現代語訳

 徳川幕府の末、国政について種々の論義が対立し、ある者は勤王、ある者は佐幕を唱え、諸藩は去就に迷って藩論がなかなか一定しなかった。これというのも、幕府政治が長く続いたためにこれとの情実・利害関係が深くなり、強大な雄藩でも一挙に関係を絶つことができず、ついに機会を逃して後世に悔を残したものも少なくなかった。

 このとき・国家のために尽くすべく敢然と立ち上り、諸国の勤王の兵を率いて京都に進軍し、幕府軍と交戦して敗れ、恨を呑んで天王山で自刃したのが久留米藩の真木和泉守である。また、これと以前から同志であり、藩主を補佐して藩論を統一し、維新の大業に力をつぐしたものに水野渓雲斉先生がおられる。
 先生は名を正名、通称を丹後といい、,渓雲斉は号であった。父は正芳といわれ、弟に吉田丹波博文と稲次因幡正訓の二人(どちらも他家を相続)があり、両人とも勤王の志の深い人であった。先生は生まれつき聡明で、強い意志と果断な実行力をもち、気性激しく、眼光は人を射るようであった。早くから朝廷の衰微を歎き、ひそかに王政復古の志を抱いておられた。

 天保十四年(一八四三)、先生は奏者番に列せられ、そのご嘉永五年(一八五二)、二人の弟および真木和泉・木村重任等と共にに藩政改革意見を上申し、これが藩の要職者に忌憚されて処罰をうけ、十二年間の幽囚生活を送ることになった(嘉永の獄と称される)。

 やがて世情が次第に変化し、長州藩家老国司信濃や大納言中山忠光卿が久留米を訪れ、藩主頼咸公に尊王派の解囚を勧め、一方親類津和野藩主亀井侯からも同様の説得がなされた。この結果、文久三年(一八六三)五月にようやく囚禁者全員の釈放が実現し、直ちに藩命をうけて多くの者が上京することになった。先生は京都で諸藩の尊王派と往来するうちに、ひときわ頭角をあらわし、朝命によって学習院御用掛を命ぜられた。
 しかし同年八月、天皇が攘夷祈願のために大和行幸をされようとしたやさき、朝議一変して取止めとなり(この時朝廷内外は公武合体派によって支配された)尊攘派公卿七人は難を避けて長州に下ることになった。水野先生もこれに陪従され、三田尻および太宰府に四年間ほど滞在された。この間、七卿(太宰府では五卿)の身辺にはしばしば危難が迫ったが、先生はよくこれを補佐されたので、三条実美卿からとくに深い信頼をうけ、随従していた他藩の志士も先生を重んじるようになった。慶応三年十二月、朝廷によって王政復古宣言がなされると先生も五卿に従って京都に選られた。

 この頃久留米藩は、政権はもっぱら佐幕派(公武合体派)によって掌握されていた。そこで勤王派志士たちは窃かに同志を結集し、執政の要職にある者(不破美作)を斬殺して大義名分を明らかにし、一藩の進む方向を決定した。この挙は水野先生のひそかな内意をうけて実行されたものであった。

 明治元年二月、京都三条公邸におられた先生は、藩主の要望によって参政に補せられて国政に復帰され、三月に帰国(一般に閏四月の帰国とされている)すると同時に大いに藩政の改革に努力された。ついで七月、藩主に従って上京され、九月に政府の公議人を兼務し、朝廷からの下問にいろいろと奉答された。翌二年八月藩主とともに帰国し、まもなく(九月)大参事に任ぜられ、いよいよ藩主の信任も厚く、藩内での声望もますます高まった。そのご四年正月、三条公の招きで東京に行かれたが、すぐに帰国して新政の施行をされた。

 これより前(三年一月)長州藩で反乱がおこり、奇兵隊脱徒の大楽源太郎等が久留米城下に潜入してきた。藩士の中に彼等と密に連絡を有する者があり、これを長州藩が探知して政府に訴えた。このため政府が四条隆謡少将を巡察使として派遣(三年十二月)して藩情を偵さたところ、当藩が立派に朝廷の指示を守って新政を行なっていることがわかった。しかしなお大楽等を庇護している疑いを捨てず、翌年三月に再び四条少将が山口・熊本両藩の兵を率いて久留米に出張し、城下近くに駐屯して厳しい取調べをおこなった。

この項藩知事頼咸公は東京におられたが、事件には何ら関係はなかった。しかし政府は兵を出して赤羽藩邸を包囲させ、公を弾正台で取調べさせた。この知らせが国許に伝わると、藩内の驚きは大変なもので、全く処置し難い混乱ぶりであった。志士たちは密かに協議し、禍が藩公に及ぶのを心配して大楽等を誘殺してしまった(三月十六日夜)。しかしこの事件はすぐに露見し、関係者はみなとらえられた。先生は藩政の最高指導者であるため身をもってこの藩難に対処し、悠々と正道を歩かれたが、のちに責任を間われて東京に護送され、四年十二月、士箱を除かれて終身刑に処せられた。

ついで翌年十一月九日、病気のために青森県弘前獄中で逝去された。享年五十才であった。親戚の者が遺骸を引き取って同地の長勝寺に葬り、遺髪を久留米隈山の正源寺丘上に埋葬した。後年大赦によって罪名が消滅し、士籍に復した。先生には万という一人娘がいるだけであったが、昭和七年十月に死亡し、ついに跡が断絶してしまった。先生が朝廷のために尽された功績はまことに多大であった。このため三条公は幾度も内命を下して政府に任えさせようとされたが、先生は藩政改革が多忙であるとの理由で辞退されていた。もしも中央政府に居られたならば、竜虎が雲や風にのって勢いを得るように、偉大な功績を挙げられたであろう。わが久留米藩の勤王の士は、真木和泉守のように天下の先駆となって働いた者は空しく天王山に屍を埋め、先生のように後年まで残った者も、いったん志を得たかと思えば不幸にも災厄に遭って斃れてしまった。

なんと嘆かわしい末路であろうか。ここに先生の死後六十二年。有志者が碑を建ててその事績を不朽に伝えようとしている。私は青年時代、先生の教えをうけて国事に奔走し、その高大な徳を感じているものである。この拙い文であるが、涙を払って先生についての概略を述べたのである。

(説明)

この碑の建立と同じ年、『水野正名翁伝』が武藤直治によって編著されているが、同件出版ならびに碑建立のいきさつについてつぎのように述べられている。

 「昭和八年二月一日、水野正名先生顕彰会は篠山神社々務所に開催され、川島澄之助(八十六才)・渡辺五郎・島田義太郎・樋口正作・大庭陸太・村上殿三郎・樋口武人・山田静雄・黒岩万次郎・竹下工・武藤直治等相議して建碑及び伝記編集の事を決し、趣意書を草して同志に配布す。とくに渡辺氏は凡ゆる面(建碑・伝記の資料募集)に努力…:・。八年四月二十三日地鎮祭、五月二十一日除幕式。発起人は右のほかすべて十八名。」

 おそらく水野正名の甥である渡辺五郎が両事業の中心人物であったと推察される。なお正名家はいったん断絶したあと、その弟吉田博文の孫吉田享が、渡辺五郎の三女千代香を娶って再興した。

 川島澄之助(1848ー1936)

久留米荘島の下級士族出身。青年時代、小河真文・古松簡二の指導をうけて『明治尊攘党』の重要な存在となり、大楽の隠匿ならびに斬殺にも関係した。このため七年の刑をうけて熊本監獄に内禁された。出獄後、自由民権運動に参加し、地区代表として愛国社再興第一回大会に出席した。

また同志と協力して来目義塾をも創設した。のち官界に入って各地の郡長を歴任したが、晩年は宮地嶽神社宮司となり、神社の興隆に功績があった。その著『久留米藩難記』(明治四十四年)は「明治四年事件」に関する重要文献となっている