第三十一番  飛形山  大光寺  臨済宗
八女郡立花町北山

0943-23-4877

    
 大光寺の創建は古く、推古天皇十七年(609)のこと。百済国より来朝した日羅上人が開いたお寺と伝えられている。その時安置された本尊の十一面千手観音は日羅上人が刻まれた仏さまといわれていたが、宝亀五年(774)落雷のために焼失した。後に行基菩薩が訪れたときに、お堂を再建し、本尊を刻んで安置された。
 現在のお堂は宝永三年(1706)、村人によって建てられた。この大光寺には山号にまつわる伝説が残っている
 「寛平の頃(889〜897)、太宰府に藤原高房というひとがいた。観音様への信仰心が厚く、尊像造立を思い立ち、唐より香木を求めようとするが、実現しないまま亡くなった。その子の黄門侍郎は後に、太宰府近くの海で光を放つ香木を発見、そこで書かれていた文字から、父の求めていた香木であることを知る。侍郎は喜んで京に上り、十一面千手観音ニ体を彫らせ、一体は摂州に一寺を建てて安置し、もう一体は太宰府に持ち帰った。ところが不思議な事に、その観音像は夜ごとに光を放ちながら筑後の方へ飛び去ってはまた戻ってくる。侍郎がその行く先を訪ねると、そこには一宇の草堂があり、十一面観音が安置されていた。侍郎はこれを喜び、新たに堂宇を建立し、十一面観音も一緒に祀った。とある。このような縁から大光寺は飛形山と呼ばれるようになった。
ご詠歌  もろびとの 迷いの闇は 晴れぬべし おほきに光る 寺に参れば

山門
本堂

見事な彫物

巡礼札

本堂内部

八十八ヶ所の観音像が一堂に
大光寺縁起
縁起書 クリックすると原本が読めます

本堂再建祈念碑
寺録  保存品   大光寺
右(上の写真)の縁起長年間行所相分からず誠に心痛致し居り候処大正十年五月下旬より毎日の雨つづきついに六月十七日大洪水に成り川上より家流れ諸道具等流れし故其れを取留の為めに光友村木村忠太郎と云人二里余りも下り色々品物を尋ぬる其の内に何に知らず右の本を見付け持ち帰えり谷曲松田代氏の処にて開き見るに是れは不思議なる哉飛形山観世音の縁起成る事相い分り其れより田代氏日吉川原川口氏此の二人の世話にて寺総代一同連名にて有難く受取り直ちに当山に納め候者也。
大正十年六月大吉日    飛形山大光寺看主  田中祖尭代
寺総代連名  松崎又三郎・仝喜三郎・仝仁三郎・松尾鶴次・谷村小太郎・松崎寅次・谷川福太郎・松崎政太郎


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