水車になるまて
井堰や堀川はできたのですが、堀川の上流にあたる山田、菱野、上古毛の田は堀川よりも高いので、堀川開通から約百年ぐらいはあいかわらず水不足でした。川のそばの田は「はねつるべ」とも呼ばれる“打桶“(丸型や箱型の桶の両端になわをつけ二人で川の水をくみ上げるもの)などで水をいれ、イネを育てていました。 そのころ足踏水車が発明され、かんばつに悩まされつづけた地域を中心にまたたくまにひろがりました。しかし、この地域では広い範囲におよぶ畑地を足踏水車で水田にすることはとてもできることではありませんでした。 中国から伝わつったといわれる“筒車”(水の力でまわり、水を上に上げる)は日本でも古くから動いていたという記録が残っているそうですが、そんなことを知った農民たちは、流れる水の力で、水を高いところに上げることができる水車を堀川につければ、自分たちの田にも水がはいり、田をうるおすことができると考えたに違いありません。失敗をくりかえしながらも、工夫と改良をこらしながら今日のすばらしい水車ができあがりました。 朝倉の水車は、宝暦のころ(1760年代)からあったという記録がありますが、三連水車ができたのは寛政元(1789)年であり、それまでは二連式水車でしたが、このときにもう一つ増設されて今日の三連水車となりました。 記録がなく不明ですが、三島、久重の二連水車も三連水車と同じく宝暦のころに設置されたものと思われます。 全国でただ一つだけ回りつづけている朝倉の重連水車群は「堀川用水路水車群」として平成元年に国の史跡文化財に指定をうけました。 機械もない時代にできた石づくりの山田のせき、幹線だけでも12キロメートル以上もある堀川、機械文明の現代に、今なお実際に役立っている水車などを静かに見ていると、水を求めて、水と戦いに生きてきた先人たちの知恵、努カには、深く心をうたれます。 |
三島の二連水車 | 菱野の三連水車 |
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