現代語訳

徳川幕府の末期、諸藩は立ち上って王政復古を主張し、幕府もついに大政を朝廷に奉還して恭順の意をあらわした。しかし徳川氏の家臣や東北地方の諸藩の中には頑固なものがいて、主命に従おうとしなかった。このため朝廷は軍を進め、ついにこれらを平定した。戊辰役といわれるのがこれである。わが久留米藩主有馬頼咸公も、朝命を奉じて千百四十余名の兵を出し、関東上野・奥州駒峰・函館などで勇戦奮闘、四十余名の死傷者を出した。維新の大業はこの戦いによって終りを告げたといってよいであろう。ごれが果した役割はまことに大なるものがある。この時以来、時はまたたく間に過ぎて六十八年を経過してしまった・当時の従軍者はほとんど死没しており、名前も忘れられようとしでいる。

このため有志が謀って碑を建立し、彼等戦士の名を永久に伝えようとしている。私もこの戦役に従軍し、tがいに生死を誓い合った一人である。幸いなことに、九十才の老齢にまで達してなお昭和の聖代に余命を保っている。まことに感慨深いものがある。ここに出兵についての梗概を誌す次第である。
                           九十翁重  柳瀬三郎

(説明)

戊辰戦役の開始は明治元年1月3日である。久留米はんでは、2月20日藩主が挙兵上京し、堺・大阪・神戸付近の警護を命ぜられたが、3月26日、家老脇の有馬蔵人を総督として関東への藩兵出張の命をうけた。この軍は7月奥州へ転戦し、2月1日凱旋した。他方九月には、応変隊・山筒隊約五百名が関東へ出兵し、半数は函館へ移動した。これら藩兵の帰国は2年6月であった。
 本碑の建立は昭和10年10月であるが、これより前大正7年4月、戦病死者追悼五十年祭がおこなわれ、記念事業として「久留米藩出兵記念編」が筑後史談会の協力で発行されている。
 碑文は、中台にはめこまれた銅板に353名の従軍者名とともに刻まれていたが、現在は消滅している。竿石の隷書体題辞は菅虎雄の書である。

柳瀬三郎(1846−1936)

大橋町出身。名は重遠、紫水と号した。戊辰役にはその主家有馬蔵人の付添人として出兵した。維新後、久留米藩難に遭い、禁獄7年の刑をうけた。出獄後、居村の戸調・村長等を歴任し、ついで赤松商店重役・地方学務委員等に挙げられた。
菅 虎雄

久留米呉服町藩御鍼医家出身。上京して修学の後、長く旧制高校教官をつとめ、夏目漱石とは古くからの親友であった。漱石に高良山か発心山への春山越えの俳句若干があるが、これおは帰郷療養中の菅を見舞った折りのものである。中国書道を良くし、陵雲と号した。昭和十八年没。

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