ここは役(えんの)行者(ぎょうじゃ)(役(えんの)小角(おずね))が修行されたと伝えられる所で、宝満山への金剛界と、英彦山への胎蔵界との接点にあたる重要な行場で、金胎不二の道場とされていた。ここに着いた修験者たちは峰入りルートのどの宿よりも長い約一週間、修行したという。
『深仙宿由緒』によると、この一帯は沼地で、毒蛇が住み、まわりの住民を苦しめていた。この地に来た役行者が法力によって降伏させたので辰の宿ともいったとか行者の大蛇退治の話が残っている。
修験道関係の遺構・遺蹟としては、行者堂を中心に護摩壇、香精堂、香水池
(閼伽井)などが現存しているが、『筑前国続風土記附録』1789(寛政7)年のさし絵に描かれた柴宿(こもり堂)はすでにないが、現行者堂の後方の一段低い平地あたりにあったと思われる。なお、さし絵にある行者堂の位置は現在地とはなぜか違っている。多分、建て替えられたのだろう。記録によれば、1703(元禄16)年以降、黒田候より藩財をもって営進されるようになったという。 |