「さあ、いよいよ百済にむけて出兵だ」というとき、斉明天皇が病気のためになくなりました。661年7月24日のことでした。滞在わずか75日にして、御年68歳でした。朝倉の宮は悲しみにつつまれ、兵士たちはこれから先の不安から動揺しました。子どもの中大兄皇子は、どんな思いであったのでしょう。大きな声でなきたかったにちがいありません。母の遺体と一緒に都へ帰りたかったことでしよう。
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恵蘇八幡宮 |
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御 陵 山 |
しかし、百済を助け、日本を守るためには、後をつぐ自分がしっかりしなくてはならないと思ったことでしよう。母の遺体を前に、一生懸命歯をくいしばり、心の悲しみをぐっとおしかくしている皇子のすがたが目に見えてくるようです。皇子は母をとむらうために、八月1日、なきがらを朝倉橘廣庭宮から移され、その夕(ゆうべ)御陵山(ごりょうざん)(恵蘇八幡宮の上)に仮にほうむられました。そして、みささぎの下の山腹に丸木でつくった小屋をつくり喪に服されたということです。これが木の丸殿後蹟といわれているところです。天皇のなきがらは、その後、奈良におくられましたこの間、中大兄皇子、のちの天智天皇は次のような歌を残されています。
秋の田のかりほの菴(いお)の苫(とま)をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
朝倉や木の丸殿に我をれば
名乗りをしつつ行くは誰が子ぞ
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天智天皇の歌 |
こんな歌を残した皇子の気持ちはどんなものであったのでしょうか。深い心の痛みが伝わってくるようにも思われます。
また、附近には名乗(なのり)(朝倉)の関跡・関守の墓・秋の田・天智天皇月見の石などがあり、中でも隠家(かくれが)の森という大樟は1500年にもおよぶといわれ、斉明・天智天皇の当時を物語る生きた証人なのです。
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