螟蛾點火誘殺また被害株掘取り焼却することに
した。時の郡長姉川行道は同年一〇月郡令を出して株掘りを実行させた。
大勢の農民は八町牟田に集合し、稲株駆除取消しを強請し遂に貞藏の居宅を焼
き討ちに及んだ。
貞藏は公職のかたわら村の青年に教育を授けた。貞藏没後その恩徳を讃えて大
正五年(一九一六)八町牟田国道南五十メートル大木町農協前に彰功碑が建立さ
れ、毎年大木町農協主催で碑前祭が実施されている。明治三五年(一九〇二)二
月没した。
境信太郎 大莞村大薮の人で、小学校教員を勤め後大莞戸長となり、明治一八年
(一八八五)実業である花莚業に従事し、主として本県の重要物産である花莚、茣
蓙製造の増加と改良のために東奔西走した。同二六年(一八九三)筑後茣蓙同業
組合が組織されるに際して、假定款起草委員に推せんされ、副頭取になった。
同二七年(一八九四)副頭取の任をやめて花莚織機の改良に熱中し、岡山県より
特許機を取り寄せ専ら普及に努力した。同三三年(一九〇〇)アメリカに渡り、筑後
花莚の直輸出業を始め、斯業の発展に努めた。
明治四五年(一九一二)四月五日に五九歳で没した。昭和二年九月有志によりそ
の遺徳を讃えて大薮(田中)に碑が建立されている。
水落 操 木佐木村長在職二四か年(明治三四−大正三)勲七等、慶応二年一〇
月大莞村奥牟田に生まれ、後木佐木村八町牟田水落家に入る。明治一七年(一八
八四)久留米明善中学を出て小学校で教鞭を執る。
明治一九年(一八八六)八町牟田外四ケ村戸長役場書記拝命、同二二年(一八
八九)郡役所に勤める。同三〇年(一八九七)木佐木村助役、同三四年(一九〇〇)
木佐木村長就任以来村政発展に努力した。特に村発展の将来を考え、西鉄電車
路線誘致に奔走した。村長在職の傍ら福岡県花莚同業組合長、郡教育会評議員、
県農会代議員などの公職を歴任。地方自治に努力すると共に郷土の産業発展に
盡瘁した。大正一三年(一九二四)自治功労者として県知事より表彰された。昭和
九年(一九三四)七月二九日六九歳で没した。
本村千代松 大莞村長在職三一か年(大正二−昭和一八)、明治九年一〇月(一八
七六)大莞村三八松に生まれる。久留米明善中学を卒業後水田小学校、木佐木小
学校で教鞭をとる。後大莞村収入役を経て大莞村長となり、村政発展に盡力する。
また郡会議員三期、大正四年(一九一四)には県会議員を一期つとめ、県政にも
携わり識見豊かな行政通で、村長在任中、郡土木組合委員、信用組合県支部委
員、郡部会副会長、県町村長会評議員を兼務するなど数多くの要職につき、村政
はもちろん郷土の発展にも大きく貢献した。昭和三七年(一九六二)二月九日八
五歳で没した。
中島藤次郎 大溝村長在職二一か年(大正一五―昭和二一)、明治一三年(一八八
〇)大溝村五反田に生まれる。普通教育を終え、早くより事業界に挺身し、銀行、
組合などの創立に奔走した。明治四五年(一九一二)大溝村役場書記、その後
収入役を勤め、大川指物株式会社重役をも兼ねた。大正一五年(一九二六)大溝
村長に就任し、村の産業経済の振興に盡力する。また難問の大角、横溝小学校の
統合を実現するなど郷土の発展に努力した。
村長職の外、農会長、信用組合理事、江上線耕地整理副組合長、郡土木組合
員、大溝銀行相談役等、多数の要職を兼ね、地方自治行政の発展に貢献した。昭
和二六年(一九五一)七月二一日七一歳で没した。
氏 名 | 出 身 地 | 時 代 | 業 績 |
---|---|---|---|
高山又新 | 筏 溝 (大川市住) |
文政 九−明治 七 | 筏溝、朽網家に生まれ江戸に遊学医術を学ぶ、業成り 郷里に帰り大川市中古賀医師高山宗有の養子となり 外科内科を専門とした。 肥前蓮池侯の侍医を勤め、子弟に読書、教育を授ける、 明治七年四月四七歳病没 |
藤岡民次 | 三八松 | 嘉永 三−明治二四 | 漢学を上妻郡木屋石門に学ぶ、明治四年蒲池医師に 医を学ぶ。明治一一年東京に遊学翌年帰郷後、県、郡、村議会議員 |
くたみ 巧網浪江 |
大 薮 | 嘉永 三−明治三〇 | 農業の先駆者(螟虫駆除) 県議会議員、名誉村長 |
平木廉藏 | 高 橋 | 嘉永 三−明治一七 | 大庄屋、東京に遊学、県議会議員 |
澁田梅太郎 | 前 牟 田 | 嘉永 六−明治三八 | 村会議員、村長、県議会議員 |
永松健太郎 | 奥 牟 田 | 安政 元−明治一五 | 教育者、立志小学校創設者(大莞小前身)、戸長(村長) |
永松卓爾 | 奥 牟 田 | 文久 二−明治四一 | 教育者、戸長、村長 |
北島 利 | 蛙 池 | 元治 元−昭和 四 | 花莚貿易振興、県議会議員、福岡県花莚同業組合長、 花莚貿易商米国サンフランシスコに花莚合資会社設立、 花莚織機改良 |
中村常太郎 | 横 溝 町 | 慶応 元−大正 七 | 醸酒業(文久三年父正助創業、その後を継ぐ) 三瀦銀行監査役三潴酒造研究所取締役、三瀦醸造試験場理事、福岡県酒造組合評議員 |
高井良富藏 | 蛭 池 | 明治 八−昭和三九 | 花莚動力織機、高井良動力花莚織機発明、製作 |
石崎三郎 | 上木佐木 | 明治一〇−昭和二八 | 正八位勲六等、木佐木村長在職一八ケ年、木佐木村助役、木佐木信用組合長 福岡県花筵同業組合長、三瀦南部土木組合会議員、村消防組頭などを歴任 |
熊丸連藏 | 上木佐木 | 明治二〇−昭和五〇 | 黄綬褒章、勲五等雙光旭日章 水稲品種改良、三潴式苗代の普及、米多収栽培技術普及 |
矢加部六郎 | 笹 渕 | 明治二二−昭和三三 | 久留米絣技術保持者、重要無形文化財 |
馬場友次郎 | 八町牟田 | 明治二二−昭和四九 | 勳五等瑞宝章、農地委員長、有明海漁業調整委員長 |
松永 万吉 | 奥 牟 田 | 明治二三−昭和六〇 | 勲五等瑞宝章、村会議員、村会議長、大莞村長、大木町長 |
松本 壽 | 横 溝 | 明治二六−昭和四九 | 黄授褒章、日本酒造杜氏 |
矢加部アキ | 笹 渕 | 明治二八−昭和三二 | 勲六等瑞宝章、黄綬褒章、久留米絣技術保持者、重要無形文化財 |
広瀬幸次郎 | 上木佐木 | 明治二九−昭和四九 | 黄授褒章、建築家、町議会議員、三瀦柳川地区建築士会々長 |
大塚 悦次 | 絵下古賀 | 明治三〇−昭和四九 | 黄綬褒章、日本酒造杜氏 |
熊本原仲 横溝村の人で少年時代から学を好み長じて学を上妻郡の儒者高山畏斎
に受けた。天明四年(一七八四)畏斎が歿したあと、その遺子茂太郎を助けて先師
の墓側に学舎を設けて継志堂と名づけ近郷の子弟を教育した。後京都に上って西
依成斎の門に入って更に学徳を磨き、郷に帰り専ら医を業とし傍ら三瀦郡の子弟を
教育した。学徒百数十人に及んだ。文化二四年(一八一七)四月一六日七二歳で
没した。
宮崎信敦 信敦は安永五年(一七七六)三月二〇日蛭池村三島神社神官の子とし
て生れた。幼時、桝河の富士谷御杖に皇学を学んだ。文化年中(一八〇四)頃京都
に行き、萩原家で神道を修める一方、和歌は香川景樹に入門する。二八歳で郷里
蛭池に帰り三島神社の祠官を勤める傍、国典と歌道の教授をした(久留米明善堂
の講師にもなった)。子弟は数百人にも及んだ。文化一四年(一八一七)従五位下
に叙せられ、阿波守に任ぜられた。樺島石梁・池尻葛覃・鈴木重胤・近藤芳樹・伊
藤常足・佐久間種・船曳大滋・巌主兄弟・真木保臣(和泉)等は指導を受けた主だっ
た人々である。文久元年(一八六一)八月五日、八六歳で没した。明治三九年(一
九〇六)大日本歌道奨励会では、信敦を日本歌神の一人に入れた。
氏 名 | 出 身 地 | 時 代 | 業 績 |
宮崎千河翁 | 蛭 池 | 享保 十−文化 二 | 宮崎信敦の伯父 蛭池三島神社の神官 従五位下 山城 守 和漢の学に通暁 |
宮崎 浪穂 | 蛭 池 | −明治二十 | 宮崎信敦の養子 日田の広瀬淡窓の咸宜園に学ぶ 古事 記、日本書紀等を研究 詩歌の講義をした 三島神社神官 歌人 |
竹本南部太夫 | 佐 賀 県 | −明治二十 | 大阪義太夫座の幕内 明治初年三八松野口で 筑後一円に 義太夫をひろめた 野口に墓碑がある |
井上 千尋 | 大 角 | 文化 五−明治二二 | 別名井上出羽守藤原豊恒 神職 開塾(習字算術) 大 角東三島神社境内西隣に門弟の建立した記念碑がある |
井上速見 | 大 角 | 天保二三−明治四二 | 漢学を久留米柴山文平、皇学を船曳鉄門(筑後)に 師事 神職 開塾 小学教師 |
永田正樹 | 三八松 | 嘉永 二−大正 四 | 皇学を船曳鉄門、漢学を若林残夢に師事 神職 皇典講 究所侍講 開塾 塾生一五〇余人 |
北原大莞 | 三八松 | 明治二五−昭和一四 | 本名鹿次郎東京美術学校彫刻科卒 北京芸術 専科学校 教授 帝展入選数回代表作「姫恋皇子」 |
古賀彦次郎 | 横溝町 | 明治二七−昭和四五 | 勲六等単光旭日章 教育者 小学校長 大溝村長 大木 町初代助役 |
鶴岡 春三 | 上牟田口 | 明治三三−昭和四八 | 勲五等瑞宝章 教育者 中学校長 教育長 |
木村喜七郎 | 三八松 | 明治三三−平成 元 | 勲五等瑞宝章 教育者 小学校長 大木町連合 老人クラ ブ初代会長 |
池上 定一 | 大 薮 | 明治三三−平成 二 | 勲五等瑞宝章 大木町文化賞 教育者 小学校長 教育 委員 二科会員(画号丁一)美術の普及に努力 「ふるさと美術館」創立 |
松永喜久次 | 大 薮 | 明治三四−昭和六一 | 勲五等瑞宝章 教育者 小学校長 教育長 |
川村 利雄 | 上木佐木 | 明治三七−昭和六一 | 勲五等瑞宝章 教育者 小学校長 公民館長 教育委員 |
松枝力トリ | 笹 渕 | 明治三八−平成二 | 従六位勲五等瑞宝章 教育者 私立雅鳥学園創設者 学園長(校長) |