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筑後国一の宮。延喜式内名神大社。旧国幣大社。社地は高良山の西の山腹にあり、いわ
ゆる「神籠石」の列石に囲まれ、筑紫平野を一望に収めることができる。祭神は高良玉垂命
・八幡大神・住吉大神。履中天皇元年((400)の創建と伝えるが、正史上の初見は延暦14年
(795)である。同年従五位下に叙されてから、事あるごとに神階を進め、弘仁9年(818)名神
に列し、寛平9年(897)には正一位を授けられた。主神高良玉垂命については諸説があり、
民間では、武内宿祢とする信仰が根強いが、『肥前国風土記』には、景行天皇が高羅(高良) 
行宮にあって、肥筑の地方を経営したことが見えるので、同帝の子孫を祢する古代豪族水沼
君の祖先神であり同時に筑紫平野の国魂神として想定された神格であろう。

しかし、この神が神功皇后の三韓出兵を助けたというのは、古伝承にもとづくものと思われる。
八幡神と同様早くから仏教と習合し、「護国神通高良大菩薩」と称された。国衙の崇敬をうけて
勢力を拡大した「高良玉垂命神社」は、平安時代の後半に全盛期を迎えるが、12世紀の末源
平の争乱で荒廃、ほどなく後白河法皇の命をうけた醍醐寺座主勝賢によって復興される。2度
にわたる蒙古襲来の後、鎌倉幕府も鎮西五社の随一として厚く尊崇した。南北朝時代になると、
その優れた地の利から全山要塞と化し、南北両勢力の攻防戦が、この山をめぐってしばしば展
開された。その間にあって、征西将軍宮懐良親王の厚い尊信と庇護を得ている。

戦国時代には社家(大祝鏡山氏・大宮司宗崎氏)社僧(座主丹波氏)も大友幕下の武将として
争乱に明けくれたが、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐の際、神領を没収され、急速に衰
えた。以後歴代領主の庇護のもとに、神領1000石を与えられ、明治維新に至った。明治2年
(1869)廃仏毀釈を行なって座主院以下を廃止。同4年高良神社と改称して国幣中社に列し、
犬正4年(1915)国幣大社に昇格した(昭和22年社格廃止により、高良大社と改称)。

山下の石造大鳥居は、承応4年(1655)2代藩主有馬忠頼の寄進。本殿・幣殿・拝殿は万治3年
(1660)3代藩主有馬頼利の寄進で、杜蔵の紙本墨書平家物語(覚一本)と共に国の重要文化財。
高良大社文書10巻1冊、絹本著色高良大社縁起(画縁起)2幅は県指定文化財。

社有地のほとんどは「史跡高良山神籠石」として国の史跡指定を受けている。数多い摂末社の
うち、水分神社(奥の院)、大学稲荷神社、琴平神社には格別の信仰が寄せられ、御井(三井)の
地名起源と伝える味水御井神社(朝妻清水)、芭蕉を祀る桃青霊神社も著名である。

なお西麓御井町の高良下宮社・北麓山川町の高良御子神社(王子宮)は、元来本社と一体の
ものであるが、近世神領を離れたため、それぞれの地域の氏神とされて今日に至っている

高良大社