名  前 写   真 解     説
懐良親王御墓所 懐良親王は、第96代後醍醐天皇の皇子であります。御年8歳で、征西将軍の命を受けられました。
 正平3年(1348年)、菊池氏の本拠地隈部城に入られ、正平14年(1358年)8月には、九州をほぼ統率されましたが、文中元年(1372年)、太宰府の陥落により零落の一途をたどられました。
 天授3年(1377年)星野村の大円寺に入られ、この地で九州にある南朝方の統率にあたられましたが、弘和3年(1383年)3月27日、御年55歳で死去されました。
 御遺体は、空谷山(大明神山)に埋葬されました
星野氏館跡庭園 本星野の高木氏宅の居住地が星野氏館跡であり、星野氏の館の一部が、高木氏宅の庭に残されています。
 室町時代の築造と思われます。
 館跡の上段にある茶の栽培園は高貴の方と因縁のあるところと伝えられて、昔から糞尿を肥料として施してはいけないといわれてきました。
 星野氏の遺跡として、大切にされてきたものと思われます。
大円寺  創建は神亀2年(725年)で、かっては太宰府観世音寺の末寺として、この地の領田の管理掌握に当たっていました。天正年間には村内に11の下寺をもち、大きな勢力を持っていました。
延元3年(1338年)、征西将軍に任ぜられ九州に下向された懐良親王は、一時九州の北朝方を鎮圧されましが、建徳2年(1371年)、九州探題として西下した北朝方の今川了俊との高良山での攻防戦をさかいに勢力が衰退し、天授3年(1377年)4月、大円寺(星野御所)に退かれました。
良成親王に征西将軍職を譲られた後も、この地で南朝方の統率をされていましたが、弘和3年(1383年)3月27日、大円寺で死去されました。
御年、55歳でありました。
小野神社   嘉暦2年   小野四郎三郎頼時
  (1327年) 母 比佐尼 如心  創建

 はじめ、小野内宮大権現宝栄山宝勝寺と称しましたが、神仏分離の政令によって、小野神社と改められました。
 小野頼時の父、大進頼承は、弘安の役(1281年)で大功をたて、鎌倉幕府に重用されましたが、霜月騒動のため失脚し、頼時は、母如心と共に鎌倉を追われ、西国に落ちて行きました。
途中、暴風にあって危険にさらされましたが、その時、箱根権現の加護でたすかりました。
 永仁元年(1293年)父、頼承が無実であることが判明し、その功績に対して、小野の庄の地頭職が与えられました。
 頼時は小野の地に居を定め、箱根権現を観請し、一族の守護と繁栄を祈願しました。それが小野神社の始まりと言われています。
室山熊野神社  室山神社とも、無漏山十二社権現とも言っていました。また、無漏山泡来院岩念寺と寺号を称しました。
 祭神は、伊弉冊尊、速玉男命、素盞嗚尊の三神であります。星野氏の始祖八郎胤実が一族の武運長久と繁栄、領民の幸福を祈願して、嘉禄2年(1226年)に熊野権現を勧請して室山の地に神社を建立しました。
 文明9年(1477年)、焼失していたものが再建されましたが、慶長12年(1607年)に再び焼失、元禄12年(1699年)に再建され現在に至っています。
 明治初年の神仏分離令によって、室山神社となり、全村民の崇敬の中心として今日に至っています。
鷹取城跡  耳納連山、鷹取山(標高802m)に星野氏が築いた山城です。星野10代領主鎮種が築き18代鎮胤が改修して移ったと調氏〔星野〕系図は述べています(城郭は東西42間、南北10間)。
城跡の東方に防禦の空堀あとと思われる遺構があります。本星野館(星野側)。延寿寺福丸城(浮羽側)の詰の城として重要な役目を果たし、全国で一番高所の山城であります。
東南面は緩やかな山なみが星野村に、北西面は急峻な斜面で筑後川流域を一望のうちに見られる眺望絶美なところです。
御良八幡宮 祭神及び建立の時期は不明です。
 寛永18年(1641年)、本星野の仙頭九郎右衛門が丸山森に再興しましたが火災にあい、延宝6年(1678年)に現在に再建され今日に至っています。
 船曳鉄門説には

「御良八幡宮ト記セル、コレハ其御霊ヲ祀レルヨリ、御霊ト稱セシ事ハ論ナカルヘキヲ、御良ナトニモ書ケルハ如何ニモ不審シキ事ナカラ、熟案ヘハ御諱一字ヲ取リテ土俗ノ私ニ稱シ奉レルトソ思シキ・・・」
とあります。
 境内にある橋を御所橋、そばを流れる川を御霊川と、土地の人はよんでいます。
 なお、伝承されている芸能に、八幡太鼓があります。
平野不動尊
 規 模   丈(座像総高さ)   1.37メートル 
 膝ひらき  1.13メートル 
 肩  幅  0.78メートル 

 戦国時代の作と言われています。熊野権現(室山熊野神社)の一間四面板葺の堂に祀られていた木造不動明王坐像です。
 神仏分離令(慶応4年3月の「太政官布告」「神仏判然令」)によって棄てられ、明治14年8月、現地に祀られました。
※(室山氷室文書)寛文10年8月神社帖に「肥後国阿蘇山伏峯入之時一宿仕札納申所」
※(国阿蘇山伏古文書)寛政12庚申天。阿蘇山峯記録に「室権現ノ宮ニテハ
 二ノ宿ハ不動ノ拝殿ニ宿ス。(文政11年)
 二ノ宿ハ不動堂ニ宿ス(文久二年)。
とあります
風流・はんや舞 山中の大池(麻生池)のほとりにある麻生神社に伝わる舞楽でありますが、その起源はさだかではありません。遠く弥生文化の時代に始まったと伝えられる水神崇拝により、この池は霊地として古くから崇拝され、ここでは晴雨祈願・風止の祭りが行われてきました。その後、平安時代に生まれた、公家舞の名残りといわれるはんや舞・風流をこの祭りに取り入れたものと思われます。昭和の大典には主基地方斉田の風俗舞の歌の原曲に宮内庁雅楽官によって採録されました。昭和35年には、国内でも珍しい文化財として福岡県の無形民俗文化財の指定を受け、さらに昭和52年12月に「撰択重要無形民俗文化財」として国の指定も受けました。