日吉神社御由緒 天平十三年(741年)聖武天皇詔勅により諸国に国分寺を造らしむ、〔神体釈迦を一基)当時は農作物豊でなく疫病流行し人民か苦しんでいた。筑後国分寺と称す.〔続日本紀天平勝宝八年十二月二十日条に肥前・肥後・豊後・日向.の各国分寺と共にその名か見える) 承平二年(932年)宮一品兼基親王山王宮を違立す=これか当地に日吉神社か鎮座された始めである、. 神社は筑後国分寺の鎮守神として建立された=永禄七年(1565年)大友宗鱗か策後に進入し約二十年間に及び駐留する.、 この間、天正七年〔1579年)から七年の間龍造寺及び鍋島の軍か数回三旦り筑後に進入し大友の軍と戦い、この戦いで筑後国分寺も山王宮も兵火に失せたか、後の慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの三十二年後寛永九年(1632年11月2日江戸時代初期)山王二十一社建立される. 御神躰は高さ一尺五寸幅約八寸の木牌に二十一梵字か三行に墨書されているコ 御神鉢ノ裏面ノ銘左ノ如シ 奉再興筑後國三井郡国分村 宗廟山王弐一社神躰 右運懇志旨趣者國分彌左衛門尉同拾右衛門同清助 子孫繁栄息災延寿家門安全村中福貴 春属康嘩諸人快楽如意圓満之処如件 千時寛永壬申年十一月二日願主國分拾右衛門尉 |
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表面弐一ヶの梵字は下八王子社・王子社・早尾社・大行事社・三宮・客人社・十禅師社・牛御子社・小十禅師社.気比社.岩滝社・悪王子社・大宮竈殿社・二宮竈殿社・山末社・の比叡山山王弐一社を表すものである.。 総称山王弐一社山王権現祭神次ぎの如とし 虚空蔵菩薩・文珠菩薩・不動明王・毘沙門天・普賢菩薩・吉祥天・弥陀如来・釈迦如来・薬師如来・千手観音・如意輪観音.十一面観音・地蔵菩薩・大威徳明王・龍樹菩薩・聖観音・弁才天・愛染明王・大日如来(二社)・摩利支天.明治元年三月神仏分離令布告せられ、この御神躰は仏教的要素であるから山王社の称と共に神社より取り除かれ、神社は純枠に日吉神社といった.。 寛延四年一七五}年神会座を組織し座員七十九名を三十九組にわけ各順番に従い笹年一組か祭礼を引き受ける。 本当(とうもと)先当(とうさき)来当(とうらい) 明治四十四年十一月二十一日に神会座は神前七五三しめ縄張りを除く外従来神前に務めし事項は全部廃止される。 明治四十四年四月神社整理により國分村内八社を当日吉神社に合併し六神体を奉祀している、〕大山咋命二柱.小彦名命.神功皇后・仁徳天皇・菅原道真公・安徳天皇 十三塚神社御由緒明治四士年創建(日吉神社境内) 明治二十九年歩兵第四十八連隊(現自衛隊)の創建されるまで、永く西国緒大名参勤交代道路に面し中世以前(南北朝時代)又は天正の乱の古墳群の一つとして特にこの塚を通る大名は乗物を下り共は槍を伏せて通ったと言い伝えられている。この大古墳を地ならしして明治二十九年歩兵四十八連隊か創建され、塚の上には時の第三大隊第九中隊か位置することになり隊舎新設の中途同兵舎だけ突風に見舞われ倒壊し又火災が起こり夢枕に不斗陣呪し不慮の事故が続き、遂に明治四十一年七月には同兵舎からは腸チフスが発生し他兵舎にも万延し部隊は全員熊本県黒石原及ぴ長崎県大野原に非難の止むなしに至りかくて七月十七日に日渡の正福寺において時の砿崎富太郎大佐と国分町有志か相計り一週間の病気平癒の祈願をし先に建設時掘り出した甲冑・刀剣類を取り集め国分町日吉神社境内に十三塚神社として創建した。 |