題字 荒巻文雄 書


  発刊のことば
                    大木町長 石川隆文

 私たちのふるさとは、旧大溝村、木佐木村、大莞村が合併し、昭和三十年一月一日大木町として発足しました。
 以来、三十有余年を経たいま、ふるさとの歴史をひもとき、私たちの祖先が郷土をどのように築き、子孫の繁栄のための基盤をつくるために苦労をしてきたか。未開の土地を耕し、水を確保するために掘割を作り、豊かな土地にするため営々と築いてきた先人たちのたゆまぬ努力によって、現在の肥沃な土地と豊かな水が育まれたものであり、これらは私たち町民の共通の財産として、後世に伝え、残していく責任があると存じます。
 そのためには、大木町の歴史を知り、祖先の農耕文化を築かれた足跡をたどり、一千年に及ぶむらづくりに学び、これからの大木町のまちづくりに生かしていく必要があります。 このような願いをこめて町誌発行が企画されて、はや五年の歳月がたちました。当初の三年の計画が大幅に延びて、ようやくここに発刊の運びとなりました。何分にも長い歴史の流れを、各分野にわたってまとめることは大変なことであり、多くの資料の収集が必要であります。更にその資料の分析と実地に出向いての史跡の調査など史実の調査研究が必要でありそれも町内だけでなく、近隣地域との深いかかわりあいがあり、しかも町内に資料が非常に少ないということもあり、広はんな地域にわたっての資料収集、実地踏査など、編さん委員のみなさんの汗のにじむ苦労の跡がうかがえます。心からそのご苦労に対し敬意と感謝を申しあげます。
 また町誌編さんの中心であり、調査研究、執筆はもちろんのこと、まとめ役として陣頭指揮をとられていた、前編さん委員長徳永保先生が、志なかばで完成を見ずに逝去されたことは誠に残念であり心からごめい福をお祈りします。
 最後になりましたが、貴重な資料を提供下さった方々、資料収集のために御協力下さった多くの町民のみなさんに、心から感謝を申しあげ、本誌が多くの人びとに親しまれ、愛読され、意義のある資料として活用され、これからの町づくりに大きな力となりますよう祈念して、発刊のごあいさつと致します。

  編さんのことば

 時あたかも郷土大木町では、構造改善事業実施中で、激しく変貌をしている時、町誌の編さんをすることは誠に意義深いものがある。
 昭和五六年文化財保護委員会が発足し、ついで昭和五九年に大木町文化保護条例が制定され、この条例に基づいて大木町文化財専門委員会が設置された。
 昭和六〇年に大木町文化協会の中に同好会の郷土文化部ができ、郷土の調査研究を始めた。昭和六一年八月には大木町教育委員会より「文化財パンフレット作成委員」を、郷土文化部員に委嘱され、昭和六二年三月パンフレットが発刊された。この「大木町文化財・史蹟めぐり」は、その年の大木町文化協会総会で、徳永会長と中ノ森部長によって分担発表説明がなされ、参会者に多大の感銘を与えた。
 これが口火となって、昭和六三年二月二五日、町と文化財専門委員の構成で、大木町誌編さん準備委員会が開催され、三月一〇日町長から一一名の編さん委員に委嘱状が交付され、町誌編さん委員会が発足した。ついで大木町誌編さん設置要綱が交付され、三年間の完成目標で取組むことになった。こうして発足した委員会は、班分けと町誌骨格について協議し、自然・歴史班、政治・経済班、教育・文化・民俗班に分け、人物と年表は全員で担当することにした。
 大木町をどのような観点から取り上げて、特色のある町誌とするかが検討された。その結果、大木町は日本で有数の平坦な掘割地帯で、米・麦・い草などを主産業とする農業地域であり、そこで培われた歴史、文化風俗を見つけながら、編さんをすすめることになった。編さん委員会は、全員会議と班会議に分け、調査研究を進めた。研究のため先進地の八女市と黒木町の視察をしたが、その膨大な予算と数年に亘る準備調査期間が取られ、町誌に対しての並々ならぬ町当局の熱意が汲みとられ、羨ましい思いがした。ところが徳永委員長は、是が非でも町の要望の三年間で完成しよう、委員は一丸となって努力して欲しいと全委員を激励し、その半面では町に対して編さん作業の側面よりの支投機関の結成を要請し、幹事会が組織された。
 平成元年一一月、編さん委員会・幹事会の合同会議が開かれ、欠員となっている委員の補充が行われた。 一二月第二回合同会議が開催されて、幹事会に対し資料収集や調査研究のための町外の出張・参考書類の購入・研修の要望がされた。平成二年四月の委員会で、実地の検分と写真撮影を計画し、六月で撮影が一通り終了した。七月に入り推敲委員を委嘱した。終盤にむけ全員必死の思いで取り組んでいる一一月に委員の辞任が知らされ、その補充も出来ないでいるとき、突然徳永委員長の病気入院という思いもかけぬことが起きて、一月二五日不帰の客となられたのである。
 そこで正・副委員長の補充がなされ、五月から月四回の編さん会議を開き、班別会で修正された原稿を全員会議で検討修正し、これを樽見推敲委員に送り校正を依頼した。人物・年表・参考資料・協力者は全員で分担整理した。平成四年になって編さん委員会を月七、八回に増して執筆作業にあたり、校正の終った執筆者の原稿から逐次出版社に渡し、ゲラ刷りが返って来るとこれをその班全員で、初校、再校、三校、四校で校了し、町誌の発行を見るに至った。
 顧みるに、町誌編さん委員会発足以来凡そ五年、実に長い苦しい歳月であったがそれだけに、ここに町誌の完成を見たことは、まことに感無量である。失われていった過去のなかに埋没したものを掘り起し、これからも消えてゆくものを町誌の上に書きとめて、今後の町発展の踏台として、何らかの形で役立てて貰いたいという気持ちでいっぱいである。この町誌は素人ばかりで、何から手掛けたらよいかわらないまま、まず他市町村の史・誌をひもとくことから始め、次に各地の資料館・図書館に行き調査研究を重ね、また専門家を訪ねて教示を受けたり、史跡を尋ねるなど、足と熱意で書いたものであり、学者の書いたものでなく、素人が全力を傾け手探りで書いた泥臭い町誌である。この間、町誌編さん委員会に貴重な資料を提供下さったり、御教示を戴いた町内外の協力者に対し、深甚の謝意を表する。この町誌は満足なものではないが、委員が全力を尽して書いたものとして至らぬところはお許しを乞う。
 最後に町誌の完成を見ないで不帰の客となられた徳永委員長ほか二名の委員の霊に対し、哀悼の意を捧げ冥福を祈る。

       平成五年 三月    大木町誌編さん委員会  委員長  永 田 恕一