現代語訳

これは、筑後上妻郡吉田村(現八女市吉田)の石人山にある、筑後国造磐井が生存中につくった墳墓にかざられていた石人の首の残片である。好古日録(京都の史家考古学家である藤貞幹の著作・上巻十五丁に石人の項あり)には、これを日本第一の古物として載せている。
 久留米藩の国学者である矢野幸夫翁は、まえ項目に筑後国史五十五巻と附図二巻を著わしたことがあるが、好占熱心のあまりにこの.石人の首一個を持って帰り、自分の書斉の窓ドにおいて愛玩していた。けれども孫の天町忠作は、将来の保存の問題を考えた末、筑後国史並びに石人首級を当篠山神祉に寄付した。そこで石人首級を境内に安置し、そののいわれと和歌とを記した碑を建てて、博く物を研究しようとする人たちの一覧に供する次第である。
 (和歌)おおみいくさきつつあやめしこごしいわのそのの    ひとかたのしこくびえたり

(説明)

現在、この碑は旧位置に建っているけれども、肝心の石人首級は有馬記念館に保管されている。この時一緒に寄付された『筑後国史』は貴重本として保存されていると聞いている。かって久米邦武博士が一見して驚嘆し、東京大学に収めたという筆写本の原本も、またのちに渡辺五郎が筑後遺籍刊行会を起し、全巻の刊行を完成した(昭和二年)ときの底本もこの神社所蔵本であった。なおここで、あとの碑にも関連があるので、祠官武田厳堆について少しく触れておきたい。

武田厳雄(1833−1993)

久留米荘島出身。介石・東山・泡来散人などの号がある。幕末上京して藩の国事周旋方として公武合体のために努力したこともある。彼は国学・和歌を矢野一貞・船曳鉄門に学び、この三人に中村水城を加えて国学四大人と称せられた。維新後、家塾泡来舎を三潴郡青木村に開いて子弟の教育にあたり学制発布後、直ちに小学校を創立して三潴郡初等教育の端初を開いた。のちに高良神社祢宜、ついで明治十七年篠山神社祠官となったが、ここでも寄宿舎を設けて中学生の教育に携わった。彼は同二十六年一月没するまで同神社に在職したが、この間神社内外の整備に頗る功績があり、また旧藩士の所蔵する古文書・記録を集めて文庫をつくり、そのごの神社の基礎はこの時築かれたといわれる。その歿後、彼の遺徳を慕う門下生・知友によって、大川町風浪紳祉外苑に頌徳碑が建立された。(『広瀬曲巷文集』および「市誌」下巻参照)。