由来・伝説

江上ついて

江上という地名は、弥生期(一五〇〇年位前)筑紫潟と呼ばれた有明海沿岸の干潟に出来 た無数の島の一つ、水間島の筒の様に入り込んだ筒江・裂江の上てにある土地という事で 、農耕の指導者宇志岐が開発した三瀦農業発祥の地である.現在の平野・原部落は大昔は 海岸の潟地にひろがる菰や水草の茂る湿地や葭野・葦原で、葭を踏み、菰の上に土盛して 揚田・牟田を作って稲を植え、住みついた集落である.小字・地宇(ほのけ)の名称・由 来は土地の形成上からとったものが多く、城・社寺・屋敷・所有者・開拓者等の人名、お よび動・植物等に関係あるものもある。筒江の宇志岐神社付近から出土した巨石・土器類 ・貝塚などは弥生期の集落及び古墳があった遺跡である事を物語っている。
日本最古の文献である古事記・日本書紀にみゆる、農耕食物の始祖『アメノクマウシ』の 話は有明海沿岸の牛津(佐賀)・牛木(甘木)と共に、江上の牛木が、古代米出土日本一 の筑紫平野農業の中心地である事を示唆している.
仏教や儒教を知らない古代の人達にとって、自然の諸現象は驚異不可思議であり、幾多の 天災地変をきりぬけて生きてきた祖先の働きは尊敬に値するものであった.集落の鎮守と 部族の繁栄を願って産土神・氏神を村の中心地に祀り、鎮守神として信仰した。したがっ てそこに祀られている神社を知る事は、その地方の恩人と祖先を知る事になる. 宇志岐神社と共に、最も古い神社が江上馬場の日吉神社山王宮である.末社に松尾大社・ 祇園社・月読明神社等がある.祭神は大山咋命(オオヤマクヒ)であるが、饒速日命と同 じ神との説もある.(日本古代正史)寛文社方開基(一六七〇年)によれば、当時、社内 神殿には松尾大明神(オオヤマクヒ命・イチキシマ姫命)とある。松尾大社は酒造りの 神様として有名で城島の酒造家の信仰をあつめているが、京都の守護神として名高い. 饒速日命(ニギハヤヒ)は記・紀にも別格に扱われている大神で諡号を天照国照彦天火奇 ミカ玉饒速日尊という大国玉神である.大神神社・熊野本宮社・大歳神社・日吉神社・金 比羅宮・山王宮などに祀られている日本最初の大王である。京都の東、比叡山に鎮座して 日吉神社・山王宮と呼ばれたが、仏教が入り最澄が比叡山に延暦寺を建立して仏教の道場 とした為、麓の坂本に移って坂本神社となった.それを平安時代に江上三郎長種が当地に 勧請したのである.祇園社の祭神はスサノオ命(ニギハヤヒの父)、月読神社の祭神はツ クヨミ命(スサノオの弟)である。

山王宮を勧請した江上氏であるが、祖先は遠く漢の高祖に連る.大化年中、日本に帰化し 大蔵の氏、朝臣の姓を賜る程の信任を得て代々大蔵を名乗つた.大蔵春実の天慶四年、藤 原純友の乱を鎮めるため九州に下向し軍功により原田の庄を賜り太宰府の府官に任ぜられ た.春実から八代の種成に男子五人あり各地に分家した.四男四郎種光は筑後江上に江上 城を築き江上氏祖となった.二代長種に二子ありて長子種冬を四郎、次子忠種を三郎とい つた。六代氏種の時、元寇あり軍功により肥前神崎の庄他を賜り戦国時代は肥前の勢福寺 城主として活躍した.天正十二年龍造寺隆信討死と共に没落した. 慶長五年、天下分目の関ヶ原合戦で敗れた柳川の立花宗茂と佐賀の鍋島勝茂の決戦場とな った江上・八院の戦は国内における最後の戦いとして有名である.  
坂本神社荒人神社 

坂本神社

荒人神社

   

荒人神社の由来

  

 江上本(西江上)に、荒人神社を祀った小高い丘がある.
この神社は、江上家滅亡後(天正十二年島原にて龍造寺と島津の決戦が行われ、江上家種 に従って出陣した江上衆は全員玉砕した)、その亡魂祟りをなし、イナゴ発生して作物を 害するので、享保九年荒人神に祀り、城跡に社を建立する.    

江上と青木の地名について

 郷土史を調べるうえで、大変参考になるのが地名である. 江上という地名は、入江のかみてに出来た村と思ってよいのではなかろうか。大昔は、こ の辺りは、筑紫潟という海で入り口が狭く、奥行きが深い入江で、潮の干満に時間がかか り、潮位の差が非常に大きく、加えて九州山脈や脊振山系から流れくる大小数多くの河川 が、砂や土を運んできては、押しあげる潮に阻まれて、下流一帯に沈積して潟州となり、 水草や葭葦が繁茂し、湿地沼沢を形成してきた.江・潟・島・崎・津・浜・原・野などの 地名が多いことから堆察される.
 筒江は筒のように細長く入り込んだ入江で、過能は葭野や葦原を焼き払つて田畑を開拓 した所、桜江は裂江で布を引き裂いたような深い入江のこと、揚田は沼沢の葭野を踏み固 めて、周囲を堀りその土を盛り上げて作った田畑、平野は一面の野原、千代島は入江の中 の小島、中牟田は葭原を開いて稲を植えた水田、馬場は山王宮にお参りにきた領主が乗馬 を繋いだ場所、古町は幕藩時代の宿場町のこと、こう見てくると昔の江上が想像される.  青木は海岸今川岸の柳・楢・楠・松・檍などの若木の繁茂しているところを意味する. 青木島・江島・浮島は入江の中の島、四郎丸は江上四郎が開拓して領土と宣言した土地、 船津は港、南北大門は役所の出入りロ、城の元は役人の館、六良武は警護の武士の詰所、 能保里、岐寿、波武伎宇、志留天、古布知宇、波寿和等は渡来人の慕郷の里名ではなかろ うか.この付近が昔の入江で海岸に住み魚労農耕で暮らしていた人達の住居跡や生活用具 が、数多く出土している.


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江上山王宮について

江上の山王宮については、寛文十年の『久留米藩社方開基』という記録によれば、五十 代桓武天皇の時(延暦年中)に漢の高祖帝三十代の大蔵朝臣江上三郎長種が江州比叡山坂 本山王宮を当地に勧請、その後田中筑後守殿より高百石御立置相成りとあり、また祭礼の 有様は『霜月初申に御神事あり、御神輿、御鉾榊、御幣、神馬、長柄、稚児、御名代、鎧 武者並びに氏子江上本村、江上上村、横溝村三ケ村の者ども社人に従い御神のお供をした 。馬場通りでは神鏑馬〈ヤプサメ)、境内では能、神楽を奏し神事には領主も参列した. 』とあります.今では神馬や神鏑馬などの神事はありませんが、御神幸はあっています. 地元の氏子の奉仕によって代々受け継がれてきた御神幸の神事は貴重な城島の文化財です.


御神幸の山順序は次のようになっています. 
  先払い(ほぅきを持った二人が先頭で道を清掃する)、浄水(御神水を振りまいて道を 清める)、稚児(正装した七・五・三歳の氏子の子供)、幡(赤・黄・青・白・紫の長旗 )、神官、猿田彦・細女(棒の上に天狗面とおかめ面をつける)、御鉾榊(二本の榊に鏡 ・玉・剣と五色の幡と麻を飾る)、御幣、御神輿、御神撰(神に供える物)、社人、氏子 などが行列をつくつて続きます.  御神幸は日吉神社を出て、馬場の通りをねりあるき千代島の若宮神社まで行きます. この神事は数百年も続いている村にとって大切な祭りです.まつりとは、神様(目に見え ない自然現象を擬人化したもの産土神と、実在した先祖の霊氏神とある)をとおして、人 と先祖と自然のまじわりを意味します.是非いつまでも続け残して下さい.


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江上氏と江上城館について

江上氏は渡来人である漢の高祖の子孫で、藤原純友の乱を鎮めるため九州に下向し、そ の功によって太宰の大監という要職につき、筑前原田の庄を賜り、原田姓を名乗った種成 が五人の子供を各地に分家させたなかの、江上に分家した四男四郎種光が江上氏の祖です .二代長種に二人の子があり、長子種冬を四郎、次子忠種を三郎といいます.  江上本村の内、西江上にある古城跡は弟三郎忠種、江上々村にある館の古賀という地が 兄四郎種冬の古城跡であります。館屋敷・館の前・館古賀・刑部屋敷・堂屋敷・千代島屋 敷・佐京屋敷・東屋敷・馬場先・町中などの地名でも分るように、重臣の屋敷が並んでい ました.  六代氏種の時、蒙古襲来(元寇)があり、軍功によって肥前神崎の庄、山門、山下二郡 を賜り、江上本家は肥前神崎に移りました.南北朝時代を迎え、八代近種は元弘三年二品 親王の命を奉じて赤松氏と戦いました.そして足利将軍の威信が漸く衰え応仁の乱が始ま り、世は群雄割拠の戦国時代に突入して行きます.  十二代常種は肥前守を名乗り、永享六年少弐氏と共に探題渋川満直を攻め、勢福寺城を 取り領主になります。  この頃から下克上の風潮が激しくなり、常種も一揆の犠牲となり文明二年討死し、十三 代興種の時、勢福寺城を追われました.その頃筑前の少弐氏、豊後の大友氏は穀倉筑後へ 勢力を伸ばし、筑後の諸豪族はその旗下について戦っていました.  さらに天文元年、中国の大守大内義隆も九州へ触手をのばし少弐氏の背後に迫ります.  十四代元種は少弐氏を援けて再び勢福寺城に入り、東肥前で大内氏の大将陶道麒と戦い ます.この戦に江上勢は太鼓を打鳴らし鬨の声をあげて攻めかかり、大勝利に終ったと記 録されています.明けて天文九年、陶道麒再び軍をおこし、まづ筑後に打入り、久留米の 安武城に豊饒美作永源を攻め、永源敗れて肥前東津に逃げれば、陶道麒は勢にまかせて筑 後川を押し渡り、肥前になだれ込みます.少弐資元、冬尚親子は江上元種が護る勢福寺城 にたてこもり、少弐恩顧の諸将続々とはせ集り防戦怠りなく、特に龍造寺剛忠よく奮戦し 散々に打負せば、敗報を聞くより大内義隆大いに怒り、自ら大将となりて三万騎を率いて 筑前に押寄せます.少弐方は軍議の結果、勝算なしと判断して和を乞い、勢福寺城を明け 渡し資元は切腹、冬尚は筑後に逃げました.
 かくて豊後の大友氏も大内氏と和睦して九州の大半はしばし静かになりました.天文九 年少弐冬尚は再び家を興さんものと、ひそかに龍造寺剛忠の佐嘉水ケ江城を訪れ、協力を 請うたので、剛忠は冬尚を勢福寺城に据え、弟の龍造寺家門を執権とし、江上元種、馬場 頼周を補佐と定め護りたてたので、少弐氏は一応安泰となりました.
 ところが天文十四年、馬場頼周は謀略を用いて家門始め一族六人を襲い殺した上、首桶 を冬尚に捧げ龍造寺謀反と告げたので、怒った冬尚は剛忠一族の所領を没収し、剛忠は筑 後の蒲池氏を頼つて逃げました.天文十五年、剛忠は少弐、馬場の非道を恨んで死んだ後 、仏門に入っていた孫の法師丸が還俗して隆信と名乗り龍造寺家を継ぎました.
 天文十六年、隆信は大内義隆と結び、少弐追討の軍をおこしました.冬尚は江上元種を 始め譜代恩顧の将を集めて、防戦しましたが目達原の合戦で豪勇の士数多く戟死し敗れ、  元種は冬尚を守つて筑後に逃れ江上城に隠居し、武種が十五代の当主となりました.
天文二十二年、大内義隆が陶隆房に討たれ巨星地に落ちて九州は再び動乱の様相となり、 少弐冬尚は大友宗麟と共に軍をおこし、江上武種は冬尚に従って龍造寺隆信と戦う事三度 に及びましたが、戦国随一の猛将隆信と智謀の臣鍋島信昌に敗れ、永録二年遂に降伏、切 腹しようとしたところを信昌に止められ、江上城に帰り隠居して仏門に入り、林松寺を創 建しました.隆信は江上氏の武勇を惜しみ、二男家種を養子として江上氏十六代の当主と しました.天正五年から十年にかけて九州はほぼ大友、島津、龍造寺の三勢力に統一され ました.そして日向耳川の合戦で大友氏が島津氏に大敗し、勝ちに乗じた島津軍は怒涛の 如く肥後・筑後に攻め込みました.これを迎え撃つのが龍達寺隆信です.決戦場は島原、 時は天正十ニ年三月九州の覇権を賭けた大決戦が始まります.隆信壮烈な戦死、龍造寺五 万の大軍全滅の大敗.江上権兵衛家種は大豪無双の武将で鬼神の様な働きをしましたが、 戦い利あらず僅か七名の従者と共に死地を脱しました.家種に従った江上衆の将兵は殆ど 討死し、その怨霊は永く残って崇りをなしたと伝承されています.
 島津軍は筑後の諸城を攻め、城島城も落城しました.更に筑前岩屋城に名将高橋紹運と 歴史的な攻防戦を展開し、高橋は玉砕しました.
 天正十五年、豊臣秀吉九州征伐の軍を発し、高橋紹運の子立花宗茂および龍造寺隆信の 臣鍋島信昌ともに、父および主君の仇である島津を討つため、先陣となり軍功多く、秀吉 天下統一の後、立花宗茂は筑後を、鍋島信昌は肥前を賜りました.龍造寺氏は絶家となり 、名門江上氏も家種隠居して唯善寺を創建して没落しました.戦国は非情です.


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伝説えつの由来

むかし昔、この辺りは水沼の県(あがた)ちいうて、筑後川が運んできた山土や砂と、 有明の海から満ち潮が押上げた潟が、川岸や海岸に積もって、その上に水草や葭・葦が茂 って陸地になり、人々はそこを拓いて田や畑をつくり、村をつくって住み着いたそうな。 この辺りの村を安乎岐郷(あおき)といつた.水沼の県の役所は安乎岐郷から一里程川上 の夜明郷の高三瀦にあつたが、九州をおさめる太宰府の役所には青木の舟津から渡し舟で 、呉津へ渡り嶺の県を通つて行つた。
 ある日の夕暮れ時、みすぼらしい旅のお坊さんが、しよんぼり渡し場にたって、もう川 の中程までこぎ出た渡し舟を見送つておらしやつた。このお坊さんは、今日のうちに嶺の 県まで行くつもりじやつたが、相憎く渡し賃がなくて舟に乗せて貰えなかったのじゃ。 思案にくれているお坊さんの傍に、網を肩にした漁師らしい若者が近寄って、
 『あの、そこで何んばしとらっしやつとの。』ち聞いたげな。
『わしは、今日のうちに嶺の県まで着きたいのじゃが、相憎金がなくて渡し舟に乗れず 困っているところじゃよ.』と言つて溜息をつくお坊さんを見ると、若者はむぞうなって  『あたいが渡してあげまっしょ。こまか舟ばってん、乗らんの.』ち言うて、自分の小 舟ば川岸の葭の中から引き出して、お坊さんば乗せたげな。
 『お坊さんな何処から来なさったの。』ち櫓をこぎながら心安う聞く若者に、  『わしは四国の生れで、仏様の教えを修業するために、遠い唐という国に行って、今帰 る途中でな、これから太宰府まで行くところじゃよ。』ち言わしゃつたげな。
 やがて、舟が呉津に着くと、お坊さんは嬉しそうに、
 『あんたの優しい親切は、本当に有難かった.いつまでもその心を忘れずに頑張りなさ れや、何かお礼をと思うが、相憎の無一文だし…。おう、そうだ、あんたは漁師のようだ から、魚を呼んであげよう。』ち言うて、川岸の葭野から四・五枚のよしの葉を採ると、 また舟に戻って、あっけにとられている若者の肩を抱くようにして、静かにお経を唱え始 めらしやつたげな.
 『観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
  舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是』
力強いお経の声が、川面に響き、手にした葭の葉を一枚また一枚と水に流さしゃつたげな。

すると、不思議な事に葭の葉が川の流れに、くるくると二、三回まわったかと思うと、 たちまち真っ白い魚になってパッと四方に散っていったげな。
 ぴっくりした若者は、
 『あれっ、お坊さん、これはなんち言う魚じゃろうか…。』ち尋ねたげなりや、  『わしが唐の国で修業している時、斉(エツ)という所で見かけた魚じゃよ、長江とい うてな、この川よりもつともつと大きく広い川でな、この川と同じように潮が満つてくる 川じゃよ。毎年よしの葉が茂る頃、大勢の仲間を連れてのぼってくるじゃろうから、この 魚を捕って暮らしのたしにするがよい。』
 そう言ったかと思うと、もうお坊さんの姿は、天山を真っ赤に染めた、夕焼け雲の中に 消えて行ったそうな。このお坊さんな弘法大師じゃったち言う話ばい。


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伝説まんじ板碑の由来

内野の村中に入ると、道端に巨石がたつています。巨石にはかすかに卍印が刻まれてい ます。古老の話によると、昔はこんな石が数基並んでいたそうです。この石碑は、卍板碑 といって、仏堂や寺院、墓墳等の所在地を示す道しるべです。
 昔は、この辺りは深い竹薮と雑木が繁った小高い丘で、蒲池一族の墓所でした。  筑後随一の名門蒲池氏が、戦国とはいえ余りにも悲劇的な没落をした後、僅かに残った 一族がここにひっそりと身を潜め、悲運の主鎮並公の菩提を弔うため建立した庵寺の所在 地を示す石碑だと言われています.つい先頃、蒲池氏の子孫である首藤氏の屋敷跡から 板碑が発掘されました。宗兵衛屋敷跡と言う場所ですが、家系図を調べますと本家首藤の 祖重之進の弟宗三郎(本蒲池に養子)の屋敷跡ではないかと思います。
 蒲池氏の先祖は、遠く藤原道兼より出て平安時代に藤原純乗が筑後蒲池に城を構えてか ら、勢力を伸ばして来ました。戦国時代は柳川にあって、大友旗下二十四将の旗頭として 一万町の領地を持つ筑後随一の大将でした。しかし戦国の世は非情で、主従父子相争う悲 劇はここも例外ではなく、大友、島津、龍造寺の三大強豪の勢力争いと謀略の犠牲となり 、蒲池宗雪入道鑑盛は日向の耳川合戦で島津の大軍と戦い壮烈な玉砕を遂げます。その子 鎮並は父に劣らぬ豪勇の武将でしたが、龍造寺隆信と不仲となり、隆信は娘婿の鎮並の柳 川城を攻めますが、『柳川三年、肥後三月、肥前筑前朝茶前』とざれ唄に言われたように 、柳川城は無双堅固の城でさすがの隆信も落とす事が出来ず、仕方なく和議を結び、猿楽 にことよせて佐嘉に誘い出し、酒食でもてなし、安心して宿舎を出た所を、大勢の討手を かけ謀殺しました。鎮並始め一族、家臣三百余人残らず斬死しました。悲劇はそれだけで はなく、同日、鎮並の伯父田尻鑑種を討手の大将にして、柳川城を急襲し、夫人や子統虎 丸他みな殺しにし、五百余の生首を舟につんで有明海を渡ったといわれます。この鎮並の 霊を慰めるため、庵寺を建立し鎮並ゆかりの子孫が守り住んだと言います。


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伝説山法師塚の由来

三瀦高校前を東へ行くと大依、右手にこんもりと繁る森は伊我理神社である。直ぐ側に 天主閣の様な大屋根の常然寺が、門前の大銀杏の木と共に、数百年の歴史を物語るかのよ うにどつしりとした姿を見せる。その常然寺から南へ百メートル、道端の石碑が人目を引 く。豪快な文字で不動明王と読まれ、真田直行の霊と刻まれている.此処は数年前までは 山法師塚と呼ばれる遺跡で、道路新設に際し、宗教的理由で石碑建設が実現した。  戦国時代の数多い武将の中で、今日でも人気のある名将と言ったら必ず真田幸村の名が 出る。あの大坂の陣における悲劇の大軍師真田幸村の一族が、ここ六丁原の草深い里で、 悲壮な最後を遂げたという伝承は、話者鐘ケ江老祈祷師の幻覚の中にまざまざと描かれる 。慶長五年の関ケ原合戦は文字通り天下分け目の戦で、勝者徳川家康は天下の実権を握り 、敗者石田三成は三条河原に斬られた.
 当然のことながら、徳川方に味方した諸大名には栄光が約束され、石田方に加盟した武 将達は滅亡の道を歩いた。
 関ケ原の合戦は確かに徳川方の勝利には違いないが、唯一人、徳川に負けなかった名将 がいた。信州上田城の真田一族である.
 関ケ原の戦場へ急ぐ徳川秀忠の大軍を、吹けば飛ぶ様な小城で喰い止め、遂に秀忠を関 ケ原合戦に遅れをとらせた、真田昌幸、幸村父子の采配ぶりは歴史に残る見事なものであ った。さすがの家康も真田一族の智謀を惜しみてか、敗者西軍の将は殆ど死刑にした中で 、真田一族だけは命を助けて、紀州高野山のふもとに昌幸父子を隠居させたのである。
 真田幸村が智謀の名将と称される様に、武勇の名将として後世まで名を残したのが、立 花宗茂である。幸村と宗茂は共に豊臣家の恩顧に殉じようと、西軍に味方した仲であり、 そして奇跡的に生きのびた二人である。その二人の間にどう言う話合いがあったかは分ら ないが、関ケ原合戦後、真田一族である真田直行が山伏姿で筑後柳川の立花宗茂を訪ねて 来た。
 ところが、慶長五年秋十月、筑後の田畑は五万人の大軍で埋まり、いたる所戦死者の屍 と負傷者の血でいろどられ、鬼哭啾々たる有様であった.徳川家康の命令で、佐賀の鍋島 直茂・勝茂が柳川の立花宗茂を討つべく、大軍を催して久留米の毛利秀包を一気に落とし 、余勢を駆って怒涛の如く柳川領に攻め込んだのである。宗茂もまた、家中の総力をあげ て、迎え撃つ激戦死闘が繰りひろげられた江上・八院合戦の最中であった。  真田直行は、六丁原まで来たものの、柳川に入る事が出来ず、眼前に立花三河守玄賀が 守る城島城が炎に包まれ落城するのを、涙で見ながら、武器も家来も持たぬ山伏姿の我が 身を悔みつつ、歯がみして身を隠していた.
 十一月、合戦は終わり、柳川は開城となり、宗茂は加藤清正に預けられて南関に幽閉さ れた。直行は幸村の指図に従い、宗茂の家来達を結集して徳川打倒の機会をうかがいなが ら、伊我理神社の境内に庵を建て、程近い森の中に日頃信仰する不動明王を祀り、豊家再 興を祈念していた.
 元和元年、真田幸村遂にたち、大坂の陣起こる. 徳川家康は全国の大名に召集令を発し、筑後柳川の田中忠政にも大坂参陣の召状が来た  直行は策をめぐらして、忠政家中に争いを起こし、遂に鷹尾城・城島城の宮川一族を叛 乱させ、その鎮圧に手間取り、忠政は大坂の陣に出征することが出来ず、徳川家康の怒り をかい、元和六年まで閉門のうちに病を得て死んだ。  大坂の陣は豊臣方の敗北に終わり、名将真田幸村も戦死したが、家康の怒りは激しく、 全国に残党狩りが行われ、久留米城主有馬豊氏の探索は、六丁原に隠れひそむ真田直行に および、遂に捕えられて死刑を宣告された。
 火あぶりになると知るや、直行はにっこり笑い、
 『我が日頃信仰する不動明王もかくあらん。』と合掌して、はりつけ台に登ったという

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小一郎切腹

慶長五年いわゆる天下分日の関ケ原合戦で、三州岡崎五万石の城主であった田中吉政が 、西軍の大将石田三成を生捕った殊勲により、立花宗茂の柳川、毛利秀包の久留米を併せ 、筑後国三十三万五千石の大名として、柳川城に入城した。  吉政には四人の男子があり、長男は早く逝き、次男の主膳正を久留米に、三男の久兵衛 康政を福島城に、四男の隼人正忠政を柳川城に住まわせ嗣子とした。  それまで筑後国内には数十の城砦があったが、不要の分はこれを壊し、開墾して田畑と なした。然し赤司、黒木、城島、松延、鷹尾、江浦等要害の城にはそれぞれ重臣を城番と しておいた。
   特に城島城は、肥前との国境で最も重要だったので、筆頭家老の宮川讃岐守(六千八百 石)を城主に任命した。宮川讃岐守に従う城島城の兵力は、侍四十名、雑兵三百名位で、 西牟田家周、薦野増時の時代と大差はなかったようである。
 宮川讃岐守は、江上合戦で荒廃した城島城の整備に力を注ぎ、濠を深め、土居を築き、 矢倉城門等をつくり、本丸には城主の居館を設け、二の丸には本丸の四方を囲んで武家屋 敷を置き、特に北方の武家屋敷は道路を隔て、鉄砲組雑兵の組屋敷と相対していた。  (当時の絵図があり、今でも城内、高門、組屋敷、鉄砲町、町屋数等の地名がある。)  また山の井川が筑後川と合流する地点に番所を置き、肥前に対する監視と抜け商売を防 ぐ事にした。その宮川氏は元和二年に二代目の宮川大炊守の時に滅んだ。
 城島城主宮川氏の滅亡と主家である田中氏の絶家とは深い因縁がある。  田中吉政は筑後入国以来、柳川、久留米、福島城の修復、それに道路、河川、干拓、潅 漑などの土木工事に藩の全力をあげて当り、持てる限りの財を投入した。そのため藩財政 は困弊を極め、二代忠政の時になって人心は動揺し、元和元年折からの大坂夏の陣に出陣 する費用にもことかいた位であった.折も折、家中の侍の中で出陣に用ゆる旗差物の事で 喧嘩があり、双方に大勢の死傷者が出た。忠政は注意したが承知しないので、軍勢を出し てこれを討つたので騒ぎは益々大きくなった。筆頭家老の宮川大炊守は忠政の軽率を責め て、諌言したので怒った忠政は、柳川城中に於いて無法にも宮川大炊守を手討にして殺し た。この忠政の非情な仕打ちに、宮川の親戚は鷹尾城の宮川才兵衛を始め、一族結束して 反旗をひるがえした。忠政は怒って軍勢を差向けたが、鷹尾城は百四十五日も篭城したと ある。当然、宮川大炊守の居城である城島城にも忠政の軍勢が攻撃してきた。  どうしても宮川一族が降参しないので、忠政は仕方なく宮川才兵衛と仲のよかった福島 城主久兵衛康政に説得して貰い、この事件は落着した。  さて、伝説の小一郎切腹という悲劇は城島城降伏の場で始まる.  忠政の名代である久兵衛康政の前にわびれる様子もなく若武者が平伏する。備中守小一 郎である.康政は静かに問う。『小一郎、幾歳になったかの、』『はい、十六歳にござい ます。』『はて、そちは十五歳ではなかったかの、』十五歳までは子供故、無罪にして助 けたい康政が情けの謎である。然し、きっと紅顔を上げた小一郎はきっばり言いきった。 『小一郎は城島城を預かる武士の子、たとえ命を召されるとも、名を惜しむもののふでご ざいます。』居並ぶ者の感泣の声の中、作法通り見事に腹一文字にかき切って果てた。

伝説猫橋の由来

今から三百八十年も昔の話たい。ここんにきゃ柳川ん立花宗茂ちいう殿様んの領土じゃ つたげな。宗茂ちいう人んな、豊臣秀吉の九州征伐の時、功労のあったけん褒美に筑後ば 貰わしゃつたげな.ばってん秀吾が死ぬと、徳川家康と石田三成が天下分け目の関ケ原合 戦ば始めたけん、宗茂は秀吉の恩ば忘れんな西軍に味方したりや、小早川どんが裏切った けん西軍な負けてしもて、大将の石田三成始め主な人達ちゃあ、皆討死したり殺されたり 、島流しになったり哀れなもんじゃつたげな.そん中で薩摩ん島津と柳川ん立花だけが、 血路ば斬り開いて九州さん帰ってきたげなたい.そしたりや家康は佐賀ん鍋島勝茂ちいう 人に『立花ば討て』ち命令せらしたけん、鍋島は三万五千人もの軍勢で筑後川ば押し渡っ て攻めてきたげな。立花も徳川の天下になったら、どうせ殺されるけん、ここで決戦ばし ゅうち思うて、一万二千人の軍勢ば集めて決死の覚悟で迎えたげな。そりが慶長五年十月 二十日の江上・八院合戦たい。
 柳川ん立花宗茂は城ば護り、家老の小野和泉守が大将となって三千人で八院付近に陣ば 構え、鍋島軍な三万五千人ば十二段に分けて江上に布陣したげな。そして八院・筒江・五 反田を中心に激戦が展開され、両軍とも戦死者や負傷者が続出して、ここんにきの田や堀 は屍で埋まり、水は血潮で真赤になったげな.
 この戦いで鉄砲と兵隊の少なかった立花軍の犠牲はひどく、柳川随一の豪傑立花三太夫 はじめ、歴戦豪勇の武将達が三十余人も討死し、足軽従卒など千人余りも死んだげな。  相手方の鍋島軍も部将二十余人雑兵三百余人が討死し手傷を負つた者数知れずとやつた  立花軍の中に侍大将十時摂津守の一門で十時新五郎惟久ちいう人がおって、まだ紅顔の 美少年じゃつたげな。軍学兵法の家に生れ、幼少より武芸教養にすぐれた若者じゃつた。 この人ん家に黒猫んおって、惟久はとても可愛がつておったばってん、戦さになったけん 、生きちゃ帰らん覚悟で、猫は裏ん竹薮に捨てて、五反田まで出陣してこらしたげな。  案の定、今までになかごたる大激戦で、鉄砲の鍋島軍と槍の立花軍じゃ勝負はあきらか で、さすがの勇士達もばたばた討死したげな。十時惟久も五反田と筒江ん境の田ん中で、 鉄砲に撃たれて落馬したところば、駆付けた鍋島軍の兵に首ば取られたげな。
 惟久ん首ばさげて百間ばかり離れた村境の橋ん際まで引き上げて来た時、どこからじや い真っ黒か猫ん恐ろしかうなり声ば上げて飛付いたげな。ひと噛みでのどば喰いちぎられ て死んだ兵から、惟久ん首ばとって口にくわえた黒猫は、橋ん真ん中で四方から鉄砲ん狙 い撃ちくうて真つ逆さまに堀ん中に落ちこうで、どげん見でてん、首も猫も見つからじや ったげな。
 戦さんしまえて、村ん人達の討死した者の死体ば片づきょらしたげなりや、惟久ん死体 のそばん堀岸に、全身鉄砲ん穴だらけになった黒猫ん惟久の首ばくわえたまま流れ着いと ったげな。畜生ばってん、主人の恩ば忘れんな首ば取り戻でた猫ん魂の残りばししとった しゃい、そりから村境の橋ん下から猫ん泣き声ん絶ゆるこつのなかけん猫橋ち言うごつな ったげなたい。
 


       

江上・八院合戦に関する伝説はこの地方に多く、遺跡を訪ねると当時のことが偲ばれて  涙を誘う。土地の人達の供養が今も続いている。


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揚田の地蔵

ここんにきゃ、ほんにようお地蔵さんば祀っとるもんの、そのなかでんこの揚田んお地 蔵さんが、一番霊験の有難かち言うてお参りする人ん多かばの、いつ頃からお祀りしたじ やい知らんばってん、久留米ん七木地蔵さんの弟ち言う人もあるばの、しよては恩日には 、林松寺のお和尚さんにお経ばあげて貰よったけん、由来ば聞いたりや、柳川と佐賀ん戦 争んあった時、そりやあ恐ろしか戦さで、戦死者も数えきらんごつ多かったげな。柳川ん 方がぶの悪うして、偉か大将さん達もばさらか討死せらしゃつたげなたい。偉か人達やあ みんな首ば切られて持っていかれたけん、可哀想じゃち言うて首なし地蔵さんば祀ったげ なたい。中八院の三太夫地蔵さんな、立花三太夫ちいう柳川随一の豪傑で、その奮戦振り も討死の様子も記録にあるけん、今でん立花ん殿様から供養料の村にくるげなばい。
 揚田ん地蔵もしょては、やっば立花様からお供えんあがりょつたげなばってん、村もお 祭りもせんごつなったけん、自然とこんごつなったげな。林松寺さんにゃ討死した人ん名 前もあったげなばってん、火事で焼けて今はなかげな。
 しょては、薮ん中の墓地におらしゃつたばってん、構造改善事業で立派な道ん出来たけ ん、広か屋敷地ば造って移つてもろたばい。新しかお堂ば建立する時や寄附も多して、見 違えるごつようなったばい。お地蔵さんな慈悲深い仏様で、どげな願いでん一つは必ずか なえて下さるけん、ほんに有難うしてお参りする人もばさらかたい。恩日にゃ、ちゃ−ん と皆でお掃除して、お接待も用意しとるけん是非お参りにきてくれんの。


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伝説踊り念仏の由来

江上の里に『吸い殺し田』という所があります。どうしてそんな恐ろしい名前が残って いるのでしよう.今から七百年も昔、源氏と平家が家門の興亡を賭けて、壇の浦という所 で最後の決戦をしました.始めは勝ち戦さだった平家も、潮の流れに乗った源氏の激しい 攻撃に敗れて、哀れにも幼い安徳天皇を始め一族残らず波に沈んで亡びました。  平家の陣中に、悪七兵衛景清という侍大将がいました。全盛の頃は都を警備する重い役 目の武将で、武勇の誉れ高い豪傑でした.壇の浦でも大長刀(なぎなた)を水車の様に振 回して、まるで鬼神の様な奮戦をしましたが、流れ矢に眼を射ぬかれてドツと小舟の中に 倒れ気を失いました。
 栄枯盛衰は世の習いとはいえ、哀れにもはかない平家の末路を悼む声が、ここ江上の里 にもささやかれる頃、有明の海から筑後川をさかのぼって、筒江の葭野に水びたしの小舟 が流れ者きました。その中には盲目となった景清と郎党の堺の平太が、人目を忍んで乗っ ていました。
 戦さに勝つた源氏は平家の落ち武者を捕えるために、那須の大八を大将に大勢の追手を 差向けました.
 景清は今はこれまでと覚悟を決めて、切腹しようとしましたが、郎党の平太が、
 『この場は私が身がわりになって防ぎますから、これを着て逃げて下さい。』といって 、ぼろぼろの乞食の着物を差出し、自分が景清の衣服を着て、
 『平家の侍大将悪七兵衛景清これにあり、討取って手柄にせよ。』と叫んで斬り込んで  いきました。その間に景清は杖を頼りに、日向の国へ落ちて行きました。
 やがて平太は捕えられて、偽者と分ると、怒った源氏の追手は平太を裸にして、田んぼ に生き埋めにして立去りました。生き埋めにされた平太の体には、蛭や蛇や薮蚊が生き血 を吸いに群りました。平太の苦しそうなうめき声が七日七夜も、恐ろしくも恨めしげに聞 こえました。
 この田んぼに怪しい出来事が起き始めたのは、それからだと言います.田植えの娘さん が、急に大熱を出して気違いになったり、稲刈りをしていたお百姓が突然雷にうたれて死 んだり、雨の夜は鬼火が燃え、風の夜は恨めしそうなうめき声が聞こえたりしました。  村の人達は、平太のたたりだと恐れて、亡霊を慰めるためにいろいろ供養しましたが、 効めは丸めりませんでした。
 その頃、京都東山の六波羅密寺を訪ねた白拍子がおりました。この寺は、空也上人とい う偉いお坊さんが、仏の教えをひろめるために建立された寺で、平家の信仰があつく、 家が滅んでからは訪れる人もなく荒れ果てていました.
 この白拍子は堺の小菊といつて、父は小菊が幼い時、主人の供をして戦さに出たまま討 死したと聞かされ、供養のためお参りしていたのです。
 小菊はちか頃不思議な夢を続けて見るので、お和尚さんに尋ねてみました。 その夢とは、父が生き埋めにされて、なぶり殺しにあっている夢でした。お和尚さんは可 哀想に思い、
 『筑紫に行って、父の亡霊を慰めてくるがよい。』と言って、空也上人の和讃を教え、  魔除けの面と鈴を与えました.小菊は喜んで都を後に、はるぼる西海の果て筑魔の国江 上の里に着いた時、あの恐ろしい『吸い殺し田』の噂を聞いたのです。それは夢に見た父 の最後とそっくりでした。小菊は田んぼのあぜにたつて『お父様』と言って泣きました。 そして、涙ながらに面をつけ、鈴を振って和讃を唱えました。
 『三界広けれど来たり留る処なし。四生の形は多けれど、生じて死せざる休もなし。   三界すべて無常なり、四生いづれも幻花なり。』  小菊の唱える和讃の声は、美しくもまた哀れを誘い、案内してきた村人達は貰い泣きし ながら、
 『なむあみだぶつ。 南無阿弥陀仏。なむあみだぶつ.』と合掌しました.
 小菊は近くに庵をむすび、髪をおろして尼になりました。不思議なことにそれからあの 怪しい出来事は嘘の様になくなりました.村の人達は小菊を仏様のようにあがめ、なにか 不幸があったり、困ったことが起こると、すぐ小菊に相談しました。白拍子の小菊は唄や 舞いが上手でしたので、和讃に舞いの手を振り付けて踊りました。これが評判になって、 弟子になる人も出来て、江上の『踊リ念仏』と呼ばれる様になりました.
 のちに大永年間、豊饒美作入道永源という領主がこの話を聞き、感動して寺田三反三畝 を寄進して『西方山九品寺』をこの地に建立したと記録にあり、今もなお『寺家跡』とし て残っています。
 小菊が亡くなってからは、村人達は『操り人形座』をつくり、祭りや葬式などに出て、 『念仏踊り』や『口説き・語り』をして明治頃まで続きました。


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伝説龍宮塚の由来

下田や芦塚がどうして川向うにあるか不思議でしよう。それは昔、筑後が下田の東、 芦塚の北を流れていたからです。芦塚から松枝、江見手を抜けて真直ぐに城島に流れ込む 筑後川は、島田から楢林の岸に激突して、深い淵を作り、直角に曲つて北のお宮の下を高 津へ流れて行きました。この淵は気味悪い程青くよどんで、どの位深いのか誰も知りませ んでした。ただいつか魚釣りにいった人が、溺れて死んだとき、傷だらけであがったので 、恐ろしい主がいると言い伝えられていました.
 いつもは静かな川も、ひとたび大雨が降つたり大風が吹いたりしますと、たちまち大浜 水となり、渦巻き返す濁流は土居を壊し、田畑を潰し、家を流し人々を傷つけました。  戦国時代、豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏は九州で一、二を争う強い武将でしたので、 たびたび筑後川をはさんで合戦をしました。一番困ったのは筑後の人達でした.戦争のた ぴに若者は戦さにかりだされ、田畑は荒らされ、家は焼かれました。
 堤貞元は下田城を守るために、内野から城島まで川の様な広い堀をほリました。  西牟田家周は城島に城を築く事にしました。それは大変な工事で、村中の老人も子供も 総出で一生懸命働きました。大勢の大工や石工がきて、村人達と一緒に堀をほったり、石 垣を積んだり、館を組立てたりしました.しかし途中で大雨が降ると忽ち洪水となり、堀 は埋まり、石垣は崩れました。そこで城と筑後川の間に、岡のように丈夫な土居を造る事 にしました.そして急流をやわらげるために、淵に水門を造り、堀割をほって水を引く事 にしました。この工事は宇田貫ぶしんと言って、堀の長さは楢林から江上に達しました。  この堀の土をもっこで運び、何年もかけて築いた土居は城崎と呼ばれました。そうして いるうちにも合戦は続いて、西牟田城が落ち、生津城も焼け、城島城だけが頼みでした。 やがて大友軍の猛将戸次道雪という豪傑が攻めてくると言う噂が聞こえました。  城島城の領主家周の前に呼ばれた村おさの楢林六左衛門は、『是非つゆまえに工事を仕 上げよ』と命令されました。
 六左衛門は下男の吾平を供に連れて、夜も昼も工事を指図しました。  やっと工事が出来上がった頃、梅雨が近づき三日三晩大雨が降り続きました。忽ち筑後 川の濁流は渦を巻きながら城崎土居に押寄せました.淵は泡だち、逆巻く波はいまにも土 居を躍り越えそうに荒れ狂い、宇田貫堀の水門が破れるのは時のまと思われました。村人 達は土俵やむしろで防ぎますが、すさましい水勢にはひとたまりもありません。この土居 が崩れたらもうお終いです。
 水門の上に立つて指図していた六左衛門は、決死の覚悟で村人達に向かい、  『この上は人柱で龍神様にお願いするより他はない.私が飛込んだら上から一度に石や 土を落としてくれ。』と叫ぶなりざんぶと渦巻く淵に飛込みました。
 『だんな様、私もお供します。』と下男の吾平も後を追って飛込みました。  『南無阿弥陀仏』『なむあみだぶつ』村人達は念仏をとなえながら一勢に土や石を投げ 込みました。この時ドーツともの凄い音をたてて流れてきた榎の大木が、水門にひっかか ると、後からあとから沢山の木や家が流れて来て、水門をふさいでしまいました。
 『おい、流れがかわったぞ。』誰かが叫びました.不思議な事に川の流れが変つたので  す。それは下田の掘割がこの大雨で流され、両岸が大きく崩れ、家も木も土砂と一緒に 押流されて来たのでした。
 それから、どれだけの月日が過ぎたか分りません。合戦は終わり、城もなくなりました 。あの淵がどこであったか、知る人もなくなりました。筑後川は、下田から江島まで真直 ぐに流れを変え、北のお宮の下は二面の葭野となりました。やがてそこも耕やされて潟と 呼ばれる立派なたんぼになりました。(今は工場団地)
 城崎から筑後川の岸まで、あの淵のあったと思われる潟の中から、いつ頃からか、榎が 芽を出し見上げる様な大木になりました.村人達は六左衛門と吾平を偲んで、榎の回りに 塚を築き『ろくごさん』とよびました。また城崎土居に『じうごさん』と呼ぶほこらが建 てられ、土居の下を六五郎と言うようになリました。
 毎年、潟で新米がとれると、誰ともなくおむすびやだんごを作って、供えました。そし てほこらの回りにはいつも色とりどりの草花がいっばい咲きました。
 (ろくごさん、榎塚は今の吉武釣り具店前の道路の所、じうごさん、龍宮様は楢津北の   玉垂宮境内に移転して今も祀られています。) 文献:城島文化協会編「城島むかし」

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