井上鶴代碑  篠山町  篠山神社境内
 井上鶴代刀自は、若き頃より皇国の学ひに心をこらし、歌もよみ文も作りて行ひ正しけれは、其名早く世にしられたり。己武術修行のをり、暫く久留米に止り、刀自をも訪らひ、歌語してかへらむとしけるに、
立かへりとまれとそ思ふ夏麻引(海のまくらことばー編者)海上かたのなみならぬ君
とよまれたる歌あり。其後も音信絶言しを、明治三十五年一月二十日、齢七十一にて身まかりぬ。そは惜むへきことそかし。此度大籔たき子ぬしか、深く思ひ遠くはかりて、刀自の人となりを碑に残さむとて、己にこはるゝまゝに一言述るなむ。
                            海上胤平
(説明)

井上鶴代は荘島の人。父の名は収、通称を彦一、鴨脚と号した。番頭吉田忠見家の家長で漢学に精通していた。真木和泉とならんで久留米藩の古い尊王運動家池尻茂左衛門(号は葛譚)はその実弟である。母は近子といい、歌を善くした。鶴代もその影響をうけて九才で作歌したといわれる。のちに矢野一貞・船曳鉄門に師事して国学・和歌を学び、女流歌人としての令名が高かった。彼女について「性、酒を好み、微酔、筆を下せば百吟たちどころになる」とも記されている。

海上胤平(大正五年八十八才で没)

紀州和歌山出身、歌人・剣客として知られている。久留米に来たのは安政四年(1857)の十月で、彼が二十二三才の時である。剣の修業の名目で片原町の旅館紙屋に止宿した。同月二十二日には水天宮内の千年舎の歌会に出席し、二十七日に井上家の歌会に招かれた。この間、当時名宙のあった新蔭流加藤山平八郎の道場で試合をも行なっている。海上が久留米を去るにあたって、名残りを惜しんだ母子は歌を贈っており、碑文には鶴代のが書かれているのである。彼はこの時の返歌としてつぎの歌を作っている。
  いつの日か又めくりきて輩の久留米の里はとはんとそ思ふ
 (以上は稲次成令「覚書」による)碑建立者の大籔たき子は歌人。鶴代の門人である。