秋月城下町物語
版画:秋月の四季 
   
  ●秋月氏から黒田氏へ



     霊峰古処山の春
古処山の山ふところに抱かれて、ひっそりと、歴史の眠りの中にたたずむ、
小さな城下町。秋月は、町がそっくりそのまま、タイムカプセル。
秋月氏400年、黒田氏250年の栄華を秘めて、まどろんでいます。
秋月の名前は古く、すでに平安時代の中期に「秋月荘」として、史書に顔をのぞかせています。そして、鎌倉時代。原田種雄が古処山に城をかまえ、秋月氏を名のり、この地は一帯の政治の中心地となって、文化が芽生え、秋月は城下町としての歴史を刻むことになります。

秋月氏は漢の高祖の未寄と称する渡来人の阿多倍(あたえ)王の血をひく名族で、平安中期には、藤原純友の乱の鎮圧に功績を残し、西国平氏を支える有力な一族だったと伝えられています。種雄治政以降、秋月氏は西国一帯、とくに筑前において威勢をふるい、西国の覇者として君臨します。この秋月氏の隆盛は約400年間にもわたり、いま筑紫の小京都とたたえられる秋月城下町の文化の伝統の礎は、この間に築かれ、発展します。

そして、秋月氏十六代種実の治政下、城下町は、暗転の時を迎えます。平安の夢を破ったのは、天下を統一しつつあった豊臣秀吉で、秀吉はきわめて強引に種実に降伏を迫っています。種実の重臣、恵利悌寛は、秀吉の軍の強大さを知り、主君に降服をすすめたのですが、種実はこの忠言を聞き入れず、島津氏と結んで反旗をひるがえしたのです。種実の怒りに触れた、暢尭は切腹。暢莞が切腹したという大岩がいまも秋月の山裾に残り、秋月氏暗転のドラマを伝えています。秋月氏は、秀吉の軍に敗北。日向の高鍋藩に移封ざれ、この地にただその名のみを残して、城下町の歴史から退場。
秋月城下町は、第二幕ともいうべき、黒田氏の時代を迎えることになるのです。

秋月氏の時代、古処山城と呼ばれた城の新しい主となったのは、徳川期・福岡藩主となった黒田長政。
やがてその城は、長政の叔父黒田直之によって下方に移され、秋月城と呼ばれることになりますがこれも日浅くして、幕府が定めた一国一城制のあおりで、とり壊されてしまいます。そして、長政の没後、1623年、この城跡に、小ぷりでありながら格調に富む居館が築かれます。五万石の分与をうけた、長政の三男黒田長興が建てたもので、いま私たちが秋月城跡と呼んでいるのは、この居館の名残りです。

  夏 眼鏡橋の雨
  ●山ふところの文化の香華


     秋 黒門の紅葉
黒田氏が為政者となった秋月城下町は連綿として約250年、明治の廃藩置県に至るまで続いて、ここは、山ふところの城下町に独自の文化が生まれ、人々は再ぴ、太平の世を謳歌します。この時代、この小さな城下町からは、数多くの才人が輩出し、藩政の充実ぷりを間わず語りに、語っています。

例えば、江戸期を代表する儒学者の一人、原古処がいます。古処は、詩人としても高名を残しています。そして、女流詩人として名高い釆蘋(さいひん)は、その娘。
また、最近になって、世界で初めて、ジェンナーよりも古く種痘を成功させた人物として、あらためて取沙汰されている緒方春朔も、秋月の人。
秋月藩は、高名な儒学者、亀井南冥を招いたことでも知られています。
当時、本邦随一の学者が、山ふところの小さな城下町にやってきたというのですから、世問は驚き、あらためて秋月の文化のレベルの高ざに注目したと伝えられています。

いま、秋月の町をそぞろ歩けば、そこかしこで、往時をしのばせる、数多くの「名残り」と出会います。
黒門と一般に呼ばれている大手門は、現在は旧藩主をまつる垂裕神社の神門になっていますが、元は、戦国時代の古処山城搦手門だったといい秋月城下町の歴史の奥行きをしのばせます。いま長屋門として知られるのは、江戸期の居館の勝手門。杉の馬場通りは、その名のとおり、往時、武士たちが馬術を磨いた場所。

さらに、秋月郷土館の看板を掲げる建物は、旧武家屋敷とその蔵を利用したもの。館内には鎧、陣羽織に混じって、一幅のぴょうぷ絵なども展示され、秋月城下町の香華をいまに伝えています。
ぴょうぷ絵は島原の乱における秋月藩の奮戦ぷりを描いたもので、藩のおかかえ絵師、斎藤秋圃の筆。
美術的にも歴史資料としても、きわめて価値の高いものとして、全国にも広く知られています。

長崎から石工を招き、清らかな急流に、目鏡橋を築かせた……秋月。
幕末には〃秋月千軒〃ともうたわれ、隆盛を誇った、この城下町に、風をもたらしのは、明治維新……。
続いて、明治四年の廃藩置県制によって、秋月は城下町としての歴史を終えることになるのですが、250年の歴史が残したほだ火は歴史の流れに抗して、今一度激しく燃え上がり、世間の耳目を集めます。世にいう、秋月の乱がそれで、激戦ひと月。1876年、明治9年のことでした。秋月の乱は、士族の反乱。しかし、それは同時に、城下町の歴史の終えんを意味するものでもありました。

それから百余年、秋月はいま、とろとろと陽ざしの中でまどろみ、訪れた人々を、そののどかさゆえに魅了しています。

     冬 長屋門の雪


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