7.秋月城下町

古処山麓にあたり
秋月氏の根城。
深山幽谷、国中第
一の要塞。江戸時
代260
年間は、
筑前黒田甲斐殿5
万石。江戸より
288里。
秋月城下町。藩主
館跡、武家屋敷、
町屋町並みは残り、
中世秋月氏の故地。

 粉雪舞う冬の朝。

石田家住宅

  1 歴史

霊峰古処山

秋月は、「九州の小京都」「筑前の小京都」とも称され、霊峰古処山の麓にひっそりとたたずむ情緒豊かな城下町です。
 建仁3年(1203)原田(はらだたねかつは、鎌倉幕府から秋月庄を賜って秋月氏と名乗ります。その後、天正年間 秋月種実の時代には筑前・筑後・豊前の三国のうち、11郡(36万石)を領しました。
 しかし、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州侵攻で敗れ、日向財部(宮崎県高鍋町)に移封されます。
 慶長5年(1600)黒田長政が筑前国に封じられると、秋月の地1万石が叔父の黒田図書助直之に与えられ、その後元和9年(1623)長政の3男長興(ながおき)が第2代福岡藩主黒田忠之から夜須・下座・嘉麻3郡の内5万石を分与されて、秋月藩が成立しました。
 秋月藩初代藩主黒田長興は、父の長政が寵愛した子。長政は長興を福岡本藩の後継者と考えていましたが、重臣達の反対もあって長子の忠之を本藩の2代藩主に決めました。長政は、臨終に際して所領52万2500石のうち、夜須郡・嘉麻郡等5万石を長興に分与するよう申しつけました。
 これにより、長興は秋月に本拠を置くこととなりましたが、本藩藩主となった忠之は、長興を福岡城内に留め置き、軟禁状態にします。長興付の家臣達は・長興を擁護して福岡城を強行出奔させて秋月に就封させました。(忠之は後に栗山大膳による黒田騒動の渦申の人物になります。)
 中世の秋月氏時代は、度重なる戦乱で城下町を形成するには至りませんでした。黒田長興が秋月入府に際しては図書助直之が使用していた館を修理して移り住み、城下縄張りを行って以降城下町としての形が整い、秋月千軒と言われるほどの賑わいを見せるようになりました。

 国の「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けた(平成10年4月)秋月。

 自然景観では特に周囲の山々と町を流れる水系が美しさを引き立てています。 人文景観としては建造物・石垣・壁等があり、主な建造物では町家に特徴を持っています。通り面して平入り・妻入りの屋根が混在して並んでいますが、群としての調和はみごとで、当時を思わせる町並みを思わせる町並みを形成しています。

長屋門 石田家住宅(現代)



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