7南淋寺(八坂)

 朝倉町の北東の山の麓に千二百年もの歴史を持つ古いお寺があります。瑠璃光院南淋じといって大使様(弘法大師空海)が始められた真言宗のお寺です。この寺には国の重要文化財の薬師如来像や県の文化財の梵鐘(釣り鐘)や、たくさんの宝物が宝蔵に納められています。建物も古くて300年以上もたっています。
 ここの仏像が作られたのには不思議ないきさつがあるのです
 今から1180年あまり前、日本はお隣り中国(当時唐の国)からあらゆる文化や産業を学んでいました。そのために遣唐使という政府の役人が代表となって、いろいろの学者や職人が中国に渡りました。その中に仏教研究のため京都の比叡山のえらいお坊さんで最澄いう人も参加して、長崎県(平戸)から船出をしましたが途中玄海灘で暴風に遭い海が荒れて死を覚悟するほどでしたその時、僧最澄は少しも驚かず座禅をくんで「もし、安全に唐の国に渡ることができましたら、そのお礼に七体の仏像をきざんでお寺を建て、人びとを救います。どうか風を静めて下さい。」と一心に祈られたところ、風がおさまり、ぶじに唐の土地に到着することができした。翌年日本へお帰りになった最澄は約束を果たそうと博多(那津)にこられて、仏像を刻むための良い木を探されたが海岸付近にはなかなかありません。そこで、奥深い山を探して朝倉の方にこられたところが、北の方に高い山(今の古処山)がそびえ、その麓から流れ出た川(小石原川)がきれいな水をたたえて流れていました。最澄は喜んでその山を礼拝しました。―甘木市来春の起り―
 そこから流れに沿って上流に進まれ、川の水をすくって飲まれたところがとても甘く ―甘木市安川甘水の起り― 山の麓まで川を登られると、大木が茂っていたのでその中から良い.(かやの木)をえらばれ、七体の薬師仏を刻まれたのです。仏像が完成して式をあげられた翌朝、七体の仏像が全部なくなってしまっていました。最澄は驚いて「第一番目に刻んだ仏様はここに寺を建ててお祭りする筈であった。どうか行かれた先を教えて下さい。」と一心に祈られたところが「その仏様は、ここより南の林の中、きれいな雲がたなびいているところにある。」と仏のお告げがあったのです。そこが今の朝倉町の長渕でした。
十 二 神 将
 南の林にあったことから、長渕に寺を建てられ、この仏様を本尊にして天台宗医王山瑠璃光院南林寺と名をつけられました。大同元(806)年4月8日のことでした。
 これから長渕に541年間ありましたが、筑後川のほとりで毎年のように水害があり、寺が水びたしになり、仏像もいたむので移転を思いたち、今の八坂が風景もよく水害の心配もないので大宰府の長官の協力で貞和2(1346)年に移転しました。そしてこの時、寺の住職のあとつぎの関係から曹洞禅宗に変わりました。
 それから302年問禅宗が続きましたが、筑前の大名黒田忠之候の命令によって真言宗に変えられ現在に至っています。
 この寺はたびたび戦いのためや、失火で火災にあいました。ところが本尊薬師如来の「火災をなくすためには、林に水を注げ」とのお告げによって、境内に三つの井戸を掘りました。
 そこで南林寺の林の字に水を加えて南淋寺と改めました。その後災はなくなったといわれています。今その三つの井戸はつながれて池になっています。
 本尊の薬師如来像が作られて、今日で1183(平成元年現在)たちました。八坂に移って約650年になります。
 この仏様は大正元年4月8日、国宝に指定され、昭和25年に国の重要文化財になった町の宝です。
 その外、この寺にはたくさんの宝物、逸話、伝説などが残いますし、小さな寺々もたくさんあったのですが、くわしいことは『朝倉町史』に一部がのせてあります。


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