|
|
|
行 者 杉 |
行者杉の森に入ると、「従是西筑前領」「従是東豊前小倉領」と刻まれた古い石碑が背中合わせに立っている。巨大な行者杉群を囲うかのように5mから10mの間隔で折れ曲がりながら立ち続いている。この様子を見ると、なにやらこの美林をめぐって両国きびしい経緯があったのではないかとの思いを抱かせる。
『筑前国続風土記拾遺』(青柳種信編、1830)によれば、1700(元禄13)年、「豊前・筑前両国の民、観音堂あるところの国境を争いしが、終に争いの地を等分に分けて解決した」と記されている。もっと詳しい事情にっいては、『黒田新続家譜』(巻11)に記録されているので要点のみ紹介したい。
戦国の世が終わり、徳川幕府によって天下は統一された。諸大名の領土は将軍の名によって安堵されたが、最初から境界のはっきりしない場所が多かったので、幕府は1644(正保元)年、全国の大名に命じて、各領内絵図を作らせ、提出させた。これで幕府は天下の状態を居ながらに知ることができる反面、絵図作製のために行なった測量によって、藩境のあやふやだった個所がはっきりして、逆に全国諸大名間の境界争いを引き起こすことになった。そこで幕府は、1697(元禄10)年、正保国絵図の大改定を命じ、国・郡境に未解決の場所を残さないよう隣接大名間の談合による確認を義務づけたのである。
当時、筑前福岡藩は隣接各藩との境に、小石原・豊前境をはじめ数ヵ所の未解決地を抱えていた。藩庁では境目奉行ら専従の役人を任命し、さっそく調整に当たらせた。豊前藩主小笠原右近将監と筑前藩主黒田氏は親戚関係だったこともあり、両国農民間でできるだけ穏便に話し合い、解決するよう約束させた上で作業にはいった。
まず、小石原、長谷両村の農民代表が国境付近で出会い、相談しながら標識の杭を立てていったが、どうしても相譲らない場所が出てきた。
代表がこまごまと述べた口上書を見ると、意見の対立した第一の場所は杉切株と観音堂の間である。古来より議論のあった所らしく、長谷村は観音堂までの、小石原村は杉切株までの領有を主張して譲らない。主張の根拠は、どちらも「峯分水走」「峠分水走」で同じといえるが、杉切株一観音堂付近の地形が平坦で、はっきりした嶺をなしていなかったのが原因ではなかろうか。
|
|
|
杉切株 |
|
観音堂 |
|
|
|
境 目 杉 |
第二の場所は、二股山を見通しての境界位置だが、長谷側の言い分は小石原側の二谷さし越えを非難し、小石原側は昔から炭を焼き、杓子木や薪を伐って占有してきたことを主張している。
1700(元禄13)年11月、他の境界はすべて解決したのに小石原・長谷境だけが残る。11月22日、両国の役人、村代表は宿平観音堂付近で出会い、現地を検分しながら決定していった。その夜は筑前側の用意した小屋で、なごやかな雰囲気のうちに交渉はようやくまとまる。
観音堂付近は等分する。もし観音堂が筑前の内にはいれば豊前の内に引き取る。二股山は双方の主張をもとに境を決定する。翌23日から26日まで両方の役人たちは実地に歩いて慎重に標識を立て、27日に終了し、証文に捺印する。難航した国境紛争は、ようやく解決した。両藩の殿様は円満解決をよろこび、双方の役人に褒美をたまわる。
翌春、両藩より出て境石を立てる。以来今日まで300年、風雪に耐えて両国の友好を守る。刻まれた文字は、いずれも名のある書家の筆跡であろうが、いつ見ても力強く、風格を失わない。惜しむらくは近年の荒廃である。歴史の重みを再認識し、いっまでも守っていきたいものである。 |