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八女地方の落人伝説



 要川の決戦から山中に入り商事だけの尾根伝いに北へ進むと御牧山です。ここは柳川藩の御料馬の調練場がありました。山川町と立花町の町境にあたり東へと降ると立花町白木です。田楽原には平家塚と呼ばれる石碑があります。この辺りを塔の原と呼びまたの名を闘の原ともいいます。この場所は藤山城趾の直下で龍造寺の山下城攻めのとき激戦があったところで、瀬高町平田の鶴某氏の旧書に「天性六年の記録に塔の原にて激戦」と記されている由で、既にこの地が「塔の原」と呼ばれていれば田楽原の古碑は平家塚といえるようです。明治時代初めの寺子屋の読本にも「塔の原」とのこがでていたと古老の伝があります。

 横ヶ倉から山頂めざして登ると王子塚があります。山頂は標高405メートル、飛形山系の一つの高峰です。東は立花町松尾、北東は立石、西は横ヶ倉です。山頂近くの凹地、雑木林の中に、ひっそりと古塚らしき所があります。荒れ果てて確認は出来ませんが、地名は王子塚、又は皇子か塚といい安徳帝のお墓という言い伝えもあり、昔、上辺春小学校の校歌にも取り上げられました。立花町市ノ瀬や中通り、白木にも平姓があり八女市から来たと言われます。

 八女市平に平隆吉氏宅があり平知盛一族との関連があると言います。知盛は清盛の第四子、壇ノ浦合戦の平家方の総大将です。知盛の墓は竹野(田主丸町)にありますが、これは実は伊賀家長の墓です。「家長は帝をはじめ知盛一行に供をしてきましたが、竹野まで来たとき草野勢と戦い、知盛の身代わりとなり知盛は宗清と共に帝を守護して久留米へ落ちた・・・・」と。(八女郷土史)身代わりの伊賀家長は草野勢と戦い討ち死にしましたが、田主丸町平にある知盛の墓は実は伊賀家長の墓です。家長には妻と二人の男子がありました。これらの家族は下妻群光明寺(筑後市)に滞在したのち、上妻群新庄村今山(八女市)に居住し、母方の姓、服部姓を名乗りました。二人が成長し弟は力量がすぐれ、常に荒々しかったので里人は荒人と呼び今山の荒人陣社に祭られています。毎年9月22日、今山の服部姓の人々は田主丸町竹野に墓参りに行くということです。

 八女市平地区には平姓のほかに内田姓、八女市山内には安徳姓、長野に内山姓、北川内に倉員姓がありますが、これらは平家一門の姓と言われます。倉員は筑後市の蔵数から移住したともいいます。

 星野から矢部へ通ずる石割岳の麓には平重盛の子がかくれたという伝説があり、そこに岩観音が祭られています。「平家はカッパになり人々をなやます」と言われますが、上陽にはカッパはいるが星野にはカッパはいない」ともいいます。星野には平家城あり、岩観音であり親平家の風土があったものでしょう。

平家塚