深仙宿(行者堂)


ふたたび尾根に出て北へ向かう。大日ヶ岳より国境の尾根筋を伝い、生れ岩一糸ヶ峰一笈釣・貝釣一笙の窟と修行を重ねた修験者たちは、やがて小石原深仙宿に到着する。
 
深仙宿(行者堂)
ここは(えんの)行者(ぎょうじゃ)((えんの)小角(おずね))が修行されたと伝えられる所で、宝満山への金剛界と、英彦山への胎蔵界との接点にあたる重要な行場で、金胎不二の道場とされていた。ここに着いた修験者たちは峰入りルートのどの宿よりも長い約一週間、修行したという。
 『深仙宿由緒』によると、この一帯は沼地で、毒蛇が住み、まわりの住民を苦しめていた。この地に来た役行者が法力によって降伏させたので辰の宿ともいったとか行者の大蛇退治の話が残っている。
 修験道関係の遺構・遺蹟としては、行者堂を中心に護摩壇、香精堂、香水池
(
閼伽井)
などが現存しているが、『筑前国続風土記附録』1789(寛政7)年のさし絵に描かれた柴宿(こもり堂)はすでにないが、現行者堂の後方の一段低い平地あたりにあったと思われる。なお、さし絵にある行者堂の位置は現在地とはなぜか違っている。多分、建て替えられたのだろう。記録によれば、1703(元禄16)年以降、黒田候より藩財をもって営進されるようになったという。

護摩壇 香精堂 香水池(閼伽井)
修験者たちの崇拝物は、行者堂にまつる役行者像と、香精堂の香精童子の碑である。役行者像(県文化財指定)1595(文禄4)8月、肥前国西持院の法印叡盛が奉納したもので、全国的にも珍しい大作である。
 このほか陶器の犬が供えてあるが、皿山の陶工が技芸の上達を祈願し、大願成就のお礼に献上したものという。また堂内の壁には杉板の修行の碑伝や参籠札が81枚残されていた(県文化財指定、又木とともに中央公民館に保存中)
 さて、修験者たちは、この宿で香精水(閼伽井)を汲み、護摩焚きをしたりして修行を続けた。修験者日記によると、周辺の村人はオムスビ、煮しめ、樽酒などを供えてお詣りしたとある。陶製の祭器は中野皿山から調達したとも記されている。別の言い伝えでは、村人は新しいわらじを持ってお参りし、山伏がはき古したわらじと取り替え、その焼灰をせんじて飲むと無病息災のご利益があったという。
 
小 石 原焼

 行者堂前にある石造りの護摩壇(県指定文化財)は、この修験ルート唯一最大のものである。しかし、行が絶えて久しい現在、石組みも変形し、往年の美しさは失われていたが、平成元年に元の姿に復元された。先年、皿山区の方々の努力で何十年ぶりかで護摩焚が復活した。


境目杉(国見太郎) 大王杉(行者の父 霊験杉(行者の母
 行者堂の周辺にある一群の老齢杉を「行者杉」と呼ぶ。古いものは約500年、現存林の大部分は200年から300年を経過している。これらの大杉は鎌倉時代以降、筑前方面より英彦山に入山する修験者たちが奉納植樹したと伝えられるが、英彦山修験道では閼伽井(霊泉)と杉の存在を、特別に重要視したということが記録に見える。
 1832(天保4)年、深仙宿での修行を終えて出発する修験者の日誌に「阿伽水、杉山最念入ノ検見、祖堂閉戸杜拝、六ツ半発宿ス」とある。山伏が杉を重視したのは、杉が50m以上にも達し、樹齢の長い常緑木で、永久不変の象徴であり、霊魂が宿ると信じたからだろう。若杉の葉を宿の床に敷いて浄化したり、護摩焚きに使ったり、神聖視されていたことがうかがわれる。そうした山伏たちの信仰と努力のおかげで、むやみに切られることもなく、このような巨木を現在も見ることができるのである。

行者杉と山伏
 行者堂を出発した山伏の一行がめざすのは兄弟嶽(二股山)である。境目石(国境石)づたいに登って札を打ち、太鼓宿(所在不明)を経て不動宿(不動岩)に入る。
 不動岩の頂上には不動明王を祀った石祠がある。北側は目もくらむ絶壁。山伏たちは、ここで胎蔵界最後の行として護摩焚きをしたという。これは真正面に見える英彦山宿坊に対する不動宿出発の合図でもあった。
 深仙宿で皿山衆の見舞いがあったように、不動宿でも木地師(木工職人)が行中見舞いに訪問する慣例があつた。木製の祭具調達に関係があったのかもしれない。 不動宿から豊前と筑前境の分水嶺を進むと金剛坂に至る。ここからいよいよ金剛界の世界に入る。さらに筑前嘉麻郡(現嘉穂郡)と筑前上座郡(現朝倉郡)の境を通って馬見山一宝満山へと連なる。
 馬見山に登る途中、小杉という所にハンドウ仏とよばれる石の地蔵がある。修行中に病気で倒れた山伏を祀ったものである。行に参加した若い山伏のうち難行苦行のために倒れ、峰入りが遂行できない者は、生きながらに「石小積」の法によって埋葬されたのである。そのような石小積みの塚が、峰入りの道に沿って多数存在しているという。きびしかった修験の道も、今は九州自然歩道の一部として登山者たちに親しまれでる。 

境目石(国境石) ハンドウ仏

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