大伴部博麻-2 | |||||||
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上陽町の郷土史研究家である 木下義弘さん所有の 大伴部博麻の絵本です。 |
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大伴部博麻の郷土 百済滅亡 百済 日本に救援を求める 斎名天皇 筑紫に大本営 設置 斎名天皇 崩御 大伴部博麻 出征 |
尊朝の郷土 大伴部博麻 (稿 木下義弘さん) 愛国の土、上陽町、上陽の地は北方に標高800米を最高とする水縄山脈が筑後川を北にして東西に約20キロ「筑後国」の背をなし屏風(びょうぶ)を建てたように横たわっている。その南斜面が我郷土大伴部博麻の地であり郷土の郡名の起源は八女県(あがた)である。 斎名帝6年(660) 朝鮮半島は唐軍(もろこしぐん)の勢力が伸び新羅と連合いたし、その勢力によって高句麗(こうくり)及び百済(くだら)は 圧迫を受け危険な体勢になり、敵唐軍は蘇定方(そうていほう)を神丘道行軍大総官に任じて、水陸13万の兵で百済を挟撃、6年7月百済は滅亡したのであります。 斎名帝6年未日百済の義慈王は日本政府に救援を求めたのであります。 明けて7年正月68歳の女帝は百済を再建する為、自ら中大兄皇子と 大海人皇子、二人の子を連れて難波(なには)の海(現在大阪港)より 発(ふなだち)す。 九州に至り筑紫国に着になった女帝は、 朝倉宮(現在甘木市宮野村)の橘広庭(たちばなひろには)を行在所と 決められ、筑紫に大本営を設置されたのであります。 斎名帝7年百済を救う役(いくさ)に援軍を送ることとなったが、 不幸にして斎名天皇は朝倉宮橘広庭に於いて 同年7月24日崩御 (ほうぎょ)す。 筑後国より大化の改新の大宝律令の制定に基き陽東S(やめこおり)では 三個軍団(9千人)の常備兵をおくこととなり農民の男子費用自弁を以て 正丁として20歳より60歳まで徴発されたのである。 上陽唐ゥら一兵卒として大伴金村の私領地で農奴賤民として働いていた 大伴部博麻は百済を再建する役に出征したのです。 氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝児、土師連富杼等とともに百済を救うが為に那の津(博多港)より後将軍阿部引田臣比羅夫大将とし2万7千人の 船団にて発(ふなだちす)。 |