現代語訳  

剣の道は困難であり、善くその極致をきわめて先祖以来の技法を受けつぎ、家門の名を保ってゆく者はすくないものである。まして、神妙の境地に達し、別に新たな剣法を創めた二刀流の宮本武蔵.一伝流の浅山一伝斉などは一代の英傑というべきである。久留米の津田遂退先生もまたその一人である。

先生の家は代々浅山一伝流を伝え、有馬家の師範役であった。同家の家法を藩中では「御流儀」と称していた。先生は生来つよい意志と衆人にまさる才幹をもっていたが、苦心研究して技を練り、二十才頃にはすでにその奥義に述することができた。しかし悟るところがあり、江戸に出て多くの剣客を訪問したけれども、先生の意を満たす相手がいないので帰藩された。そのごも剣についての独自の信念を固持し、数年の研鑽の後に大いに自信を深めることができた。

 そこで再び江戸に出てこれを試したのであるが、ちょうど折よく徳川家の師範役小谷誠一郎が、先生の論に深い賛意を表明した。江戸にいた藩主はこれを聞き、先生に別派を開かせて津田一伝流と名のらせた。先生は感激して帰藩し、先祖以来の剣法を参考とし、その不用な旧いものを捨てて新しい内容を取り入れ、全く新機軸をうち建てたのである。

こうして津田一伝流の名は始めて世間に知れわたり、朝晩数百人の弟子が教えを受けるようになった。先生は竹刀をとって道場に立ち、二十年一日のように、いつも熱心に倦むことなく教授に携われた。これら門人のうちから、津田岩雄・竹井吉堅・山脇虎次郎などの優れた人材が輩出したのである。

先生はのちに閑静土地を選び、休息のために亭舎を建てて「遂退」と名付けられた。同時にこの名を自分の号にもされたが・ここに先生の意のあるところを知ることができよう。まことに先生こそ剣道の英傑というべきである。

先生ははじめ磯之丞または一左衛門と称され、のちに正之と改められた。父は伝君で、文政四年にその長男として生まれ嘉永六年に家職を襲いで、有馬家の師範役となられた。のちに御側物頭にまで昇格されたが、明治五年五月、五十二才で没れた。嗣子の教修君はりっぱに跡目を継ぎ、陸軍歩兵少佐まで昇進した。彼は幾度も戦功をかさねて従五位勲四等功五級に叙せられ、その武名は広く世に伝えられた。これこそ「家門の名誉をおとさず」というぺきである。

 茲に明治三十六年十月、同門の高弟たちが協議し、先生の名を不朽に伝えるために建碑を企図してきた。伯爵有馬頼万公も幼少時代に遂退先生に師事され、この話を聞いて若干の基金を寄せられた。まことに師恩に報いるものであろう。碑ができ、文を私に求められたので、一伝流のいきさつを詳しく述べ、先生の人柄.事蹟を記して後の同流の者に知らせる次弟である。

 (説明)

久留米市教育沿革史』・『久留米市誌』〈中巻〉武道体育の項参照されたい。これらは碑文と内容的に大差はないが、付言すれば、津田家ではこれまで嚢(フクロ)竹刀を使用したのを、「津田一伝流」と称するようになった時から竹刀に改めたといわれる。