史跡



城島城跡

天正11(1583)年西牟田家周が築いて居城とした。
西牟田氏は、肥前の竜造寺隆信に従っていたが、天正14年島津の軍勢に囲まれ落城し、家周は肥前に逃れた。天正15年、このあたり一帯は立花宗茂の領地となり立花家の老臣薦野伊賀守が城代として入城したが、慶長5(1600)年立花は改易となり、慶長6年田中氏が入国、久留米城主田中吉政の重臣宮川讃岐守が城代となった。
元和6(1620)年、田中家断絶とともに廃城破却されてしまった。

江 上 城 江上城

「江上三郎忠種の兄江上四郎の築く城跡」
西江上の松林寺境内及びその周辺が城跡と伝えられる。
江上四郎武種の居城であった。江上氏は少弐氏に属し、近郷300町歩を領有し、たびたび龍造寺隆信と戦ったが、のちに隆信に降り龍造寺の家臣として重きをなした。 天正年間、江上城は落城し、弟三郎忠種とともに江上氏は滅亡してしまった。



江上上館

「嘉禎2(1236年)江上忠種の築く城跡と伝えられる」
(館古賀城)
江上三郎忠種の居城と伝えられる。江上氏は大蔵長種の末裔で兄の四郎武種、西江上の江上城にあり、兄弟で近郷300町歩を領していた。
天正年間(1573−92年)江上城は落城し、江上一族及び江上の家臣200余人が戦没した。




山法師塚

関が原合戦で敗れた真田雪村の一族である真田直行は山伏姿で筑後に来た。直行は伊我理神社の境内に庵をたて起居し、日頃信仰する不動明王をまつり豊家再興を祈念したといわれている。




九品寺廃寺跡

大友家重臣豊饒美作永源後柏原天皇の大永年中(1521年頃)に草創。九品寺の徒がこれを守っていたが、田中吉政が寺田を没収し廃寺とした。 当寺院は佐世保に移されている。






下田村城

堤貞正入道妙光は寛正3年(1462年)館をこの地に構えた。永禄3年(1560年)城を村中久理に築いて大友の兵を防いだ。天正15年龍造寺に従って永く家臣となり小知を食み子孫は鍋島氏に仕えた。



青木天満宮

正安2年(1300年)に創建。
古くは、老松宮と呼ばれ社格郷社で青木之荘総鎮守
学問文化の神様として崇敬が篤い
例年3月、「火清鳴弦祈祷」と呼ばれる伝統ある特殊神事が斎行されている



日吉山王宮

平安時代、50代桓武天皇の時(延暦年中)に漢の高祖帝30代の大蔵朝臣江上三郎長種が江州比叡山坂本山王宮を当地に勧請した。



牛木神社六地蔵

この六地蔵の石塔は紀年銘など不明であるが室町時代末期の作と思われる
六地蔵は人々の苦悩や厄難を直すといわれる六種の尊像で厚い信仰を受けて現在にいたっている
この石塔は六体とも頭は丸剃りで法衣を着けおだやかな姿であるが長年の風雨から随所に磨耗の兆しが見える なお、六地蔵石塔は県内には20基ほどありそのほとんどが県南部、中でも当地方に多いといわれ祖先の六地蔵との関わりが偲ばれる




宇志岐神社

創建は805年頃、神体は人形で牛木大明神とも言っています。
六地蔵、板碑は江戸時代のものと伝えられ、碑文は風雨に侵食され判読されない。
また、この付近は貝塚が散在し弥生後期の土器片(タタミ文)等が出土する。





高良玉垂宮

本神社は第六十六代一条天皇の長徳元己未(995)年、宮崎兵部少輔高良山より勧請し七社大権現と称し氏神として尊崇厚し。社領七町七反、第八十三代土御門御宇正治元己未(1199)年公儀より拝領
大永年間(1570年代)当村地頭豊饒美作永源再興
寛永十一甲戌(1634)年地頭有馬大膳助再建







法林寺宝筐印塔

紀年銘はないが南北朝期(室町期)造立のもので、もとは大川市の下林天満宮境内にあったものを、明治の廃仏毀釈の際移したものではないかとされています。

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