八院合戦

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、柳川藩主 立花宗茂と佐賀藩 鍋島勝茂も石田三成
方西軍に加わっていた。
石田三成方が負けると、石田方に味方した大将達は捕らえられ斬首したり島流しされたり
していたが、立花は柳川に逃げ帰った。
  鍋島は勝茂の父、直茂が徳川家康と通じていたので、事情を話し我が子の許しを願った。
諸説あるようですが、許しの条件に、家康が、「立花宗茂を討て」と言ったらしい。
そこで、鍋島直茂、勝茂親子は、柳川の立花宗茂を攻める事になった。
そして、慶長5年10月江上(城島)付近で激戦する事になった。
詳しくは、次ページ又は大木町誌(第2章4節)を見て下さい。








立花吉衛門親子の墓碑
ここは、円通庵の廃寺跡。
八院合戦で戦死した立花右衛門太夫源鎮実、
同次男立花善次郎親雄が葬られている。
十時新五郎の墓碑
立花家臣十時新新五郎惟久は八院合戦の時、
五反田方面の激戦で戦死した。
時に16才の若武者だったらしい。
柳川の立花軍はこの橋で多くが戦死したと言う地獄橋の場所今はこのように新設道路の下になっている。



八院合戦で戦死した佐賀藩
と柳川藩の人を祀る祠









江上・八院合戦               三根町  松 永 辰 男

  石田三成は、家康討伐を計画し、毛利輝元・宇喜多秀家と共に大坂に兵を集め、毛利輝元を頭とする西軍が編成され、家康に対し、宣戦を布告した。これに対して家康も譜代の家臣を中心に、加藤・伊達・最上・黒田らの東軍と豊臣方の石田三成・毛利輝元・宇喜多・島津・小西・小早川・上杉・佐竹らの西軍と慶長五年(一六〇〇)九月十五日、関ケ原で戦い、始めは、西方が優勢にみえたが、西方についていた小早川・吉川らが家康方についた為、東軍は、八時間の激戦の末、西軍を破ったのである。関ケ原の戦にさきだって豊臣秀頼の命を受けた立花宗茂は、二千五百の兵を率いて柳川から東上し筑紫廣門、毛利秀包、秀秋と共に毛利輝元の西軍に味方して大津城を攻めたが、しかし、関ケ原で西軍が負けたと知るや、同じ西軍の島津義久とともに兵を集めて敵の追撃を退けながら京都を経て、大坂に帰り、九月十七日舟で九州柳川に帰った。
  西軍の総大将石田三成は、捕えられ、京都三条川原で斬首になった。石田に味方した西軍の大将達も討死したり斬首されたり島流しになつたりしたが、徳川家康にとって、立花宗茂が生きて柳川に帰った事は、心配のもとであつた。
  また、鍋島藩の勝茂公も西軍に味方して徳川方の伏見城を攻めたので、家康公からのおとがめを覚悟していたが、父、直茂公が真意を家康公に話し、勝茂の軽挙を詫びて謝った。家康公もとより直茂公を識り、その使者成富の人柄も知っており、勝茂公の軽挙を強くはとがめず、首尾は、一応は円満に解決したかに見えたが、家康公は、一筋縄では納まらず、結局立花宗茂を討つことを条件に罪を許された。そこで鍋島 直茂公と勝茂公は、ともに肥前の総力をあげて立花を討つ為三万二千の大軍を集めて十月十四日、佐賀を二手に分かれて出陣した。
  ついで黒田如水(孝高)も、豊前から五千の兵を率いて、久留米および柳川に向かい、十月二十日には、水田(筑後市)に陣した。鍋島直茂・勝茂らが、立花宗茂の居城柳川を討つには、筑後川にある二つの渡のいずれかを渡らねばならなかった。下流にある榎津の渡は、立花が備えているに違いないと考えた直茂は、上流にある住吉(今の久留米市)の渡を渡ることに決した。
  直茂公の軍勢は背振山添を東に向けて進出し、夕刻栗城に集結し、近くの大法寺で法要があつていたので『これ幸いなり』と言って住職を呼んで戦勝祈願をさせた。翌朝十六日、干陸の渡しを通り毛利の居城を攻め込んだが、毛利藩は関ケ原の合戦よりまだ帰城しておらず、簡単に落城した。
  勝茂公の軍勢は佐賀平野の中心部を東に向けて進出し、筑後との国境の天建寺に集結し、勝茂公は宮村にある矢俣八幡神社に参詣して戦勝祈願と同時に徳川と鍋島の和合を祈願された。翌朝十六日、市場の渡しを通り海津城を攻め落し、翌十七日大善寺にて直茂勢と合流し、宗茂を討つ為の談合をした。
  一方、立花宗茂方では、徳川家康の命令で鍋島直茂・勝茂が大軍を発して攻めてくるとの知らせに立花宗茂は、柳川城内に全家臣を集めて対策を協議した。宗茂は天下に並ぶものなき知勇すぐれた名将なので自ら先頭に立ち決戦しようと思つたが、上席家老の立花三河守が、『関ケ原の合戦で天下の形勢は決ったのでこれ以上家康をおこらせぬがよい。然し、領地に攻め込まれたのを防がぬは武士の恥である。鍋島勢と の戦いは我々家来に任せて下さい。』と言ってとめたので、宗茂も承知して次席家老小野和泉守を総大将として鍋島軍と決戦する事になった。
  十六日鍋島直茂の使者成富兵庫が江上八院決戦の申し入れをしたので宗茂は早速軍議を開いて、この申し入れを受け入れた。宗茂は、上席家老立花三河守の意見を入れて、自分は城を出ない事にし、総大将は次席家老小野和泉守一千余騎で第一陣となり、二陣は一族立花右衝門大夫七百騎、三陣は矢島右助他一千余騎、馬廻り安東伊之助他一千余騎、榎津舟手の護りに四千、城の護りに三河守以下四千、その他一千余、総計一万三千の総力で防備を固めた。
  十九日朝、鍋島軍は城島城に迫り、一勢に鉄砲を打ち込み城内に突入した処、城島城の城番立花吉右衛門は、酒見城、筑後川沿岸警備の為留守であったため、簡単に落城した。一方、立花吉右萄門は、城島城危しとの急使がきたので急いで城島へ向ったが、榎津にやってくると、鍋島の兵三千ばかりが、前面十町の距離にいた。吉右衝門は軽兵(軽卒)を放って、鍋島の兵を攻撃して二十余人を倒した。
  十月二十日の夜が明けた。鍋島軍は三万二千の大軍を十二陣に分け、犬塚、江上、青木から一気に八院へとおしよせた。立花軍は、二十日の朝早く、小野和泉、立花右衝門太夫、安東五郎右衛門、安東津之助、石松安兵衝および千手六之允、そのほか立花三太夫、新田平右萄門(足軽頭)など軍勢一千三百余人をつけ五隊に編成して江上表へ押し出し、薦原(中木室と下木佐木の村境)に陣して肥前軍に当らせた。
  立花吉右衝門は三百余人を率いて水田口(筑後市)へ駈け向つた。これは黒田如水が、水田口から押してくるということであったからである。
  柳川城兵が江上表に駈けつけたところ、小野和泉の与力の松隈小源が、小野和泉の使者と偽わって、安東五郎右衛門の所に行き「早く合戦を始められよ。もし大敵に恐れるならば、後隊と入れ替えられる。」と言った。この言葉を聞くと安東五郎右衛門、石松安兵衛は兵を繰り出し、敵の先鋒三千人ばかりの中へ突っ掛け、肥前勢を追い立てた。第三陣に将として出陣した立花三太夫は、これを見て出し抜かれたと思って(石松・安東の軍が敗れるを見てともいう)真一文字に突っ掛かり、敵の三隊を追い散らし、一ノ橋から二ノ橋、三ノ橋まで切り崩した。肥前の第二陣の後藤茂綱の軍勢は、鉄砲三百挺でつるべ打ちに撃ちかけ、柳川勢で倒れる者の数がわからぬ程であつた。このとき立花三太夫は、馬上に長身の槍をしごき阿修羅のように駈け回り、ただ一騎敵軍を突き抜けて敵味方を驚かせ、鍋島平五郎がいる五反田の本陣へ駈け込み、息をもつかせず、攻め寄せた。その激しさは「先鋒鍋島茂忠も危うかった。」と鍋島方にも記録されている程であつた。
  肥前勢が立花三太夫を取り巻いているとき鍋島の家来、今泉軍助は、鉄砲で三太夫を撃ち落し、軍助の従卒衛藤四郎右衛門が駈け寄って三太夫の首を取った。また、三太夫は三の橋まで進んだところ橋が切り落されていたので、堀を飛び越えようと馬に一鞭加えたところ、馬が疲れていたのか、向うの堀岸を踏みかけ、馬もろとも堀に落ち敵兵が群がってきて三太夫を討ち取ったともいう。三太夫ときに二十五歳であっ た。小野和泉は、先手(先陣)の戦いのありさまを聞くと、家来を引き連れて出馬し先手を救おうとしたが、横矢に射られ、小野和泉の家来は進むことができず、立花右衛門(鎮實)・次男善次郎親雄(十七歳)・新田平右衛門らは後陣にひかえていたが、これも先手を救うために、横合から攻めかけ、敵を三町ばかり突き崩した。しかし、立花右衛門およびその子善次郎も後を断たれて戦死した。
  勝ち誇った肥前軍は、小野和泉の陣にどうと攻め寄せ、小野和泉をはじめ、その軍勢は奮戦したが、十四、五人になるほどに討ち取られた。小野和泉も左の乳の下を鉄砲に撃ち抜かれ、肢にも矢傷を受け戦うことができなくなり、戦死はまちがいないと思われた。始めは、優勢にみえた立花軍だつたが、なに分三千と三万二千では兵力が違いすぎた。鍋島軍の壁は厚く安東・石松等、立花軍の勇士は、ばたばたと討死していった。
  加藤清正は立花宗茂とは親交が深くさきの朝鮮の役では宗茂に助けられた恩もあるのでどうかして宗茂を助けたいと思い黒田如水と相談して鍋島直茂に柳川城総攻撃をやめるようにすすめた。そして、柳川城に使をやって自分が家康公にとりなしをするから、開城するように申し入れ、家来のゆくすえや宗茂の身柄は、清正がみると真心をもって説得したので宗茂も承知した。かかる折宗茂がかねて大坂につかわしていた老臣右衛門が帰ってきて家康の内意を伝えたので開城を決意した。
  この戦乱の結果、鍋島藩は家康公に領土を認められ、又家康公との和合も進展していったのであった。その後鍋島藩は、今までの度々の戦の為藩は財政的に窮し、土地は荒れ藩民もまた窮乏にあえいでいた。そこで成富は直茂公に治山治水、新田開発の必要性を説き許可を得て事業に着手すると第一にたびかさなる筑後川の洪水を防ぐため、干陸から、浜口まで十二キロメートルに渡る土居を築いた。築くにあたり、さきの立花攻めの際戦勝祈願をした矢俣八幡神社が洪水のたびに祠堂が流れて漂没することがたびたびであったので、干陸士居の東側にあった八幡神社を現在の地点に移した。そして、この八幡神社には、八院合戦の際、戦勝祈願したときの文書と成富兵庫茂安の直筆の文書が現在も残っている。
                              「筑後郷土史研究会誌 第16号」より。