現代語訳

 洋々たる筑後川の流れは、西行三十里にして忽ち左に折れ、その東岸は隆起して丘陵となっている。かって久留米城がここに高く聳えたっていたのである。周りをめぐる筑後川の激流と三重の深い濠によって、昔から険要の城と称されていた。伝承によれば、永正年中(1504〜1520)、この地方の豪族が始めてここを築いたといわれる。城壁の東麓に蜜柑丸と呼ばれる平坦な一区画の土地があり、これがその頃の古城の跡であった。
 ここは南北の長さ百拾間、東西三拾間で当時の大手門は東にあった。数年前の大がかりな整地がなされた時、地下一丈一尺の所から礎石が発見された。おそらくこれは古城の門跡であろう。天正十五年(1587)七)から慶長五年一六〇〇)にかけ、毛利秀包がここを居城としたが、翌六年、田中吉政が筑後国を領有すると、自分は柳河城に人り、久留米城にはその子主膳を置いた。
 そのご元和七年(一六二一)、藩祖有馬豊氏が筑後八郡(十郷のうち)の領主に封ぜられ、丹波福知山から久留米に移ってからは大いに城を修策した。すなわら、丘陵全体をその基礎とし、城の構えを改めて南に大手門を設け、土塁を高くして濠を深め、ひめ垣や櫓をを構築した。こうして城郭や役所が始めて完備やするに至った。それ以来、有馬氏は二百五十年問領内を統治し、家臣も領民もその治政に心から服してしきた。
廃藩置県後まもなく、櫓や多聞が取りこさされ、昭和三年には九州医学市専門学校の創立となり、翌年、城東の柳原という地を選んで、校舎や付属病院が新築された。その規模は広壮であり、一大偉観を呈した。こえて六年、さらに密柑丸を削平し、その土で城東の内濠を埋めたが、その南端の西折部には、東西四拾間、幅約三拾間にわたってなお旧状が残り、昔の城の様子を知ることができた。
 すでに早くから束側の外濠は田圃となっていたが、中濠もそのごついに失われ、このたびはまた、密柑丸および内・中二濠の跡全体にわたって九州医専の運動場がつくられた。まことに世の移り変わりの劇しさを感じないものがあろうか。
 一体城は濠があるゆえに要害となるものである。明治維新後、櫓やひめ垣はすでに失われているが、城壁は依然として存在し、しかも濠の跡もまだかすかに残っている。まして本丸には旧藩主を祀った社があり、その神威は高く輝き、近くを通る者はみな足を停めて在りし昔を追懐している。とくに昭和の聖代に生き、ここで運動競技をする者は、今日まで幾多の変遷をたどった城趾を仰ぎ見、ますます心身を修養して日本の光を発揚せねばならない。
 ここに九州医学専門学校職貝・生徒が協議し、遺蹟を永く伝えるために碑を建てようとして、文を私に依頼した。私はもとよりその美挙に賛同する者であり、拙文とはいえ敢えて筆をとった次第である。
                                 昭和13年9月   節堂   武藤直治謹識

(説明)

碑背に「昭和十三年九月九州医学専門学校建」と刻記されている。建立の位置は東側城壁下のほぼ中央部、もとの蜜柑丸の跡である。「古城趾」(有馬氏入城前の)記念にふさわしくここが選定されたものであろう。久留米城史については、合原窓南著「久留米城記」・矢野一貞著「筑後将士軍談」中巻・「久留米市誌」上巻に詳細な記述がある。