写    真 説    明
千間土居  千間土居公園 





ハネ(水刎ね)
〇治水のこと
川幅が狭く、川底が浅いのですが、一旦大雨が降れば川水は両岸に溢れて沿岸の田畑は溢れた土砂に埋まり、川床が替り、農民は非常に難渋しました。
 川が久留米藩と柳川藩との境となっているために両藩とも矢部川の治水には非常に苦労しています。また両藩の沿岸の農民の争いも絶え間がありませんでした。
 約四百余年前の田中吉政治政の頃は水勢の強く当る箇所に土居(堤防)を築き水の溢れるのを防ぎました。幕藩体制になって久留米藩では有名な丹羽頼母が荒籠(蛇籠)や水刎ねを造り、柳川藩では元禄年間田尻惣助が普請奉行として有名です。
 元禄八年(一六九五)柳川領谷川組の北田村(立花町北山)の曲松から山下にかけて毎年洪水に悩まされるため柳川藩では普請奉行の田尻惣助に命じて曲松から山下にかけて千三百間(二三〇〇m)の土居(堤防)を強化することにしました。しかも対岸の久留米藩からの抗議のスキを与えないように短期間に仕上げることでした。惣助は北田村(立花町北山地区)の農民を動員して昼夜兼行で築かせました。その苦難の作業は今日でも語り草となって残っています。これが現在自然憩いの森として親しまれている千間土居公園です。

〇田尻惣助、惣馬父子のこと
惣馬は宝永六年(1709)に柳川藩の普請奉行となり矢部川沿岸の堤防強化のため楠や竹を植えたり、刎を築いたりしました。これが今日北山千間土居から船小屋にわたるうっ蒼たる楠林です。
 この千間土居が築かれることによって当然矢部川の水勢は対岸の久留米藩側に強く当り洪水の被害を受けることになります。元禄十年(1697)の大洪水では久留米藩側の堤防が壊れその下流域は大きな被害を受けました。当時の矢原組大庄屋甲斐田七郎右衛門はその責任をとらされ、あとに福島組の松延宗兵衛が大庄屋に任命されました。(新庄組、矢賀部文書)

〇ハネ(水刎ね)
 川の水防工事としては一般的にハネ(水刎)と称して川岸より川中に対して直角にあるいは30度〜45度下流に向って突き出して水勢をやわらげ流れを変える方法がとられました。蛇籠や石組みを造り簡単なものは抗打ちや竹を使ってハネを築き護岸工事を行いました。
大塚古墳 所在地:北山上ノ原
町内の円墳では最大のもので、石室はほぼ南西に開口する横穴式石室です。石室は全長11.9m、後室、前室ともに川原石を用いた敷石が一面にしかれていました。後室の平面の形は長方形で、奥の壁、両側の壁に大きな一枚岩が用いられています。石室内から光沢のある装身具の金環、刀子の小片、大刀の一部分、鉄鏃の小片が出土しています。築造は6世紀後半と考えられます。
浦田古墳 所在地:谷川

東西に走る丘陵の南側斜面の裾部近くに造られており、墳丘を造る際に丘陵の斜面を一部削って墓域としています。墳丘の中心は玄室の中央部に位置するものと思われ、墳丘の規模は直径14m、現存する墳丘の高さは3.3mです。
鬼隈横穴群 所在地:山崎

鬼隈横穴群は標高49〜61mの硬質砂岩の山腹を掘って造られ、間に一段、二段の高さで17〜18基あると思われます。ここでは6世紀中葉から7世紀中葉にかけて埋葬が行われたと考えられます。
黒岩橋 所在地:兼松

辺春川流域には、数多くの眼鏡橋が残っているが、その中で最も大きい眼鏡橋がこの黒岩橋です。黒岩橋の親柱に、『黒岩橋 明治二十五稔九月』と刻まれています。このように橋名年号があり、勾欄(欄干)が刻まれているのは町内ではこの橋だけです。橋は長さ10.3m、径観8.5m、幅1.8mです。
里程表示石柱(四里石) 写真なし 所在地:北山

一里石、又は一里塚と呼ばれているのは、城よりの、里程表示石で・筑後地方では、慶長六年筑後全土を領有した田中吉政の命によって慶長九年に作られたものである。
谷川寺
谷川寺の山門に立っている仁王像は、ややずんぐりした感じですが、高さ2m、筋骨隆々として男性美に満ちあふれ、谷川寺を守護するのにふさわしい仁王像です。谷川寺は聖武天皇の神亀5年(728)、僧行基の開山といわれていますが、それを証明する資料は残っていません。当時は現在谷川寺のある「辻の山」一帯に七堂伽藍を配置し、筑後地方随一の大寺としてその偉容を誇っていたといわれていますが、その後大火で消失したものを建久5年(1195)源頼朝は梶原景時に命じて再建させたといわれています。本尊には県指定の「薬師如来立像 附日光菩薩像 月光菩薩像」を安置しています。
谷川寺
阿(あ)

吽(うん)
《立花町指定文化財》
1 木造金剛力士像(もくぞうこんごうりきしぞう)  1対
八女郡立花町 谷川寺(こくせんじ)
像高(阿形)195センチメートル/(吽形)205センチメートル/鎌倉時代(13世紀)

 体幹部と腕をそれぞれ芯を含むクスノキの一材から彫り出した、重量感あふれる仁王像です。
 体部に対して頭部が大きく、太く寸詰まりのような体形は独特ですが、様式的には、平安時代後期の長承3年(1134)に制作された京都・醍醐寺(だいごじ)の金剛力士像、あるいは長寛元年(1163)制作の京都・峯定寺(ぶじょうじ)の金剛力士像などが本像に近い作例として注目されます。
 ただ、素朴ながらも立体的で激しくうねる腰付近の衣の表現は、鎌倉時代にあらわれる彫刻的表現とみることもでき、制作年代についてはなお検討する必要があります。
 また、材質が九州に多いクスノキであることや、内刳りを施さず屈曲した腕を芯を含む一材から彫出するなど、合理的とは言い難い技法も各所に認められます。これらのことは、おそらく本像が当地で制作されたことを物語っています。
 谷川寺は奈良時代に行基(ぎょうき)が開き、鎌倉時代初期に源頼朝によって中興されたと伝えられる真言宗の古刹です。現在、この仁王像のほか平安時代前期に遡る本尊の薬師如来像など、貴重な文化財を守り伝えています.