幸若舞と蒲池氏

 蒲池氏に筆を進めるに先きだって、同氏が活躍した、室町時代の農村風景を一瞥しておきます。これまで上代の事項について述べて来ましたが、これから急転して中世室町時代に移ります。どうして、飛鳥,奈良、平安時代を素通りしたかといいますと、六世紀には仏教・儒教が伝来して日本文化に深い影響を与えました。が、仏教及び仏教文化(声明など)は貴族が独占して大衆・農民には浸透することはなかったのです。          本来、文化とは貴族はもとより大衆全体を捲き込んで行われてこそ呼べるものといわれます。したがって、農民・武士好みの幸若舞研究には、それらの時代を素通りしても、敢えて怠慢の譲を受けることはないと思ったからです。室町時代も降って応仁の乱(一四六七−七七)が契機となって、百年の戦乱が続くいわゆる戦国時代が訪れました。面白いことに上層の豪族等は相互の問での戦いに明け暮れていましたが農民はかってない由、独立の思想がみなぎり、輝くばかりの農民社会が展開されていました。筑後平野では蒲池氏を中核として、再生産に励むとともに開拓による耕地拡大などで、経済的にも益々豊かな生活が営まれ、能・茶道・いけ花など本的文化も淫透し、農民の生活は空前絶後の生き生さとしたものだったとその頃、筑後地方での蒲池氏は大友氏の旗頭として重きをなしていたのです。」1501年蒲池氏は柳川城を出城とし、さらに1504年には蒲池親久の次男親廣を山下城に分家させております。幸若舞を持ってきた大沢次助の招聘で主役を果した蒲池鎮連は親廣の孫になります。そんなことで、筑後地方の農村は蒲池氏を盟主としてまとまり安泰に過していたと推定できます。その頃、蒲池氏による多くの神社・仏閣の創建、瀬高では松僚堰(本来は蒲池堰という)或は山川町の蒲池山堤も蒲池氏が関係していたでしょう。その他広範な干拓事業も手掛けていたのです。しかし、農民が解放されて我が世の春を謳歌できたのも百年程で、近世に至ると再び封建制度のくびきが待ち受けていたのです。明治時代になると、名目上は総ての国民が自由となりましたが、農民の生活は決して楽にはなりませんでした。それでは世界でトップクラスの金満国家になった現在の日本における筑後農村は、いかに推移しているのでしょうか。筑後農村の本質を、私の浅薄な常識で、しかも表面をなで廻した程度で結論ずけることは慎まねばなりません。しかし、米の貿易自由化をはじめ、スーパーの売場が野菜、肉、果物等の外国品に占領されている衰れな姿、農家の後継者難、嫁探しの異状性、集落内では廃屋の漸増などからして、農村は既に壊滅寸前の感を抱きます。農民はまた、無気力となり呆然として、ただ時の移ろいに身を委ねているかに見えるのです。弥生時代から今日までの農村史の中でも現在の農村風景が最も悲惨な希望のない状態ではないでしょうか。筑後のわたし達は、日に日に荒廃して行く農村をただ挨手傍観して日を送ることは許されません。絶望的な逆境を克して聖なる芸術幸若舞と郷土を守り続けて来た先人を想起して立ち上がろうではありませんか。農村が崩壊した国家・民族の悲しい運命は厳粛にも歴史が明示しております。農村の現状の非を政府や政治家になすりつけるのみでは無意味です。政治家も我々が選出したのですから、わたし達は自らに強い反省の鞭を当て、真剣になって、農村再興の方途を探しましょう。

大沢自助と蒲池鎮連の出合い

幸若舞が筑後地方に流布するに至った端緒を探ねるに、1582年京都において朝廷警固の任に就いていた、山下城主蒲池鎮連と越前出身で幸若舞の達人大沢自助幸次の出合いというべきです。二人は京都において幾度かの出合いを重ねる中で、鎮連の懇ろな招請に応じた自助幸次は山下城で幸若舞の伝授を開始することになりました。ところで、当時、関西地方では戦国時代の終末期ではありましたが、明知光秀による織田信長を亡ぼした本能寺の変、続いて光秀が秀吉に討たれた山崎の合戦も、彼等二人の出合と同年でした。そのように戦乱はまだあちこちに燻っていたのでした。筑後地方でも、大友、竜造寺・菊地・島津・立花氏などの大豪族の中に混って蒲池・田尻・三池などの地方出身の中・小豪族の活躍による戦乱は職烈を極めていたのです。そんな社会の雲行を、大沢自助は既に掴んでいた筈です。それでは、自助幸次が九州のしかも辺邸な山下城に降って幸若舞の伝授を決断するに至った動機は一体いかなるものであったでしょうか。芸道に没頭する大沢自助は、芸人として、応仁の乱で荒廃に帰した京都を諦め、九州の更地で存分な活躍すべく再出発を念じたのでしょうか。それとも蒲池鎮連が提示した破格の経済的、社会的待遇にひかれたのでしょうか。そんなことも自助の心の奥底にひそんでいたかも分りません。が本筋の心根はそんな低次元の待遇などではないでしょう。それは、蒲池鎮連んの優しく誠実・素朴で豊かな人間性に応えたものと確信します。京都、越前での交遊の中で培った二人の間の深い信頼感に間違いありません。蒲池鎮連や有明文仏圏の人びとの人物像については、後で西欧から日本に波来したキリシタン宣教師の日本人観を参考にして貰いますが、取り敢えずこゝでも一言します。宣教師らは日本人の礼儀正しく、素朴で上品さを絶讃し心酔したのでした。大沢自助も彼等宣教師と相似て、応仁の乱後、焼け野原と化して盗賊の巣窟となり果てた京都、爛熟を過ぎた退廃にまみれた関西地方の社会からみた鎮連の人物像が余程新鮮に映じたでしょう。また、鎮連を窓口としてみた九州の土地が楽園の別天地と想像されたのではないでしょうか。

最後に、蒲池氏の影響を受けた瀬高周辺の一般農村の芸能事情を若干紹介しましょう。
「大江の幸若舞−−幸若舞保存会編」の中で佐々木哲哉氏の「その時点(1811)で幸若舞が大江村のみならず、下妻郡北長田・南長田村あたりにも存在していたと伝えている。この記事はまことに貴重なものといわねばなるまい。「丈夫がかり、何がかり」の″かかり″は他の用例からみて、″流儀″ の意とでも解すべきであろうから、はっきり″何々流″とまでは称さなくても、いくつかの分派があったということが想像される。″長田″の地名本系掬・別系図のいずれにも現われていないが、小田村・草場村・溝口村・山下町等に近接した場所である」との言があります。
 佐々木氏は当時の農村における幸若舞の様子を正しく伝えておられるようです。というのは北長田(矢部川の北岸)は溝口村の西方で隣村です。溝口村にある福王寺が紙漉きと幸若舞伝習の拠点でしたから、最初に北長田に伝わるのは当然です。さらに北長田の矢部川対岸にある南長田(現在の上長田)は、産土神が両村とも「老松宮」で同じ、神事についても両村は探い関係にあったらしく、幸若舞が北長田から南長田へ伝わるのも当然です。さらに現在の下長田は上長田の娘村ですから殆んど同時に伝わったのでしょう。
 ところで、下長田では現在も、毎年御田植の祭事が営まれていますが、その時の歌詞・少年等の動きは幸若舞の影響を受けたものとみています。女山・海津の御田植祭事における歌詞なども同様です。さらに下長田で最近まで続いている「女相撲」の素朴な踊りの歌詞も幸若舞からの発想でしょう。
 下長田まで延びた幸若舞が上坂田、大塚などには容易に伝承されたと思います○それは両村が同じ老松宮の産土神だからです。その後は朝日、堤、松延、大江と伝わって行ったと思います。これらの村も天満宮を産土神としていて異和感が少なかったからです。大江と長田の間で不思議と思われることがあります。それは大江地区に『長田(役場の地籍図)』の地名があることです。この地名の起名は、室町時代よりさらに、さかのぼると思いますが、両村の問には何か深い関係があって、幸若舞伝承にも影響を及ぼしたのではないかと思います。大江の両隣の大木村は嘗て大木氏が居城し蒲池一族の村でしたが、蒲池氏威亡によって、産土神は八幡系統と変更され、幸若舞の受入れは許されなかったのです。大木村南方、海津は阿蘇神社が産土神ですが、蒲池鎮連が一時隠棲していたので幸若舞が流布していたでしょう。阿蘇神社の御田植祭事の歌詞などは、下長田の祭事と殆んど同じ。態本県の南関町では熱心な幸若舞愛好家がいたでしょう。幸若舞の家元の争奪戦が、大江との問に行われた程、達人もいたのですから。余談になりますが、「肥後琵琶」の最後の伝承者である山鹿良之さんは南関町出身です。そんなことから、かって幸若舞が行われた芸能の町としての余韻ではないかと考えたりしました。ところで佐々木哲哉氏は、小田村重富次郎直元が幸若舞を継いで、大江の松尾平三郎増竣へ相萌されたとされています。が、一方において、長田から上い坂田、大塚などを経て大江に到達したルートも考えておくべきです。
 溝口の矢部川対岸の唐尾・小田・山中などに幸若舞が流布していたのは勿論ですが、明治・大正時代に出現していた劇一団唐尾座もその影響があったのではないでしょうか。

 つまり、瀬高町の中で、旧東山村と大江村一画の農村では幸若舞をはじめ、いろいろな芸能が、盛んに桃の収穫祭で楽しまれていたと思います。こうしたことで、大江の周辺農村は心ゆたかにして、河川、海による交通至便、稲作の宝摩で経済に恵まれ、幸若舞を永続させる厚みのある社会が存在していたのでした。