現代語訳

 中国の宋時代の学者である欧陽修が王彦章という勇者を論じて、「鎗を取っては天下の勇士といわれる者は同時代に何人かはいるものであるが、王彦章の名だけが永久に伝わるのは、彼が忠義深い人物であったからである」と言っている。久留米藩の井上先生もまさにそのような人であろう。先生の本名は昭算、通称を弥左衛門といい、父は昭敬、母は井上家の人であった。家は代々有馬家に仕えて百五十名の禄を食み、鎗術師範を職としていた。先生も生来武術に長じた素質を有し、幼時からはるかに頭角をあらわして親にも優ると称されていた。十五才の時はじめて褒賞として少しの禄を賜わり、壮年になって馬廻組に列せられた。やがて家禄を襲ぐことになったが、さらに五十石の加増をうける特典にあずかった。そのご使番・側物頭に進み、ついには徒士頭まで昇進された

 文久年間から慶応年間にかけての幕末期は、国内の情勢も多事多難となり、藩主頼嵌咸公もいくたびか京都に上らねばならなかったが、先生はこのとき供頭として藩公に附添ってゆかれた。また、第二次長州征討の役に際しては、小倉藩の危急を救うために徒士隊長として出兵された。そのご一転して幕府追討の戊辰戦争においては、京都周辺の警衛を命ぜられ、見事にその任務を遂行して部下に心服された。やがて戦争も終わり、ついに先生の勇猛な戦いとめざましい功績とを見る機会も無かったが、これは世のためにはむしろ喜ばしいことではあったけれども、先生個人のためには惜しいことであった。

 先生は沈着で意志強く、心広く情豊かな性質の人であり、また義勇の行為があることで知られていた。門弟に接する態度はまことに温和で、言葉は落ち着いて優しく、そのまわり全体の、雰囲気がこれによって和げられた。このため、門弟が修養して学びとったのは、たんに鎗を操作する技だけでなく、怯儒な者は自然と義勇の精神を身につけるようになり、誰もが国の守りとなるだけの人材に成長した。渡瀬清隆・佐藤正勝・堀江義華・荒巻昌隆の四人は井上門の四天王と称せられた人物であるが、これだけでなく、久帝米藩の名士といわれた人が多く門下から出ている。

 人徳というものは郵便のように早く四方に伝えられるもので、先生の評判をきいて九州はもとより、遠くは四国・中国地方から数百人の人門者が集まり、やがてその名は世間に知れわたって日本一の鎗術家といわれた。実にこの言葉もほめ過ぎではなかった。なぜならぱ、当時国内には尚武の気風があり、射・剣・銃など各種の武技の上でそれぞれ名を成した者は少なくなかった。しかし先生のように天下に名声が響きわたった者が幾人あったろうか。これというのも、内に義勇の徳をそなえた者にして始めて可能なことである。

 先生は文化八年(1811)二月生まれで、明治十四年(1881)五月、七十一才で死去された。墓は無量寺(本町)にある。初め小野家から、のち古庄家から妻を娶られたがどちらにも子が生まれなかった。このため、富安家から費子照続を迎えて嗣子とされた。照続は鎗術に人一倍秀れ、家名をますます挙げた。これも先生の人間を見る眼の確かさの故である。さきごろ数人の門人が先生の偉名を不朽に伝えるため、資金を集めて碑を建てることを企画し、文を私に依頼してきた。ここに先生の事蹟の梗概を記した次第である。

(説明)
 井上家の祖は和泉堺の人で、その鎗法を妙見自得流と称した。初め筑前黒田家に招かれ、のち宝永七年久留米藩に出仕し、十間屋敷(日吉町)に居住した(『久留米小史」人物伝参照)。
 牧野元齢
旧久留米藩御医師。維新後明善小学に奉職したことがある。