立花壱岐ゆかりの歴史散歩
 三柱神社
藩祖立花宗茂公とその夫人闇千代及び岳父戸次道雪の3人を祀ったところから、三柱神社と名付けられました。毎年10月9・10・11日の3日間「おにぎえ」という祭りがあり、県の無形文化財に指定されている「どろつくどん」という山車が繰り出されます
 三柱神社の欄干橋には、4個だけですが柳川城の欄干橋に用いられている擬宝珠(ぎぼうし)が用いられています。参道には十時無事老の顕彰碑や柳川藩が大活躍した「磐城平の戦い」などを顕彰する石碑などもあります。
 三柱神社の本殿の楼門は、日光東照宮の陽明門を像どり、回廊は厳島を模したものといわれております。楼門の入り口には、柳川藩(大和町)出身の横綱雲龍が寄贈した石灯籠一対があります。
 高椋新太郎が立花壱岐の命を受けて大阪の鴻ノ池や加島屋などの大富豪から1万両という大金をかりようと料亭で接待しますが、当時大関でありました雲龍は弟子とともに乗り込み、宴たけなわのころ、襖がパ−ッと開けられますと、雲龍らはそろい踏みを披露したのです。鴻ノ池や加島屋は、それに度胆を抜かれてお金を融通いたします。ふるさとを想う雲龍の勇気が柳川藩を救ったのです。大和町には、雲龍記念館も造られております。
 また、楼門の右手には、第12代柳川藩主立花鑑寛公の設計になる築山があります。立花鑑寛公は立花壱岐を家老に抜擢するなど、立花壱岐の才能を大いに評価しました。立花鑑寛公の後ろ盾がなかったならば、立花壱岐もその手腕を十分に発揮することができなかったでしょう。
 15歳の立花壱岐が奮然と学に志し、「立志の文」と「八ケ条の誓文」を読み上げ、それらを奉納したのも、この本殿です。
 ペリ−の黒船来航時、立花壱岐や十時摂津率いる柳川藩兵は川崎(神奈川県)と富津(千葉県)に駐屯しましたが、本殿の南側には、無事任務を終えたことを記念して松を植樹したことを顕彰する石碑が建てられています。
 なお、社務所の建物は「省耕園」と名づけられ、藩の接待所として用いられました。横井湘南などの各藩の名士たちがここを訪れたという記録が残っております。

 立花壱岐の墓がある福厳寺

 お城の三の丸から外に出るための正式の門は、東側の「黒門」です。
 黒門は、今では残っておりませんが、二層の櫓門で、防火のため門扉に鉄筋が張られ、やぐら全体が黒く塗りつぶされたところから、黒門と名づけられました。高知城にも黒門があります。
 黒門の外には黒門橋があり、これは土を突き固めた土橋でした。
 黒門の南方には福厳寺があり、そこに立花壱岐の墓があります。
 福厳寺の山門をくぐると、正面に見える二階建ての建物が鐘堂(鐘鼓堂)です。また、その右手の建物が開山堂です。開山堂には開祖の鉄文和尚の木造が安置されています。開山堂と本堂の間を進むと、歴代藩主の御霊屋(みたまや)があります。福厳寺には、長谷健や壇一雄の墓もあります。
 立花壱岐の墓の前に、十時兵馬の墓があります。十時兵馬は、立花壱岐の同志でした。妻の名は美佐子といい、長男の名前は十時虎雄といいます。十時虎雄は、日露戦争で活躍した人物です。
 天臾寺には、立花宗茂公の実父立花紹運の霊牌が安置されておりますが、立花壱岐ゆかりの人物として、十時無事老の墓や吉田孫一郎の墓などもあります。
 十時無事老は、高島秋帆に学んだ西洋流兵学者で、その西洋流兵学を「大成流」と称しました。十時無事老はややひょうきんな性格であったらしく、明治維新後長崎から1匹100円で豚を仕入れ、養豚業を営みましたが、当時の人たちは豚を食べるどころか、豚を見るのも珍しい時代であったので、またたくまに経営が行きづまり、1匹100円で仕入れた豚を12円で手放す羽目になってしまいました。これより後、柳川地方では経営に失敗するたとえとして「豚売った」と称するのが習いになりました。
 また、柳川藩の中老になった吉田孫一郎及び父親の吉田舎人をはじめ先祖代々の墓があります。
 吉田孫一郎は几帳面で律義な性格だったようで、立花壱岐が活躍した幕末の出来事を「吉田孫一郎留記」という膨大な日記として残しており、平成3年にこの日記は福岡教育大学講師の古賀長善氏によって刊行されました。立花壱岐及び柳川藩の動向を知る上で、最も貴重な資料のひとつです。ちなみに県文化財指定及び国指定名勝とされている「戸島氏邸」は、寛政元年間に祖父の吉田舎人によって建造されたものです。

 瑞松院

 瑞松院は、浄土宗の寺で、もともと天正12年(1884年)頃に柳川城を管理していた鍋島直茂の娘「たか姫」を供養するために本小路に建立され、下妻郡古嶋村(現在の筑後市)常今寺の住職紅誉上人を招いて、たか姫の院号である光台院本覚妙隆大姉にちなんで光台山本覚寺と名付けられていましたが、天正15年(1887年)に立花宗茂公の命により、現在の場所に移され、寛永元年(1624年)に立花宗茂公の後室八千姫を祀られたため、その院号の瑞松院殿英誉春峰光森大信女にちなんで瑞松院と改められました。柳川藩の門閥である八島家の菩提寺でもあり、立花壱岐の実兄の八島隼人采女もここに祀られております。瑞松院の縁起や瑞松院殿八千姫のことなどについては、第27世住職の照誉田中祗悠氏が書かれた「光台山瑞松院縁起」(平成4年3月)が最も詳しいものです。

良清寺

良清寺は、浄土宗の寺で、瀬高来迎寺の住職であった応誉上人を開祖とし、立花壱岐の正室であった闇千代を祀るために元和7年(1621年)に建立されたものです。 良清寺の由来は、闇千代の院号が、光照院殿泉誉良清大禅定尼であったからです。闇千代の画像が伝えられております。立花壱岐の同志でありました池辺藤左衛門の墓もここにあります。池辺藤左衛門は熊本の大思想家横井小楠に学び、立花壱岐を助けて藩政改革を進め、のちに明治新政府の中で今でいえば大蔵省の事務次官になった人です。越前福井藩出身の由利公正らとともに明治新政府の中で貨幣政策などを担当しました。

報恩寺

報恩寺は、曹洞宗の寺で、開祖は、久留米千光寺の住職であった曇逸(どんいつ)という僧です。もともと三潴郡蛭池村にあった同名の寺を、慶長9年(1604年)に田中吉政が今の場所に移したものです。
 立花壱岐の恩師である西原釣彦や横地玄蕃助の墓もここにあります。西原釣彦は、国学者で、曽我裕準の外祖父に当たります。横地玄蕃助は尊王攘夷主義者で大牟田の倉永に「龍山書院」という塾を開きました。横地玄蕃助を中心とする「正義派」は、開国通商論者であった立花壱岐たちのグル−プ「活眼派」と激しく対立し、この対立が柳川城炎上の引き金になります。

台照寺

台照寺は、法華宗の寺です。もともとは天台宗の寺出したが、天正2年(1574年)に火災で焼失し廃寺になったため、慶長2年(1605年)日恕上人が寺を再建したものです。当初は法華寺と呼んだといいますが、後に家老の小野若狭の院号の正受寺日真にちなんで正受寺と改称し、さらに御両家の一つである立花内膳正宗繁が天和3年(1683年)に死去したため、その際本堂を建立し、その院号が台照院宗繁日源であったことから台照院と改称して現在に至っております。本堂の東北にある妙見堂は、加藤清正と立花宗茂を合祀しております。
 立花壱岐の実弟であります立花駿河親徳の墓もここにあります。

 西方寺

 西方寺は、浄土真宗西本願寺派で、足利将軍の子孫足利安芸守政信改め慶信が開いた寺です。慶信は、天正15年(1587年)に立花宗茂公が柳川に封じられた際、家臣の由布雪下・十時雪斎・吉田右京の3人から柳川に招かれ、正行村(現在の三橋町正行)の法雲寺の住職になりましたが、その翌年の天正16年、現在地に西方寺を開きました。立花壱岐の実兄である十時摂津や高椋新太郎の菩提寺でもあります。十時摂津は、明治新政府の中で西郷隆盛や大久保利通らとともに、初代の参与(大臣)になった人物です。高椋新太郎は商人ですが、立花壱岐に抜擢され、藩の財政改革に尽くした人物です。

 浄華寺

浄華寺は、浄土真宗西本願寺派で、慶安4年(1651年)に西方寺第5代住職を隠居した権大僧都法印慶順によって開かれたものです。このため、このあたりは隠居小路とも呼ばれました。
 この寺には、柳川藩を代表する儒者安東省庵の墓があります。

 崇勝寺

 大牟田市倉永にある立花壱岐家の菩提寺でしたが、子孫がアメリカに移住したため、現在では廃寺になっています。それでも、立花壱岐家先祖累代の墓が昔ながらに立ち並んで、荘厳な中にも歴史の移ろいを感じさせます。
 最も古い墓は立花壱岐家初代の立花親房で、第3代藩主立花鑑虎公に仕えました。延宝4年(1676年)に家老となり、「立花」の名字を授かっております。従来は「戸次」を称していました。母は朝鮮王族出身の華岳院殿(過去帳には朝鮮国王の娘と書いてあります)です。言い伝えでは、朝鮮国李朝14代の宣祖(昭王、在位1568〜1608年)の王女の一人ということです。このことから、立花壱岐家には朝鮮国王の血が流れていることになります。

 法雲寺

 崇勝寺から諏訪神社に登り、鬱蒼とした竹林の中を抜けて行くと法雲寺に出ます。法雲寺は柳川藩第3代藩主立花鑑虎公が建てられたもので、その開祖は柳川福厳寺の鉄文和尚です。第2代藩主の立花忠茂公の正室が仙台の伊達政宗公の孫娘鍋子姫で、通称「仙台奥さま」と呼ばれます。その院号が「法雲院龍珠貞照大夫人」であったところから、法雲寺と名づけられたといいます。
 法雲寺を登ると、途中にイボ観音があります。これは鍋子姫がイボに苦しんだためといいます。鍋子姫の墓所は見晴らしのいい場所にあり、ふるさとの仙台に向けて建てられています。

柳川の歴史

柳川は城下町です。この柳川は、平坦な筑後平野の西南部にあり、大きくいいますと東西に矢部川と筑後川に挟まれ、南に有明海があり、やや小さく言いますと、北西の沖端川と塩塚川に挟まれた天然の要害です。
 この地に最初に着目したのは、瀬高上庄の豪族でありました蒲池氏です。蒲池氏によって柳川に本格的な城が造られたのは、永禄年間から天正9年5月にかけてであります。天正9年が1580年ですから、織田信長の全盛時代ということになります。その後佐賀の龍造寺氏が二万の兵でもって柳川城を攻めますが、蒲池氏は籠城してこれをよく防御いたします。柳川城は平野城でありますが、まわりは幅の広い堀に囲まれ、箸を落としてしまえば攻撃は困難でありました。「柳川3年、肥後3月、肥前・久留米は朝茶の子」と、当時の柳川人は自慢しております。その後蒲池氏はから龍造寺氏から甘言でおびきだされ、佐賀の与賀という所で一族皆殺しにされ、柳川城も龍造寺氏に占領されました。龍造寺氏は、天正15年6月までの6年間柳川城を占拠し、豊臣秀吉の九州制圧によって、柳川城の城主は立花宗茂公となるわけであります。立花氏は14年柳川を治めましたが、途中、ご承知のとおり、約20年間田中吉政公が城主になり、明治まで約250年にわたり、一貫して立花氏が居城されたわけであります。
 このように、柳川の城下町は、蒲池氏、龍造寺氏、田中氏、立花氏の四氏によって次第に整備され、発展してまいったわけであります。江戸時代は兵農分離政策が取られ、武士はお城のまわりに居住し、職人や商人はその外回りに店を構えて居住し、農民は田園地帯に居住することとされました。

立花壱岐の屋敷跡

柳川城は、現在の柳城中学校と柳川高校の敷地になっており、本丸と二の丸に分かれていました。その周りにはお掘(内堀)があり、その周囲は三の丸(北側は北三の丸、西側は西三の丸、南側は三の丸、東側は東三の丸)と呼ばれました。立花壱岐は、この西三の丸で三男坊として生まれました。父の名は十時三弥助といい、母は矢島行昌の長女でした。母の名は伝わっておりません。十時家、矢島家とも柳川藩の名門で、家老筋の家柄です。西三の丸には、内堀に面して幅四間半(約8メ−トル)、長さ約200メ−トルの南北の道路がありましたが、立花壱岐が生まれた十時家は一番南側にあって、8反2畝2歩という広大な屋敷でした。長男は十時摂津といい、のちに藩の家老を努め、明治新政府では西郷隆盛や大久保利通らとともに参与になりました。 立花壱岐の生家の南側には、幅四間半(約8メ−トル)の道路がやはり内堀に面して東西の道路があり、南三の丸と呼ばれましたが、現在筑紫ビルと駐車場敷地になっている約1町1反3畝7歩で、一辺の長さが約100メ−トルのほぼ正方形に近い広大な屋敷が立花壱岐の屋敷でした。立花壱岐はやはり名門の立花家(立花権佐家あるいは立花壱岐家と呼ばれます)に養子に出されましたが、養父の名は立花大蔵親理といいました。
 すぐ北側にある実家の屋敷の通用門に向かい合うようにして、つい築地塀に囲まれた立花壱岐の屋敷があり、北側には冠木(歌舞伎)門がありました。冠木門とは、二本の門柱の上に横木を乗せただけの門です。
 冠木門の中は砂の敷きつめられた道路があり、踏み石を歩いて行くと、右手にお役人さん。 と呼ばれた住み込みの若党たちの家や土蔵があり、正面に母屋の玄関がありました。玄関の奥には、取り次ぎの間があり、大きな2棟の建物と別棟の東側の庭に面した書斎及び離れの部屋がありました。庭には池が掘られ、鯉が泳いでいました。庭の東北の鬼門に当たる場所にはお社も祀られていました。庭には樹木が生い茂り、四季とりどりの花を咲かせる草花が植えられていました。
 立花壱岐の屋敷からは、東北の方向のわずか200メ−トル足らずの至近距離のところに、常に柳川城の天守閣が見えました。
 西南の方向から仰ぎ見た柳川城は、実に荘厳で、美しく、とりわけ夕日に照らされ、燃えるような紅に染められた天守閣の姿はまことに絶景であり、立花壱岐もしばしば時の経つのを忘れて見とれていたそうです。
 立花壱岐の屋敷の西側には狭い道路があり、道路を隔てた西側に中堅藩士の侍屋敷が立ち並んでいました。その道路を西に折れ、50メ−トル−ほど歩くと、堀の上に三の丸の外に出る「豊後橋」という名の石橋が架けられていました。
 「豊後橋」という名は、西原一南の「柳川明証図会」によると、この豊後橋を新しく架けた時の御家老の月番が、阿部豊後候であったので付けた名と 言 い伝えられている。
 豊後橋の南側には、「花畠」の別邸がありました。現在、国指定名勝になっていてる「御花」です。
 「花畠」とは、柳川藩3代藩主立花鑑虎公が、元禄10年(1697年)に改造した別邸です。本丸内の本丸御殿が公邸とすると、「花畠」はいわば私邸でした。
 ちなみに、「花畠」という名を命名したのは、柳川藩の代表的な儒者安東省庵です。 現在では「御花」と称されて、毎年多数の観光客が訪れています。
 また、立花壱岐の屋敷の東側には、埋(うずみ)門があり、掘を隔てて実兄の矢島采女の屋敷がありました。矢島采女の屋敷は、1町2反6畝8歩と、これまた広大で、その門はやはり冠木門でした。
 その隣接した東側の屋敷は、同じく立花壱岐の実弟、立花親徳の屋敷で、7反5畝27歩の広さでした。この立花家は、柳川城の南三の丸に当たったため、三の丸立花家とも呼ばれました。その養父は立花壱岐の同志でもありねよき理解者でもあった立花但馬という人物でした。

  柳川藩最後の家老・立花壱岐の略歴

柳川市間在住の河村哲夫氏による、立花壱岐の略歴は次のとおりです。

 立花壱岐は、天保2年(1831年)に柳川で生まれた。名は親雄、壱岐は通称である。
十時三弥助の三男で、立花大蔵親理の養子となり、天保12年に家督を継ぎ、禄
千五百石の大組頭となった。
 15歳の時、奮然と学に志し、「立志の文」と「八か条の誓文」を三柱神社の神前で読み上げ、それらを奉納した。
 15歳から18歳までの3年余、布団にも寝ないで猛勉強を行い、熊本の横井小楠の実学に傾倒した。
 その間、藩主立花鑑寛公に詩経の「五子之歌」を堂々と講述したり、役人たちの不正を糾弾するなど、次第にその才覚を現し、17歳で藩校伝習館の学校奉行に抜擢され、また現場奉行の発令を受けて、学校改革と兵制改革に取り組んだ。
 嘉永4年(1854年)8月19日、22歳の時に、横井小楠と山川町野町の別邸で二人だけで会見し、これ以降天下国家に目を向けることとなった。
 嘉永6年(1853年)6月3日、23歳の年にアメリカのペリ−艦隊が品川沖に渡来して、柳川藩は幕府から海防の命を受けたが、当時の柳川藩は極度に財政が逼迫しており、派兵も困難な状況であった。このため、立花壱岐は単身熊本に乗り込み、家老の平野九郎右衛門、溝口蔵人、長岡堅物をそれぞれ論破して、一万両の借金に成功した。
 その後、藩兵を率いて江戸に上り、蒸気船の発達により鎖国体制を維持することは困難だと見抜き、いち早く開国論を提唱しはじめた。
 やがて柳川に戻った立花壱岐は、26歳で家老に抜擢された。任命を受ける前、藩公に藩政改革に関する23か条の条件を提示したが、そのうち3か条について藩公の同意が得られなかったため、1年限りという約束で家老に就任した。
 家老に就任するや、50年来解決できなかった懸案30余件を半年で裁くなど、大いに手腕を発揮した。翌年、1年という約束の期限が到来したので家老を辞職したいと申し出たが、藩公から「約束は藩内のことであり、藩外には及ばぬ。参勤交代で江戸に上るから、その間江戸屋敷で勤務いたせ」といわれたため、これを受諾して6月江戸に上った。
 江戸に出発する前、熊本に横井小楠を訪ね、横井小楠の越前藩招聘問題などについて意見を交換した。
 その当時の江戸の政治情勢は、アメリカ公使ハリスへの応対をめぐって開国か攘夷かで議論が沸騰していた。他藩に先駆けて、立花壱岐はみずから起草した建白書を幕府に提出し、福井藩の橋本左内とも強調して開国の必要性を訴えるとともに、横井小楠を福井藩に招聘させ、諸侯会議を主催するなど政局の中心で活躍した。長州の吉田松陰も立花壱岐の才覚に注目していた一人で熊本の知人に「壱岐殿は、今ごろどのような考えをお持ちであろうか。さぞさぞ進歩のことと羨ましく思っている」と書き送ったほどである。
 翌年の安政5年(1858年)6月、井伊直弼の大老就任直後に危機を察知した立花壱岐は、藩公とともに柳川に戻ったが、予期したとおり「安政ノ大獄」が勃発し、江戸で共に行動した橋本左内は死罪となった。吉田松陰も処刑された。立花壱岐は周到な手を打って江戸を立ち去ったため、「安政ノ大獄」を無事免れることができた。 柳川に帰った立花壱岐は、前年の約束に従って家老職辞退の申し出を行ったが、立花壱岐の手腕を評価していた藩公はそれを許さず、逆に藩財政の立て直しについて諮問した。そこで、立花壱岐は藩財政案を提言し、「万一これらの案をことごとく採用されるならば、3年で藩財政は立て直ります」と大見えを切ったが、誰も信用しない。 翌年の安政6年(1859年)の9月、29歳の時、藩公の大決断により藩政に関する全権を一任された。
 全権に就任した立花壱岐は、多方面にわたる藩政改革を断行し、「鼎足運転の法」という画期的な経済政策を実行した。その成果はすぐに現れ、その年のうちに7万両を貯めることができ、翌年の万延元年(1860年)にも7万両を貯めることができた。江戸、大阪、長崎の試借金もまたたく間に整理した。
 立花壱岐は殖産振興にも力を注ぎ、彼が開発した櫨(はぜ)の新品種は、「壱岐穂」と名付けられ、農民たちから「生神様」、「有難い壱岐様」などと慕われた。また役人を減らすなど行政改革も断行し、人材を積極的に登用し、汚職を厳禁した。
 しかしながら、翌年の文久元年(1861年)3月4日、31歳の時に再び発熱し、文久2年(1862年)9月15日、32歳の時に全権を辞職した。これ以降、隠居して療養に専念することとなった。
 隠居期間中、「胖亭(はんてい)」あるいは「髑髏(どくろ)」と称して、政治の第一線から身を退いていたが、ひそかにその思想に磨きをかけ、明治維新に先立って、藩を解体した統一国家構想、能力主義による人材の登用、身分制度の撤廃などを骨子とする政治思想を有するに至った。その一方で「逆枝(さかえ)の柳」など多くの大衆向けの小説を書いた。
 発熱して約7年後、慶応3年(1867年)の12月、37歳の時に、王政復古の大号令が発せられた。柳川藩もまた騒然となり、混乱したが、翌年の明治元年(1868年)2月5日に、立花壱岐は再び藩政の全権一任を受け、峻烈な藩政改革を断行した。従来の兵制を撤廃市、新しい西洋式兵制を導入して、精鋭で編成された「英隊」や「変隊」を奥羽に派遣した。彼らは「盤城平の戦い」で目覚ましい働きをし、柳川藩の名声を大いに高めた。その一方で、立花壱岐は「復古論」などを著して、平和的な手段による解決を主張し、各方面に働き掛けたりしたが、新政府の「刑法局判事」にされるに及び、辞退のため京都に上った。
 京都では、新しい国家構想を実現するため、福井藩の松平春嶽や横井小楠らと接触したが、失望し、ついに岩倉具視邸に「松平春嶽公への建白書」、「山吹篇」、「井蛙天話」、「第二等論」を残して、明治2年1月15日に京都を立ち去って柳川に帰った。
 立花壱岐の残した政治論文を読んだ岩倉具視は驚愕し、八方手を尽くし、親書を出して立花壱岐を招こうとする。立花壱岐は、身分制度の撤廃や版籍奉還を論じた究極の論文である「第一等論」を送付するとともに、ついに上京を決意した。
 病気を押して大阪に上った立花壱岐は、明治2年3月23日に「鮒卯(ふう)」という料亭で対面し、翌日以降数回会見して岩倉具視に対してその持論を激烈に述べた。岩倉具視が逡巡するのを見て取るや、立花壱岐は柳川に帰ろうとするが、岩倉具視から東京に上ることを命じられる。上京した立花壱岐は、岩倉具視に対して、最も急進的な版籍奉還論、人材による藩知事の任命や地方財政を国家財政に貢献させるべきだとする貢献説などをしきりに説くが、やはり岩倉具視は逡巡してそれを採用しようとしない。失望した立花壱岐は、版籍奉還が実施されるのを見届け、6月28日に東京を出発して柳川に帰った。
 柳川に帰った立花壱岐は、藩政改革を進め、大楽源太郎事件を乗り切るなど、その手腕を遺憾なく発揮するが、明治5年1月に士族の反乱を防止するため、柳川藩のシンボルである柳川城を炎上させた。これにより、藩論は一変し、これ以降各地で士族の反乱が頻発したが、柳川藩のみはそういった反乱を見ることなく、新しい時代を迎えることができた。佐賀の乱や西南の役の際、藩内に全く動揺が生じなかったのも、立花壱岐が鎮静化につとめたためである。
 晩年は、本郷の岩神という地の小さな家に、家族だけのささやかな生活を送り、貧乏であったものの、家庭的で幸せな晩年を送ることができた。自叙伝を書き、小説などを作り、たまには幼い子供たちの手を引いて川の土手を散歩したり、釣りをしたり、夕食の時には幼い娘を膝に乗せて、箸で茶碗や皿などを叩いて、自作の歌を歌って楽しんだりした。
 明治14年7月24日、51歳で亡くなった。墓は福厳寺にあり、墓碑も立てられている。