赤司八幡宮

赤司(
あかじ)城(戦国時代)

草野氏の一族赤司氏が、赤司八幡宮(924年草野氏やはた八幡宮を勧請)南側付近一帯に城を築いたが、これ以前にもあり、地形から考えて軍事上の重要な拠点と考えられていた為、めまぐるしく城主が交替していた。家康は関が原の戦いの際、石田光成を生け捕った田中吉政を筑後の国の大名に任命。その弟(家臣という説もある)田中左馬允が赤司城の城主として赴任。17年間在城。後、嗣子なくて滅び、元和7(1621)年有馬豊氏が久留米藩主になると、一国一城の令により、廃城となっていた赤司城の石垣を久留米城修築のため使用した。
栄恩寺に田中左馬允(たなかさまのすけ)のお墓がある


田中左馬允(たなかさまのすけ)の墓
赤司城址の碑


赤司城址図

現在の赤司城跡附近
道路突き当りが赤司八幡宮
外堀が現在の道路になっているところ。
筑後河北誌(柳 勇 著より 転載)




床島堰

床島堰(とこじまぜき)(江戸時代)
江戸時代の筑後川右岸一帯(北野町、大刀洗町、小郡市)は川の水位が低いため、直接水を引くことが不可能であった。
これをみかねた5人の庄屋が立ち上がり、役人の草野又六と共に河堰工事と溝堀工事を行った。
工事は困難を極め、大木巨石を積んでもすぐに流されてしまった。しかし大量の石などを船に詰め、船もろとも川底に沈めることで成功。
幾度かの改良を重ね、今も農業の重要な水利基点としての機能を発揮している。

クリックしてください。当時の床島堰図と水門と水流配分図
筑後河北誌(柳 勇 著)より転載
大堰(おおぜき)神社
大堰
(おおぜき)神社
に功労のあった6人は祭られている。
高山六右衛門(たかやまろくえもん)。。中垣清右衛門(なかがきせいえもん)。秋山新左衛門(あきやましんざえもん)。鹿毛甚右衛門(かげじんえもん)。丸林善左衛門(まるばやしぜんざえもん)。草野又六(くさのまたろく)。

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