現代語訳

 先生は名を真文、通称を吉右衛門といい、旧久留米藩士小河新吾の長男として、嘉永元年(1848)篠山町(当時城内)に生まれた。母は辻氏である。十六才で父をなくして家督相続された。家禄は三百石であった。生まれつき英邁な性質で、読書においても章句にこだわらず、ただ古人のすぐれた節操や行動などを知ることに興味をもち、早くから勤王の志をもっておられた。明治維新も近い頃、政治上の論議が対立して混乱をきわめ、あるものは勤王を、あるものは佐幕を唱え、各藩とも進むべき方向に迷い、間には事の順逆を誤まるものも多かった。わが久留米藩では真木和泉が勤王の大義を説き、後輩・子弟がその影響をうけて立上るものも少なくなかった。しかし当時の藩の執政者たちは頑固であり、権力によってこれらの動きを抑え、時には異論を持つ者をすべで囚禁することもあった。
 徳川幕府の崩壌の兆候はすでにこの頃から現われて、ソ、もし一度藩が方針を誤まれば恨を後世に残す事態にあった。光生はこれを憤慨してやるせなく、ついに自分たちの力で禍樹を絶つことを決心し、窃かに同志と相談した結果、藩政の実質的指尊者を倒すことに決し、参政不破美作を下城途中に、要撃して倒したのである。

 この挙を期として藩論はようやく(討幕説)に一定し、先生はのちに藩政の枢要な地位にえらばれ、旧来の制度を改賀来し、悪弊を一掃し、ここに新政権の確立がなされたのである。やがてその人望と名声は四方に聞こえ、先生を訪れる客が各地から災まってきた。ところでここに辛未之難(明治四年又は大楽事件をいう)といわれる事件が起きた。長州の奇兵隊を脱隊した大楽源太郎などの一味が、当藩に逃れてきて保護を求めたのである。藩士のなかに彼等を庇護したものがあり、これが朝廷に知れ、久留米藩はその忌諱に触れる結果となった。このため先生は、執政水野正名や沢四兵衛(小参事)とともに弾正台の喚間をうけ、東京に送られた。この時の訊間はひどいきびしさであったといわれる。

 これより前、久留米藩の大楽隠匿に関して問罪使(四条隆謌少将)が派遣され、日田を本拠として久留米に軍隊を進めていた。同じ頃、藩主(頼成)は東京の弾正台で取調べをうけていた。このような事態をまえにして藩内に大混乱が生じ、藩の存亡も予測できない危機にあった。
 当時藩中には有志の士が少なくなかったが、紛糾した世情の中で疑懼心をいだき、みな為す所を知らず傍観する態であった。ひとり小河先生は身を挺し、進んでこの困難な事態の解決にあたり、全貴任を一身に引きうけて藩主の冤をもはらしたのである。このように一藩を危急存亡の中から救うというのは、「君辱しめられ、国危うくして生命を投げ出す」という行為であろう。先生が処刑を受けられたのは明治四年十二月三日、実に年二十五才の時であった。
 先生は度量広く、寛容の心があり、身に大人の風をそなえられていた。しかも、いったん有事のときには毅然として犯し難いきびしさをもっておられた。また先生の忠孝心と正しい節操とは、まったくその本性に根ざしていた。人に対してはつねに真心をもって接しておられたので、同志はみな畏敬の目をもって先生に従い、厳格な師として仰いでいた。聞く所によれば、先生は処刑の直前不動の顔色をもって壮烈な弁論をされ、このため司法官はひどく感動し、この優れた名士を殺すことを心から惜しみ、涙をのんで判決を下したという。

 まことに先生の殉国の節操と藩難を救済した功績とは輝かしいものであり、永遠に消滅させるべきではない。先生の墓は東京の当光寺にあり、墓銘に池田八束と記してある。思うに人目をあざむくための変名であろう。久しく墓参する者も絶え、草むらの中に荒れはてていた。このたび知友が相談し、大正三年四月、久留米市梅林寺に遺骸を改葬し、別に篠山城祉に碑を建てて先生の忠義を表彰することになった。以上、事蹟についてあらましを叙べたのもこのためである。

(説明)

本碑はのちに出る「水野正名碑」とも関連があるので、碑文理解のため少しく補足を加えたい。   参政不破美作の暗殺 

小河は友人佐々金平・島田荘太郎・加藤道太郎などに相談し、城内・櫛原・十間屋敷などの中級士族の子弟24名を結集し、慶応四年〈明治元年〉1月26日の夜、下城途中の不破を殺害したのである。この時の壮士達の要求あるいは政治的意見は斬奸状によって知ることができる
 この挙によって、同年五月には、京都から古い尊皇主義者水野正名を迎えて新政権が樹立されたが、これには小河をはじめ多くの同志が参与した。
 辛未之難について 
 明治2年末、長州では討幕戦に参加した諸隊を解散し、一部を藩常備隊に編成したが、これを不満とする反乱が翌3年1月頃からおこった。大楽源太郎などはこれを煽動し、反政府連動に拡大しようとしたために叛徒として追求され、豊後姫島・鶴崎・竹田等に逃れていたが、同年秋には古松簡二(八女郡出身古い尊条主義者)を頼って久留米領に潜入してきた。このため古松は小河と相談して藩内各地の同志宅に隠匿していたのである。そのご政府が巡察使・軍隊等を派遣して強圧を加えてきたため、自藩の立場を有利にしようとした久留米の同志達は、大楽主従を筑後川畔で殺害したのである。この事件に関連して藩主をはじめ七十名近くが処罰(刑)をうけた。
 なお付言したいのは、辛未事件はたんに大楽等の隠匿事件に止まるものでなく、当時全国的に連絡をとってなされていた封建・攘夷主義者の反政府運動に久留米藩が積極的に関与(その中心人物は古松・小河等)していたということに本質的内容がある。

 大庭陸太(1871−1943)

市内京町出身、春峰と号した。父は御馬廻組に属する旧藩士であった。陸太は教育者として著名で、その概略を記せば、明善中学教官十五年。久留米家政女学校創立に努力(明治41年)。佐藤弥吉を助けて渡辺勘次郎とともに南筑中学の創立に協力(大正11年)。久留米予備学校長(大正十二年)。親友渡辺五郎を助けて『筑後国史』・『筑後地誌叢書』の発行に協力(大正15年・昭和4年)等々がある。逝去に当り南筑中学校葬がなされた。