現代語訳

日本の建国は武力によってなされ、宝剣が三種の神器の一となっている。先帝が国内を平定し、国家永遠の基磯を樹立されたのも剣の力によるものであり、まことに剣の用は大なるものである。しかし今や兵法が一変し、兵器はその発達を競い合い、数里離れた敵を撃破する巨砲がある一方では、百歩前の近い敵を殺傷する小銃があり、遠射、連発自在である。またさらに、性能のよい綿火薬を用いる榴弾が作成されていよいよ利用は増え、もはや剣の用途は無くなったかに見える。しかし敵味方が接近して白兵戦になったときは剣にたよるほかなく、ここに我国の剣道が尊重される理由があり、日本の兵力が他国に卓越しているのもここにある。

明治以来、万事が激しい改革と進歩を遂げ、軍事においても西洋を模範とし、日本と西洋のものとの長所・短所の比較研究もせず、ついに剣を銃に替えようとする意見が出るようになった。ちょうどこの頃、津田君は陸軍に奉職していたが、古来の剣の伝統が廃れ、このため士気もくじけてゆくのを心配し、堂々と正論をもって抗議し、剣道を維持するためにあらゆる努力を払ったのである。ついに政府でも陸軍剣術教範を作成することになったが、これにはもちろん君の力が大きく与っているのである。

日清・日露戦役が相ついで起きたとき、君はつねに部隊の長としてしばしば戦功を挙げ、椅子山・二台子の戦闘はもっともよく世間に知れていることである。これも君が剣道に熟練していたために、電光石火の早業で敵将を斬って旗を奪い、敵の心をふるえあがらせ、士気を喪失させたことによって得られた功績である。中国の荘周(戦国時代の思想家)の言葉に「この剣を一度用いれば電の震動するようである」というのがあるが、これは君について言ったものではないだろうか。

 君は名を教修といい、遂退先生の長男である。早くから令名高く、家門の名声をおとすようなことがなかった。津田一伝流の二世師範となり、のち陸軍に入って歩兵中佐連隊長に昇進した。この問、両度の戦役の際の功によって従五位勲四等功四級に叙せられた。君は大陸において凍河を騎馬で渡る途中、転倒してうけた傷のため退役を命ぜられ、帰郷して費生していたが、明治四十年三月十三日死去した。享年五十八才であった。越えて四十川年十月、門人や旧友が君の功績を顕彰するために篠山神社裏の丘に碑を健てた。思うに、「義勇奉公」は日本男子の本分であり、かりにも的の威力を海外にあきらかにしようと思うならば、剣道の素養がなければならない。この碑を見れば顧みて白己の模範とすべきものを見出すであろう。

(説明)

津田教修は嘉永三年(1850)九月、十間屋敷(日吉町)に生まれた。慶応三年御近侍鎗組となり、明治五年父の跡をうけて一伝流二世師範となった。同八年陸軍兵学寮に入り、九年少尉試補に任官。同十年西南役に従}。二十一年歩兵大尉。二十五年陸軍戸山学校教官体操科長。日清戦役に際しては第一師団歩兵第二連隊中球.長として出征。和尚山占領のとき、国旗の代りに敵の血をもってハンカチを染めて日章旗としたことで有名。当時の軍歌に

「奇智に富みたる津田大尉、敵の屍骸の血潮もて、即座に染出す日章旗……」
と歌われたという。勲四等・功五級はこのときの叙勲である。日露戦役には第二十四連隊長として遼東方面に派遣され、功四級を下賜された。(「市誌」下巻小伝参照)