第二十番 夜明山 朝日寺 臨済宗
久留米市大善寺町夜明
この寺は寛元三年(1245)の宋の無準和尚の弟子、神子禅師栄尊が開山となって建立された。後に一時は廃寺となっていたが、田中筑後守吉政が再興、元禄年中に虎渓和尚が中興している。 この朝日寺には名前の由来が伝説として残っている。「十二世紀末のこと。この辺りに藤原種継という豪族がいた。種継には一人娘がいて、その美しさは、遠く都まで噂が伝わるほどであった。やがて噂は京の都にも届き、役所から迎えがやって来た。しかし種継は別れが辛く、使者が到着したその日、ツナシという魚を牛車三台分も屋敷に持ち込んで、それを焼いて煙を扇ぎたてた。使者が訳を聞くと、種継は娘が死んだので火葬にしているのだと、嘘をついたので、使者は騙されて都に帰っていった。その翌年、平家の転覆を図り、鬼界ヶ島に流されていた平康頼という若者が、罪を許されて都に帰る途中、種継を訪ねて来た。娘は康頼と親しくなり、朝日をのみ込む夢を見て身ごもり、やがて娘は男の子を出産するが、その子は口から光を発していたので、霞川に捨てられる。しかしその子は七日七夜たっても鳥獣に襲われることもなく元気だった。噂を聞いた山本町永勝寺の元琳和尚は、男の子を連れて帰り大切に育てた。ちなみに男の子が捨てらていた辺りは、その後、草木一本も生えず不毛霊地と呼ばれている(現在、大善寺小学校の校庭に「不毛霊地」の碑がたっている」。 その後、聡明な男の子は後に宋に留学、帰朝後には肥前の万寿寺を建立し、そして朝日寺を建立した。この男の子が、開山の神子禅師栄尊であり、朝日寺の名は開山の出生縁起譚に由来している。 |
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ご詠歌 迷いぬる 闇も晴れなん 朝日寺 仏の誓い あきらけきかな |