豊穣への挑戦
    三連水車:

  ●新田と湿田
正徳二年、1712年といいますから、江戸時代のほぼ半ば頃、筑後川に一つの大きな石堰が築かれています。
床島堰と呼ばれるそれは、黒田藩のとなりの久留米藩が築いたもので、その結果、同藩は1500余町の田を開くことに成功しています。ところが、この井堰は、福岡領下下座(蜷城地区)一帯の人々にとっては全くの困り物。その井堰によって田の排水が妨げられ、長田村など21ヶ村、400町以上もの湿田が発生することになってしまったのです。

そのために、福岡黒田藩と久留米藩が激しく対立。
福岡側の抗議をうけて、久留米側では番屋を置き、鉄砲数丁を常に用意していたというほどです。
松岡九兵衛は、そんな析に選任された長田村の庄屋。
九兵衛はただ対立する人々とは全く異る発想で、この問題に取り組みます。
相手方はすでに田を開いている。その結果、藩こそ違え自分たちと同じ農民が助かっている。
だからまず井堰の存在は認め、新たに自分たちの側の田の湿抜き工事をすればいいではないかと九兵衛は考えたのです。

九兵衛は菱野村の庄屋大内弥平と協力、村人たちの賛同を求め、行動を開始します。
湿抜き工事実現のための条件を整え、工事の実施を藩に訴え、結局、藩はそれを許すことになったのです。
九兵衛の熱意に動かされた藩は、意地を捨て、久留米藩領内の工事費用の一部をも支出することを決定したといいますから、大変な快挙というべきでしょう。じつは、九兵衛は藩に願い出る前に、久留米側の庄屋の幾人かとも親交を結んでいます。彼らは彼らで、藩政府を動かしたことはいうまでもありません。

                
         長田湿抜溝                                 松岡家墓地
  ●豊かな風景           
いわば民問外交が効を奏したかっこうで決まった湿抜工事は、文政8年、1825年2月に始まり、10月に完成。
村人総出で、新たに幾筋かの川を堀り、排水を良くしようというわけですが、難問も続出。
その最大のものは、佐田川や既存の用水とほぼ直角に交差することになる新たな川の流れを、どうやって川の向こうに導くかということでした。現在、甘木市蜷城の一帯で長田湿抜溝、暗渠などの名で知られる構造物が、九兵衛たちの思案の結果の解決策、石で樋を作り、既存の川の下をくぐらせてしまったのです。

ところで、広く知られている朝倉の三連水車・二連水車は、恵蘇宿の山田井堰から流れて来る堀川用水にかかっているのですが、段差のある右岸の千田に揚水するのには、随分工夫や苦心があったようで、寛文3年(1663)の井堰の築造から140年ほどたった文化の頃からまわり始めました。
以来約200年まわり続けて、朝倉平野を代表する夏の風物誌になっています。

            堀川用水

ともあれ、この著名な水車たちも、また先に紹介した長田の湿抜溝も、朝含平野の先人たちのたゆまぬ努力のほん一例に過ぎません。いま、朝倉地方は、全国的にも最も肥沃な地の一つとされています。
田や畑の生産性も高く、また河岸段丘や山の斜面の果実も豊富で、朝倉地方を訪れる人の多くが口にする「ここへ来ると、なぜだかほっとする」という言葉も、背景にそんな豊かな風景があるからだと思われます。
風景が一面で歴史の集積であるとすれば、甘木・朝倉の歴史もまた、きわめて滋味に富む〃豊かな歴史〃なのだということを、この地の風景は裏付けているかのようです。

長田湿抜を説明する『甘木市史』の一節は、次のような言葉で終わっています。
「…湿抜工事は、その後も九兵衛の子九平、その子九一郎と、松岡家三代の手によって、明治に至るまで受け継がれていった」と。

 床島井堰


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