柳川城跡(柳河城)
柳川城とその掘割は永禄年間(1558〜1570)に豪族蒲池鑑盛(あきもり)が築いたとされ、 立花左近将監宗茂が関ヶ原敗戦で流浪の身(徳川家康の命令で奥州棚倉へ移封)となった 後を受けて、田中吉政公が名城と知られる柳川城と掘割を整備したものです。 現在の柳川城は天守閣跡が僅かな石積のみの高い丘として残っています。向かって右側に 柳川高校で、左側に柳川中学校があります。当時、このお城は『水の城』と称えられたそうです。 蒲池氏は、初め豊後守護の大友氏に仕えていたが、鑑盛(あきもり)の時に蒲池城からこの 城に移転しています。 攻めるに難く、肥前の龍造寺隆信が1573〜91年に何回も攻撃したが、どうしてま手に入れる ことが出来なかった。 鑑盛は1578年の耳川の合戦で没したが、その後に鑑並は隆信との和議に応じ、猿楽能の 席に招かれ謀殺され、 ここで柳川城も落ちたのでした。