瀬高町 現 況 (世帯・人口は平成14年4月1日の調査による) 「成立」昭和31年(1956)9月30日、瀬高町・東山村が合併して成立。 「面積」38.13? 「世帯」7,591 「人口」2万4,930 「地形図」久留米・山鹿・佐賀・大牟田 「町の花」サザンカ、アヤメ 「町の木」クス、モクセイ 「町役場」〒835・0023 福岡県山門郡瀬高町大字小川5番地 「町名の由来」古代以来の荘園名による。 立 地 矢部川のほとり 県南西部、筑後平野の南部に位置し、東は八女郡立花町、南は山川町・西は大和町・三橋町、北は筑後市・八女市に接する。 町域の大部分が1級河川矢部川の沖積平野から成る肥沃な穀倉地帯で、東部に筑肥山地の西端部にあたる清水(きよみず)断層崖が南北に連なる。 瀬高の集落は矢部川の自然堤防上に発達し、酒造業の町として知られ、また、周辺部では蔬菜類を主とする園芸農業が盛んである。 町の東部を九州縦貫自動車道が縦断する。国道209号が南北に、国道403号が東西に通り、西部で交差している。両道には数本の県道が接続する。鉄道は鹿児島本線が南北に通じ、瀬高・南瀬高の2駅がある。 沿 革 「原始」 先史時代の遺跡 東部山地の清水山小谷遺跡から、昭和37年に礫器・尖頭器など約50点余の旧石器が発見されている。縄文時代の遺跡としては、上坂田の中園遺跡があり、晩期に属する深鉢形土器や注口土器が出土している。また昭和47年に九州縦貫自動車道の建設に際して発見された大道端遺跡では、最下層に縄文中期の文化層が確認されている。 弥生時代には矢部川沖積地を基盤として広範な農耕集落が発達したと思われ、上坂田の定覚遺跡や50余基の甕棺墓と住居址および銅鉾片・小型銅鏡などを出土した金栗の鉾田遺跡があり、女山(ぞやま)の産女谷(うめがたに)からは弥生後期の銅鉾2本が発見されている。 山門県と田油津媛 古墳分布は町内だけで約30カ所に及び、多くは女山古墳群など東部山地の山腹に群集または点在する後期横穴式古墳であるが、車塚(山門)・蜘蛛塚(大草)・権現塚(坂田)などは、平野部に立地する独立墳で、族長級の墳墓と考えられる。 また、大道端遺跡は、古墳時代後期段階の文化層を基底とし、推計177戸分の住居址群、3万点に及ぶ土師器・須恵器・漁具(網・土錘)、フイゴの羽口、鉄滓 などのおびただしい出土品は、古墳を築造した人々の実生活の様相を如実に示している。 「日本書記」の神功皇后紀には、皇后に反抗して誅伐された山門県の土蜘蛛田油津媛のことが見え、古代国家形成期に大和の勢力によって征服を受けた一地方国家の存在を推測させる。山門郡は、古くから邪馬台国九州説の候補地の一つとして知られるが、当町におけるこうした考古学的所見は、しばしば邪馬台国山門郡説の素材となっている。また、女山二は、北部九州特有の巨石遺構である神龍石があり、国指定の史跡になっている。 「古代」 明瞭な条理の跡 令制下の当町域は、大部分が山門郡に属し、北端部が一部上妻郡と下妻郡に属した。「和名抄」には、山門郡に大神(おおが)・山門・草壁・鷹尾・大江の5郷をあげているが、現知名に比定できるのは当町の大江と大和町の鷹尾のみである。旧山門村・大神村は明治の新村名で、「和名抄」郷との関係については確証はなく、天保年間(1830〜44)成立の「太宰管内志」も「此郷(大神・山門・草壁)今は廃れてその名伝ハらず」としている。 班田収受法の実施に伴い、広大な矢部川沖積平野をひかえた当地方には、大規模な条理制が施行された。現在、確認される遺構は、中西部一帯の山門郡条理と北部本郷地区の下妻郡条理、および南東部に顕著な本吉地区条理の3ブロックに大別される。小川にある金栗遺跡(県史跡)は弥生後期から条理施行期にかけての集落遺構で、中央に井戸を配し、周辺から土師器・須恵器のほか、奈良期のものと思われる軒丸瓦を出土している。また、本吉条理の下層から発見された大道端住居址群は、条理制以前の自然村落が、律令国家による一大区画整理によって廃絶していった状況を端的に示している。 小河荘と瀬高荘 平安期になると、当地域にも各所に荘園が成立する。1つは宇佐八幡宮領の小河荘、1つは太宰大弐藤原俊忠家領として成立した瀬高荘である。小河荘は当町中央部の小川一帯にあたると思われる。成立時期は不明であるが、宇佐宮本御荘18カ所の1つで、本荘20町は大菩薩御位田から出発した荘園である。別名として上松延名・下松延名(旧松延村)80町と三深名(上妻郡)8町を付属していたが、三深名はのちに独立して御深荘となった。瀬高荘は、その領域が当町・大和町・三橋町にまたがる大荘園で、大治6年(1131)に、矢部川を挟んで上荘・下荘に分割され、右岸を上荘、左岸を下荘とした。この呼称は今日まで用いられている。同荘はのち俊忠の外曽孫にあたる後徳大寺実定の手に渡り、実定よりさらに本家職が鳥羽天皇の中宮待賢門院に寄進された。 また、天慶7年(944)の成立とされる「筑後国神名帳」(高良社文書)に見える大神神・大江神・小河神などは当町関係の古社と思われる。寺院では清水寺(本吉)・叡興寺(本吉)・横尾寺(長田)・宝聚寺(下庄)などが、いずれも古代の創建と伝えられるが、確証はない。 「中世」 瀬高荘の領主たち 瀬高下荘は、古代末期に本家職が待賢門院から御願寺の円勝寺へ施入されたが、領家職は依然後徳大寺家が保有していた。一方、上荘の方は中世には延暦寺の別院である妙法院領となっている(妙法院文書)。また、上荘・下荘とも、文永10年(1273)に、10カ年に限り、延暦寺の造講堂料所に指定されたこともあった(天台座主記)。 寿永2年(1183)の瀬高下荘公文所下文写(鷹尾神社文書)によれば、同荘は22名の名から構成されていた。下荘の鎮守社である鷹尾社の神人集団の中に、金栗・高柳・上庄・下庄・吉里・馬木などの村落名を苗字としている者が見られるが、彼らは瀬高荘内に名主職を持つ開発領主であり、それらの集落は彼らの屋敷村であったと思われる。 瀬高荘は、平氏滅亡直後の文治2年(1186)に鎮西奉行天野遠景の押妨を受けるが、領家の後徳大寺実定は、これを頼朝に訴えてその違乱を退けた(吾妻鏡)。 南北朝期になると、瀬高荘を鎮西探題料所に指定したが、領家の要請で間もなくこれを解除した(博多日記)。しかし、他方では貞和3年(1347)、瀬高上荘の地頭職および預所職が、足利直冬によって直冬方の筑後守護となった託磨別当宗直に宛行われている(託磨文書)。そのほか、当町内には香椎社領本吉荘や太宰府安楽寺領・長田荘・坂田荘などがあった。 蒲池氏田尻氏 戦国期には、国人の蒲池氏と田尻氏が当町一帯を支配した。三潴郡南部を本拠とする蒲池氏は、天文年間(1532〜55)に山下城の上蒲池と柳川城の下蒲池両家に分かれ、当町東部山麓地帯を上蒲池氏が支配した。これに対し、三池郡北部の田尻を本拠とする田尻氏は、永正6年(1509)に田尻治種が、当町北部の大塚村を大友義長より預け置かれ、天文17年に田尻親種は、拠点を田尻から鷹尾城(大和町)に移し、町南部の堀切・浜田に支城を設けた。さらに天正6年(1578)から田尻鑑種が、竜造寺隆信の筑後進出に協力し、矢部川流域一帯の村々を掌中に収めた。しかし、天正10年島津氏に通じた鑑種は、竜造寺氏に攻められて降伏し、その所領を失った(北肥戦誌)。 瀬高座と中世社会 瀬高は、瀬高荘の中心として、中世後期には都市的性格を持つようになったと思われる。中世末・近世初頭の成立と見られる「高良玉垂宮神秘書」(高良大社文書)によれば、瀬高の町には別当がおり、ハカリ座・アブラ座・カナ座・シロカネ座・カワラケ座・コモノ座・アイモノ座などの商工業座があって、筑後一の宮である高良社大祝家の支配を受けていた。下庄文広(あやひろ)の芳司(ほうじ)には、大永5年(1525)在銘の恵比須神碑があり、定期市の跡であろうと言われる。 当町内の寺社で慶長以前の創建と伝えるものが、「旧柳川藩志」によれば寺院23、神社8を数える。寺院のうち、成合寺・九品寺・二尊寺・西念寺・来迎寺・叡興寺・庄光寺・清水寺などにはいずれも室町後期以降の板碑ゃ笠塔婆がある。中世の神社としては、下庄の鎮守樋口八幡宮や文広の広田八幡宮、上庄の八坂神社(祇園社)などがある。 「近世」 柳川藩領の郷村 近世初期までは、当町に松延城があり、立花宗茂は立花三郎右衛門を、田中吉政は松野主馬をそれぞれ城番に置いて、この地方一帯を知行させたが、元和元年(1615)に廃城となった。(旧柳川藩志)。 立花氏復封後の柳川藩の郷村と町域との関係を幕末期の状態で比べると、北部が本郷組のうち約半数の10カ村、南部が小川組のうち海津村を除く19カ村、東部が竹井組のうち7カ村の計36カ村と付合する。「旧高旧領」には山門郡瀬高上庄町・瀬高下庄町・真木・有留・大江・長島・下小川・井手の上・上小川・金栗・堀池園・南高柳・北高柳・東津留・南浜田・北浜田・泰仙寺・吉里・堀切・開・松延・北広田・大木・宮園・広安・大塚・草葉・藤尾・堤・朝日・本吉・大竹の32カ村、下妻郡本郷・芳司・吉岡・南長田・下長田・上阪田・下阪田・小田・禅院・山中の10カ村、計42カ村が見える。明治元年の「筑後郡村高辻帳」によって、その村高を算出すると、およそ2万2,154石余となる。各郷村には郡役配下の代官・大庄屋があり、1村または数村に1名の庄屋が置かれた。大庄屋は、本郷組の壇氏と竹井組の樺島氏は世襲であった。また瀬高は町組で、町奉行配下の別当が町政を担当した。 矢部川との闘い 矢部川の利治水は、藩の民政上最も重要な課題であった。主な治水工事としては、正保2年(1645)の河道改修が最も大規模で、津留村〜鷹尾村間の蛇行部をほぼ直線に掘り替えたものであるが、これにより、津留村が東西に分かれ、鷹尾村から泰仙寺が独立した。利水面では、藩政期を通じて、矢部川本流に合計8カ所の井堰が設けられ、うち三ケ名・込野・唐ノ瀬・広瀬の4井堰が柳川藩に属したが、込野(立花町)・広瀬(当町広瀬)の両井堰は、本郷・小川・竹井の3組によって管理された。こうした利治水への努力にもかかわらず、矢部川はしばしば氾濫を繰り返し、流域農民を苦しめている。家老吉田舎人の正徳〜享保年間(1711〜36)における「堀切・富永両開物成控」によると、享保11年・同17年・同19年は特にひどく、米殻の収穫は「皆無」と記されており、これが享保の大飢饉を招くことになった。 街道と在町 当町は、近世においても交通の要衝であり、商工業の中心であった。明治2年の「小川組御小物成盛掛小帳」に記載されている瀬高下庄町の商工業者数131人で、小川組総数206人のうち64%を占めている。業種別で最も目立つのは酒造業で28軒を数え、当町産業の特色となっているが、その発祥については明確でない。このほか油・糀・蝋・飴などの業種も見られる。また、「旧柳川藩志」によると、上庄に29疋、下庄に26疋の駅馬と各駅家が置かれ、別に陸問屋・浜問屋もあった。 町家は瀬高のほかに、肥後街道沿いの吉井・本吉および福島街道沿いの小田にもあった。本吉は清水寺の門前町で、寛保2年(1742)、参拝客の便宜をはかるため、本吉村に商家20軒のほか旅館などを設けて、これを本吉新町と称したことに始まると言われる(柳川藩史年表)。小田については、天明元年(1781)6月、小田村唐尾の茶屋営業を停止し、抱遊女を追放させた記録がある(柳川藩郡役所日記)。なお、唐尾は和紙の製造で知られ、その起源は、文禄4年(1595)に行脚僧日源によって創始されたと伝えられるが、日源の子孫は代々藩の御用紙を納め、唐尾紙として諸国にも知られたという(福岡県篤行奇特者事蹟類纂)。 「近現代」 行政区画の変遷 当町域は、明治4年柳川県、三潴県を経て、同9年福岡県下となった。同年村々の合併が行われ、新たに文広村・大江村・大神村・小川村・高柳村・浜田村・河内村・松田村・大広園村・長田村・坂田村・広瀬村・大草村・瀬高下庄村・山門村が成立。同12年、下妻郡本郷村・文広村・長田村・坂田村・小田村・広瀬村を山門郡に編入。同16年瀬高下庄村を下庄町、瀬高上庄村を上庄町と改称。同22年市制町村制施行により、山門郡上瀬高町・下瀬高町・本郷村・小川村・川沿村・緑村・水上村・清水村の2町6カ村が成立。なお、緑村の一部は現山川町域となっている。同34年、上瀬高・下瀬高両町は合併して瀬高町となり、同40年、瀬高町・本郷村・小川村・川沿村と緑村の一部は合併して瀬高町、水上・清水両村は東山村となった。人口は大正9年に各地区の総数が2万672人であったが、昭和30年の3万153人を最高に、それ以後は下降線をたどっている。 園芸農業の発展 当町産業の中核である農業は、近代においても度重なる矢部川の氾濫や夏季の干害によりしばしば打撃を受けたが、第2次大戦後は、県の矢部川流域総合開発計画に基づいて昭和35年に完成した上流日向神ダムなどの利治水対策の結果、現在では極めて安定した農業生産を見ている。農業の特色は米作を基本とするほか、古くから漬物用のタカナやハクサイ・キュウリ・トマト・ニンジンなど、蔬菜園芸農業の発展が著しい。かかる瀬高の園芸農業の発展は、明治末期から大正期にかけて野菜類の品種改良や栽培方法の研究と指導、販売拡大などに鋭意努力を続けた鬼丸寅次郎と熊川三吉の両先覚者の業績によるところが大きい。 在来工業としての酒造業は、明治以後も引き続き発展し、最盛期には40数工場にも及んだ。 交通と年中行事 近代の交通は、明治42年4月1日、九州鉄道の開通に伴い、当町に矢部川停車場が解説され、さらに同42年には矢部川〜柳川間に柳川軌道、矢部川〜南関間に東肥鉄道が開通したことにより、近代交通都市として再び脚光を浴びたが、東肥鉄道は大正末期、柳川軌道は昭和7年にそれぞれ経営不振により廃業となった。一方、九州鉄道は明治40年に国有化され、昭和10年には矢部川えきを起点とする佐賀線の開通を見たが、昭和62年国鉄の合理化政策により廃止されることになった。なお、矢部川駅は、昭和17年(1942)に瀬高駅と改称、同31年(1956)以降現在の瀬高駅となった。 当町には年中行事として有名な大江天満宮の幸若舞(1月20日)と上庄八坂神社の大人形祭り(7月24日)と大提灯がある。起源は近世にさかのぼると思われるが、前者は国の重要無形文化財、後者の大人形と大提灯は県の有形民族文化財に指定されている。 |
瀬高 せたか 矢部川・大根川・飯江(はえ)川に囲まれた平野部に位置する。矢部川の交通の要地に当たり、南には古墳時代にさかのぼる金栗遺跡があり、東北の山麓一帯には女山(ぞやま)・大道端などの弥生時代〜古墳時代の遺跡が広がる。 「古代〜中世」 瀬高荘 平安期〜戦国期に見える荘園名。筑後国山門(やまと)郡のうち。仁平2年12月20日付の鳥羽院庁下文によれば、年貢物運上に関して前下司の対拝を停止するように、「瀬高御庄司等」に対する指示がなされており、12世紀中葉には瀬高荘として成立していたと考えられる(吉田文書/平遣2774)。年紀不詳の後鳥羽院庁下文によれば、大治6年に瀬高荘は上荘と下荘とに分割されたことが見え、徳大寺家を領家として伝領された(鷹尾神社文書/筑後鷹尾文書)。以後「瀬高荘」および「瀬高」の地名は、戦国期までの各史料に見ることができるが、ほぼ瀬高下荘および瀬高下荘別府に関連して使用されているようである。 寿永元年8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里・稲富・行武・重富・小熊丸・太郎丸・楽定・弥乙丸・小太郎丸・乙丸・久富・武富・友吉・有富・新名熊丸・吉富・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名に鷹尾神社の「餐膳酒肴」の調進が課されているとから、現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯にその荘域が広がっていたと考えられる。また、寛喜3年8月30日の六波羅裁許状/鷹尾文書/筑後鷹尾文書)には、瀬高下荘内の年貢送進・新開田をめぐって鷹尾別府政所と地頭大友秀直との間に相論が起こっている。相論対象の中には、津料・倉敷のことも見え、瀬高下荘域が矢部川水運による文物の集散地であったことがうかがえる。 一方、瀬高上荘については、康永3年7月日付の亮性法親王庁解に「筑後国瀬高上庄」が見え、後白河院生期より昌雲僧正の相伝とされている(妙法院史料5)。また、貞和6年3月12日付の足利直冬充行状案によれば、託磨宗直が「瀬高上庄地頭職(付領家)」を勲功地として知行している(託磨文書/南北朝遺2714)。さらに、正平6年10月18日付の三池頼親軍忠状によれば、菊地武光にくみした三池氏は「瀬高上庄」に在陣し、警固したことを述べており、当地が南北朝内乱の戦場となったことがわかる(三池文書/同前3218)。下って、天正12年9月13日付の立花道雪書状によれば、立花氏が「瀬高上下、鷹尾表、三池郡境迄焼詰」めたことが見える(薦野家請/大友史料26)。これは、竜造寺氏と結ぶ筑後の国人たちを大友氏に加担する立花氏が掃討した際、当地がその戦場になったことを反映していると考えられる。なお、文禄4年の筑後国知行方目録によれば「一,千五百六拾九石壱斗四升 瀬高下庄・・・・五百六拾九石六斗七升 (瀬高荘)本村」と見える(立花文書/県史資料4)。現在の瀬高町上庄・下庄に比定される。 「近代」 瀬高町 明治34年〜現在の山門郡の自治体名。 上瀬高町・下瀬高町が合併して成立。上庄・下庄の2大字を編成。次いで明治40年に川沿村・小川村・本郷村及び緑村の一部を合併して12大字を加え、さらに昭和31年東山村を合併して7大字を加え、21大字を編成。役場は始め上庄に設置、大正9年下庄、昭和44年小川に移転。明治37年下名鶴堰の下流に大和堰設置、全長95.6m、設置当時は杭堰。明治41年瀬高高等小学校内に実習補修学校女子部を設け、大正2年瀬高技芸女学校開設(現山門高校)。柳川〜南関間の道路は明治42年頃国道として供用され、大正8年に県道に移管。明治42年柳川軌道設立、同年瀬高橋(木橋)架設、同44年柳川〜矢部川(現鹿児島本線瀬高)間の7q全線開通。所要時間約30分、昭和6年国鉄佐賀線の開業により翌7年廃業。町の明治40年度収支は歳入2万9,800円43銭2厘・歳出2万9,186円63銭6厘。同44年の戸数2,794・人口1万6,762(男8,347・女8,415)、産業別戸口は農業1,517・8,909、工業104・703、商業472・2,864、漁業18・82、その他683・4,202、物産は米・麦・採種・清酒・焼酒・瓦・生蝋・白蝋・採種油・蝋灰など。大正元年東肥鉄道設立、同11年矢部川〜南関間13.6q開通、所要時間約40分、昭和4年九州肥筑鉄道と改称、同13年廃止。大正3年江崎銀行倒産。翌4年町議会で瀬高・本郷・小川・川沿の4町村に分けようという突如可決され、翌年3年町長辞職、10月までの町政が混乱した。大正10年の世帯数2,674・人口1万4,219。同年度の町の収支は歳入16万36円余・歳出15万6,398円余。同年矢部川が決壊し、300年来の大洪水となる。同11年農作物不作のうえ価格低落、農家の経済状態悪化。同14年6月矢部川の堤防が決壊して大きな被害がで、9月暴風雨のため農作物に被害が出た。同15年高柳で小作争議発生、翌昭和2年秋に落着。昭和5年米価急落と暴風雨による畑作物4割減で町民大いに苦しむ。同8年大雨で被災したうえ、天然痘流行。同10年国鉄鹿児島本線に井手の上簡易乗降場(現南瀬高駅)開業、佐賀線全通、省営バス山鹿線開通。同15年産業道路(現国道209号)開通。昭和20年瀬高堰完成。同21年7月集中豪雨に見舞われ、町内の水死者3名、流失・全半壊家屋47戸、浸水家屋2,533戸。同26年のル−ズ台風、同28年の大水害と相次ぐ天災のため同29年遂に赤字町となる。 |
船小屋温泉大橋が開通 平成14年由8月13日 有明新報新聞 国道209号線の矢部川に架かる橋「船小屋温泉大橋」が11日、開通した。同日、瀬高町長田の中の島公園で関係者が集まった開通式があり、テ−プカットとくす玉割に続き地権者代表による親子三代渡り初めなどがあった。 中の島橋(延長80.2mと船小屋橋同82.1m)は、昭和4年に完成し、幅員5.5m。同43年に幅員1.5mの自転車と歩行者専用の側道橋が設置された。しかし、昭和初期に架橋されたのは幅員が狭く,年々増加する交通量に対応できなくなった。大型車同士が橋上で離合できず、一方が橋のたもとで待機し渋滞や事故の床因となっていたという。 また洪水時には橋桁付近まで水位が上昇し、流下物による災害発生が懸念されていた。 新橋は中ノ島橋と船小屋橋が連続した山本の橋になり、延長231.5mで片側二車線、全幅14m。交通渋滞対策で車道の幅員を5.5mから8mに広げ、自歩道3mを両側につけて、交通の流れをスムーズにし歩行者などの通行の安全性を高めた。 洪水時の安全確保で旧橋よりも高い位置にし、矢部川に浸かる橋脚をなくすことで流下物のひっかかりがなくなる。 地元が「赤い橋」に思い入れが強いことから、筑後市側には赤いアーチ状でワイヤを張り巡らした「二手ルセンローゼ橋」を導入。景観が実しく九州でも十橋しかない |