女帝と皇子の行宮 |
●悲恋物語と橘の広庭 |
橘の広庭 |
能楽に『綾鼓』という官廷を舞台にした悲恋物語があり、三島由紀夫はその幽玄な悲劇に魅了されて、 自身の代表作ともいえる戯曲を書き残しています。 『綾鼓』の物語そのものは能楽の例にもれずきわめて簡略なもので、 歴史的な背景などはほとんど盛り込まれていませんが、その名作が底知れぬ奥深さを感じさせるのは、 作者が当時の歴史的な背景を強く意識しつつ物語を着想したからではなかったかといわれています。 つまり、こうです。物語の舞台である官廷というのは、筑紫の国の行宮、朝倉の橘の広庭のことで、 ここが設けられたというのも、朝鮮半島との関係がきわめて緊迫していたから……。 660年、女帝である斉明天皇は、朝鮮半島で新羅に圧迫される同盟国百済の要請に応じて、出兵を決意され、 自身が自から中大兄皇子とともに西下されることになった。 最初は、福両の三宅に行宮を設けられたが、緊迫の度が高まったのをうけて、現在の朝倉町に行官を移された。 それがすなわち、橘の広庭と呼ばれる仮宮殿であり、朝倉に移られて直後に天皇は亡くなられてしまった。 斉明天皇の死後、中大兄皇子はぷたたぴ本営を三宅に移され32000余人の兵力を朝鮮半島におくり、 自村江で新羅の後盾、唐水軍と大海戦をまじえたが、大敗を喫してしまった。 すなわち、朝倉の橘の広庭は、女帝のための官廷とはいいながら、あくまでも仮の宮殿で、 しかも、それは戦いのための本営といった意味合いの強いものでした。宮廷の中には、優雅さの中にも、 一種の緊迫感が常に満ちていたものと思われます。 それを意識しつつ、『綾鼓』の作者は、あえて、ここを悲恋物語の舞台としたのではなかったでしょうか。 |
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●木丸殿と皇子の歌 綾鼓 |
ちなみに、『綾鼓』のあらすじは、こんなぐあいです。 季節は秋。筑前国、橘の広庭で雑用をしている老人が美しい女官を見かけ深い恋に落ちた。 女官は老人を哀れにも思い、いをたちきらせるために、綾の鼓を臣下に作らせそれを打って音が出たなら姿を見せようと約束する。 絹張りの鼓が音を出すはずもないが、恋に落ちた老人は、必死になって音の出ない綾の鼓を打ち続けた。 そして、失望のあげく、老人は池に身を投じて命を絶ってしまった。 橘の広庭があったのは、朝倉町の須川のあたりではないかとされています。 いま一帯は豊かな田園で、秋になると黄金色の海の上を、さわやかな風が吹き渡っています。 音が出るはずもない綾鼓を打ち続けたという老人の姿と、白村江の敗戦、女帝の崩御。 朝倉の野を渡る風に耳を傾けると、雅ぴで、もの悲しく、しかも壮大な叙事詩が聴こえてきます。 秋の田の かりほの庵の苦をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 中大兄皇子、のちの天智天皇がこの地で作られたという一首です。 また、中大兄皇子は、次のような歌も残ざれています。 朝倉や 木の丸殿にわがをれば 名のりをしつつ 行くはたが子ぞ 当時、名を告げるのは求愛の意。自分に求愛して通るのは、どういう身分の娘かという意味です。 木丸殿は中大兄皇子が母帝の喪に服するために建てたという丸木造りの官。 一方で朝鮮半島への出兵を期し、母の死をいたみ、 その一方で、こんな歌を残した皇子の心境はいかなるものであったか。 その歌がさりげなくあればあるほど、深い心痛が伝わってくるようにも思われます。 朝倉町の恵蘇八幡の一画に木丸殿はあったといわれています。 いま、その森は、ただひっそりと静まりかえっています。 |
木の丸殿 |
木の丸殿跡石碑 |