現代語訳

明治維新の際、王事に尽くし国のために死んだ筑後の人物は、真木和泉・水野正名のような古い活動家をはじめ小河真文・古松簡二など、数えれば数十名をくだらない。
 これらの履歴については伝記に詳しく述べられており、ある者は刃の下に生命をおとし、あるいは囚われの身となって獄死するなど、それぞれ境遇・行動は違っていても、家や身を顧みないで一途に国家へ奉仕した忠誠心においては変りなかった。だからこそ、一時は政論の相違から明治政府に対抗して罪を得た者も、今では大赦の恩典に浴し、その中でも特別に国家に功績のあった者は祭祀料を下賜され、贈位の栄誉をうけている。このような賞罰に関する朝廷の明白な処置に対しては国中の者がこぞって服し、ますます尊王の風を慕うようになっている。まことに国運が盛大をきわめるのも当然のことである。

 こんにち朝廷では国民に忠義の道を勧められているが、この趣旨をよく体得すれば、国民として何か一つなりとも永遠に残る事業をなさねばならない。しかもわれわれにとっては、勤王に殉じた人びとは早くから`師として仰いだ友であり、またかっては志を同じくして事にあたった仲間である。いまここに彼等を表彰してこれからの若い人への励ましとすることは、たんに世を去った者と生存している者とが相酬い合うというたけでなく,国家に報いる一端ともなるものである。

 このような意味から、場所を篠山城趾にえらび、神社の傍に碑石を建て、有栖川熾仁親王から賜わった「西海忠士」の大書をこれに刻記した。思うに、この語句は先の孝明天皇の詔勅の文からとられたものであろう。世冊この碑を見るものは、おそらく誰でも身を国に捧げようという感奮の念にかられることであろう。昔、高山彦九郎は、九州方面で同志を募るためにしばしば筑後を訪れ、久留米の森嘉善ともっとも親密な仲となり、ついに彼の家で自殺する結果となった。これはまったく、二人が勤王の同志として許し合う間柄であったからである。このために二人を併せて追加表彰することにしたが、これによって筑後の勤王運動の源泉が遠い時期に在ったことを知るべきである。
    明治25年10月      内藤新吾識

(説明)

碑は全高九米、棹石五米という巨大なもので、傍に碑蔭記のある小碑と寄付名簿碑がならんでいる。この碑建立に際し同時に『西海忠士小伝』の編集も企画され、建設委員(二十九名)が編集委員を兼ね、主として山木実によって記述がおこなわれ、明治二十八年刊行されている。

「西海忠士」の語句は、碑文にも触れているように、文久二年五月大原重徳・島津久光両名が勅使として江戸に下るときに賜わった詔勅中の「山陽・南海・西海之忠士既ニ蜂起」の語に出所がある。建碑の背景には、明治二十二年二月憲法発布に際し、久留米藩明治尊王党の反政府事件(明治四年大楽事件)旧係者に対し前罪消滅の大赦がなされ、ついで二十三年、教育勅語が発布されて国民道徳の大綱が示されたという事情がある。つまりこの碑はこれらを記念するという役割をもっていた。なおここで付言すれば、「道君首名碑」・「大伴部博麻碑」も、教育勅語発布を期とし、新しい国家意識の高揚と倫理の確立が要求された状況下の、同一時期の建立であることが注目される。

内藤新吾(1841−1917)

市内日吉町出身。家老有馬監物家の家臣。名は敏樹、寒山と号した。青年時代尊王運動に携わり、囚禁されること五年。慶応三年末解囚されて藩に出仕し、明善堂寮長・民政局判事・公用人等に挙げられた。廃藩後は産物会祉の創立など実業界に関係し、明治二十二年、初代久留米市長に推挙され、同二十七年辞職した。のちに衆議院議員にも当選したことがあるが、晩年はもっぱら閑居して文筆に親しみ、筆華家としても著名であった(『市誌」下巻・『先人の面影」参照)。