城 島 物 語芦城 井上農夫

城島城史

ここでは、凡そ千四十年前に、城島太郎時祐が屋敷を構えて以来、元和七年(凡そ三百四 十年前)に廃城になるまでの、歴代の城主について、『メモ』の程度に述べる.

城島氏時代

豊島真人時連が、天照大神の荒御魂−伊我理神を奉じて、筑後国三瀦郡大依(大預里)に 土着したのが、光孝天皇の仁和三年(八八七)で、その長男大依太郎時祐、後に城島に移 り、城島太郎と名を改めた.人間一世代の年数を、二十七年乃至三十年として計算すると 、時祐が城島に館を構えたのは、たぶん、醍醐天皇の延喜年中で、今から千四十年ほど前 になるからずいぶん古いことだ.
この地が、時祐の移住する前から、城島と呼ばれていたかどうかは、明らかではない. その時分、招や沢などに囲まれた、小島のような要害の地域に、時祐の館が構えられたの で、その時代の習わしで、はじめには、城島(きじま)と呼ばれたのかも知れない.城( き)とは、要害堅固な武士の邸宅をさして言った言葉で、この頃の城は、戦国末期になっ てはじめて現われるような、人工の壕、門、城壁、檜、天主閣、居館、武家郭とは、だい ぶん違っていた.
      城島氏は、初代時祐から数えて二十一代日の、石見守時次の代になって、豊後の大名大友 氏の支配下にいり、二十二代石見守鑑時(はじめ左馬助直時といい、また鑑仁ともいった )二一十三代の備中守鑑数(はじめ時達といった)は、大友修理大夫義鑑から、鑑の一字を 貰って、自分の名乗りとした.
城島氏が、七百年近くも住みふるした城島の館を捨てて、楢林の真慶屋敷に移住したのは 、鑑数の子大蔵丞鎮時の時代で、天正十一年(系図には天正十二年とある)のことだった .鎮時は、はじめには時次といい、後になって大友宗麟義鏡から鎮の一字を貰って、鎮時 と改め、晩年には入道して真慶と号した.
石見守鑑時の頃になると、七百年来の旧家も、戦国時代の荒波に奔弄されて、大分傾きか かっていたと見えて、鑑時は、大永五年(一五二五)七月十八日に、西牟田氏の一族西金 五郎家朝の弟子中河原民部少輔貞幸から、獣医の技術を授けられ、以来、城島氏の当主は 、獣医として有名になっていた.現在、肥前の崎村や筑後の江上の城島氏が、獣医を家業 としているのは、四百年来の伝統を守っているわけだ.

豊饒氏時代

豊饒は、ぶねうとよむ.豊後の豊饒村から起つた土豪で、大友豊後守親繁の筑後征服以来 、筑後の土豪を監視するために、大友氏から派遣された督軍の一人である.
豊饒氏は、天正六年ごろは、上妻郡(八女郡)の兼松城、白木城などに拠り、八十町ばか りの領主として、ニラミを利かせていたが、天正八年、肥前の竜造寺隆信に追われて、豊 後に逃げ帰った.
 豊饒氏が城島に本拠を構えていたのは、天文三年の頃で、それまで西久留米城(今の篠 山城跡)に居った.同年六月、西久留米城主豊饒美作入道永源は、周防の大名大内義隆の 大将陶入道のために城を追われて、肥前西島(南茂安村)の城に移つたが、陶氏の再度の 命令で、城島に移された.
 有名な『筑後将士軍談』の著で、久留米藩士の矢野一貞翁は、夜明の清浄寺・江上の九 品寺・城島の市ノ恵比須・土甲呂の住吉社・楢林の七社権現などの由緒書に、
『豊後大友義隆の家老  豊饒美作入道永源  大永六丙戊年
などと書いてあるのをみて、義隆は義鎮(宗麟)の誤りではないかと、疑っていられるが 、これは周防の大内義隆の誤りとするのが、正しい.永正から大永にかけての大内氏の筑 後侵略の時、豊饒氏は早くも大内氏の軍門に降つていたが、なにさま、大友氏の筑後督軍 の家だから、表面は大内氏に従いながら、内実は大友氏えの節義を変えず、折があつたら 、大内氏の圧力を跳返して、叩き伏せようというのが、永源入道の心境であつたろう. 豊饒氏の上妻郡兼松城への移住は、その年代が明らかではない.永禄七年、大友宗麟が下 田城主堤越前守貞元を攻めたとき、大友氏に協力した三瀦郡の土豪のうちに、城島氏と並 んで豊饒氏の名前が見えるから、この時までは城島に居たと思われる.大内氏滅亡の後、 その勢力を一手に攻めた毛利元就も、筑後にまでは進出できなかったから、豊饒氏のごと きは、先頭第一に大友氏に復帰したに違いない.
 豊饒氏の時代になっても、城島の一角に居住していた城島氏は、天正八年の頃は、西牟 田氏と共に、早くも竜造寺の幕下に降つていた.その二年前、天正六年三月に調製された 『大友幕下筑後領主附』には、すでに豊饒氏は上妻郡兼松城主として記録されているから 、豊饒氏が城島を去つたのは、永禄七年から天正六年にいたる間のことである.

西牟田氏時代

西牟田新助家周・同新右衛門家和の兄弟が、城島城に移住したのは、天正十一年(一五八 三)である.
西牟田氏は、十三代播磨守親毎、その子左衛門大夫親氏と共に、早くも永正・大永のころ から、大内氏の筑後侵略の御先棒をかついでいたが、大友氏の大将吉弘左近大夫・田北左 京進の率いる八千七百余の大軍のために、本拠の西牟田城を攻め落され、父は自殺し、子 は戦死した.大永五年九月九日、高良山の御供日祭の当日の事であつた.
 その後、西牟田氏は、下田の堤氏と共に、いちはやく竜造寺氏の軍門に降り、その筑後 侵略に協力することによって復活し、生津に築城してそこに居たが、天正十一年、竜造寺 氏の許可を得て、城島に移住した.城島城の城濠が整備されたのは、このときの事と思わ れる.西牟田氏は城島城で二度も大攻撃を受けた.初めのは、天正十二年の大友氏の筑後 遠征軍の攻撃で、これは首尾よく撃退した.新助兄弟の勇名と城島城の堅固さとは、肥前 、筑後、豊後のあいだに轟いた.第二回目は天正十四年六月の島津氏の北上軍による攻撃 で、さすがの新助兄弟も、衆寡敵せず、夜間筑後川を渡って、肥前に落ちていった.

島津氏の占領時代

西牟田氏を肥前に追払った島津氏は、筑後から北上して、同年七月、筑前岩屋城に大友氏 の名将高橋紹運を攻め、力攻二十数日、やっとこれを攻め落とし、ついで立花城攻撃の準 備中、八月二十日、本国薩摩から、島津義久の急使が到着して、その命令で全軍退却一路 南下してしまった.この間およそ三ケ月、島津氏が置いた城島城番の名前は明らかではな い。       

竜造寺占拠時代

天正十五年、太閤秀吉の命令で、筑後各地を占拠していた竜造寺氏の軍隊は、本国肥前に 引上げさせられた.島津氏総退却の直後、竜造寺氏から、西牟田新助を城島城に復帰させ ていたと思われるが、はっきりした資料はない.

薦野氏時代

天正十五年(一五八七)太閤秀吉は、九州征伐の論功行賞として、立花宗茂に、筑後四郡 の内、一百九十六ケ村十三万二千一百石を与えた.この時、宗茂の家老薦野三河守増時が 城島城主に任命された.増時は入道して賢賀と号し、秀吉の命令で宗茂に仕えた武功の士 で、元来、筑前薦野村に居住した大友氏の直参であった.天正十二年、大友氏の遠征軍が 城島城を攻めた時、賢賀の名代安倍六弥太が勇戦して、討死をとげた.賢賀に城島城を預 けたのは、このときの功労に報いたのであろう.慶長五年、立花宗茂が大名をやめさせら れると、薦野父子は、黒田長政に招かれて、筑前に赴いた.

加藤清正の管理時代

慶長五年、柳川城が立花氏から明渡されると、加藤肥後守清正の家老加藤美作が柳川城番 に任命された.この時、清正の家臣のだれが城島城を管理したかは明らかではない. 次に楢林家系図を掲げて参考とする.
 佐賀藩の弘化藷士系図(佐賀市鍋島家内津書所蔵)のうち
  楢林家系図 本国 近江、宇多源氏、紋四ツ目、抱楢葉  義綱  今道四郎左衛門
 代々近江国志賀郡今道村之領主、永禄十一年之頃、羽柴秀吉公政務之節、加藤主計頭清 正公之家臣卜成り、軍功に依テ、清正公、筑後久留米預り之時(慶長五年柳川城明ケ渡シ ノ節、清正公柳川城預リノ時、と改めねばなるまい)楢林村二千石宛行われ、その後、田 中兵部大輔吉政公受領之時、庄島(城島の誤り)楢林之氏紳祭礼之儀二付(森崎大権現) 吉政公卜不和二成り、楢林村を明渡シ、肥後国二行、熊本二於テ千石、天草デ千石賜ル。  右の今道四郎左衛門義綱の子義政は、加藤家断絶の後、長崎江戸町に移住し、氏を楢林 と改めた.日本で初めて西洋流の種痘を試みた蘭医楢林宗建は、義政から八代目の子孫に あたる.

宮川氏時代

慶長五年(一六〇〇)関ケ原役の殊勲者田中吉政が、筑後国全部三十三万五千石の大名と して、筑後守を受穎し、三州岡崎城主(五万石)から、柳川城主に栄転すると、筆頭家老 宮川讃岐(六千八百石)を城島城主に任命した.従う兵力は、侍四十名、雑兵三百名ほど で、西牟田氏の時代とあまり変わらない兵力であつた.
宮川讃岐は、大いに城島城の整備に力を注ぎ、濠を深め、土居を築き、矢倉、城門などをつくり、本丸には城主の居館を設け、二ノ丸には本丸の四方を囲んで武家屋敷を置き、北方の武家屋敷は道路を隔てて、鉄砲組の雑兵の組屋敷と相対していた.今の山ノ井川が筑 後川と合流する地点の近くに番所を置いたのは、肥前に対する監視と、抜け商売を防ぐた めと思われる.
城島城が城下町を取入れた近代的な城郭として完成したのは、宮川氏の時代といって差 支えあるまい.(宮川氏が作製した城島城の絵図が残っている)
宮川氏は、元和元年、二代目の大炊の時に滅んだ.主君の田中筑後守忠政(吉政の四男)が大名を止めさせられたのが元和六年だから、その五年前である.
宮川大炊守は主君忠政の兄で上妻郡福島城の城主だった田中久兵衛康政と仲が善く、主君 の忠政とは事ごとに衝突していたが、元和元年、大阪夏の陣の直前に、柳川城の御殿で、 忠政に殺された。忠政が元和六年まで五ケ年の間、江戸で閉門を仰せつけられ、ついに大 名をやめさせられたのは、夏ノ陣のとき出陣がおくれ、ぐづぐづしている間に戦いが終わ つてしまったからである。出陣がおくれたのは、城島城攻撃のためで、宮川大炊の一族郎 党は、主人の弔い合戦だというので、城島城に立篭もり、鉄砲をうちかけて戦った.忠政 の軍隊も攻めあぐんだにちがいない。宮川氏滅亡後、田中氏が置いた城島城番の名前は明 らかではない.

有馬氏時代

元和六年、久留米藩祖有馬豊氏公が、丹波福智山八万石の城主から、筑後八郡二十一万石 の大名に栄転して、同七年三月、久留米城に入城した.城島城が取壊されたのはその年の 事である・慶長二十年(元和元年〉徳川幕府が制定した武家法度という法律で、領内には 一城だけということになり、田中氏の時代でも、城島城は、柳川の支城という名目ではな く、表向きは宮川大炊の屋敷と呼ばれていた程だから、そうなるのも当然の運命だった. 城島城の建築物や石材は、久留米城の修理に使用され、廃城後の城島には、榎津定番支配 下の城島番所と、住吉穀留定番支配下の城島川手下番所とが置かれた.

城島町文化協会編「城島むかし」より


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