ふるさとの山と川
耳納山地と筑後平野
私達が住んでいる浮羽の大地は、どのようにして生れたのでしょうか。
浮羽の大地の生立ちについて、田主丸町誌は大要次ぎのように述べています。
今から二、三億年前、海底に積って堆積岩が、造山運動の圧力と地熱で変成岩になり、摺曲と断層を繰り返し陸地化して地表に露出した。
その後第三紀(今から七千万年〜二百万年前)に起きた大きな断層活動で、耳納山地と古処山地を残し、大地が陥没して出来た断層谷に、海水が侵入して大きな古筑紫海が出来た。
その古筑紫海に、日田盆地から流れ出た堆積物と、阿蘇や釈迦岳等の火山の噴土が降り注いで海を埋め、海進と海退を繰り返して、今日の筑後平野が出来た。
吉井町誌は、この地方で表土を三米も掘ると砂礫の層に至る、これは古筑紫海が陸地化していった名残で、中央を走るバス通りの南を、四米ぐらい掘リ下げると、古筑紫海が、沼沢の時代から陸地に変わっていった時代に茂っていた、樟・櫟・樫の半炭化した巨木や、椎・樫・檪などの葉や実が出てこの地が陸地化していった過程を、知る事が出来る。
筑後川と三津留川
筑後川は、古筑紫海が退いて行くに連れて河道を造り、氾濫する度に新しい河道が出来て、古い河道は流れをなくして水田化してゆきました。
このようにして残った古い河道は、筑後川と巨瀬川の問に、多く見ることができます。
三津留川は旧河道の一つで、ある時筑後川が氾濫して、原鶴辺から北の古志波川に流れ込んで新河道を造ると、水口を失った旧河道は、三津留川になって、筑後川の伏流水を水源に流れ下る、農業用水路に変わって、沿岸は水田に化ってゆきました。
耳納山と巨瀬川と山汐
耳納山地の北斜面は、急に落ち込んだ崖になっているので、降った雨は北斜面を流れの下って、水縄田に注ぎ作物を育てて、人々に収穫の喜びを与えて、巨瀬川に流れ込みます。
この谷水が、大地中に流れ込むと伏流水になって、遠くの大地に湧き出て、里人に恵みの水を与えます。
ところが、耳納山地に豪雨が降り、また長雨になりますと、北側の谷は水量を増やし、急斜面の山肌を削り土石流となって、樹木を薙ぎ倒し岩石を動かした激流は、山津波になって一気に村里を襲い、人家・里人・家畜を巻き込んで、田畑を襲い瓦礫の荒地に変えて、巨瀬川に流れ込みます。
当地の人々は、山津波を〃山汐"と呼んで大変怖れました。〃山汐"は久留米藩の時代には、二〜三十年の間隔で起きて、里人に大きな被害を与えました。
三浦家文書は、"山汐〃の被害を次ぎのように書残しています。
宝永五年(1708)四月二十二日、樋ノロの曽根荒地となる。
享保五年(1720)六月二十一日、午の刻、水縄山麓に大山汐田畑損耗、、飢人多く死に、公儀より御救米一人に一合出る。
領内で田畑九八三町七反荒廃、潰流埋家二三九〇軒、溺者六一人、牛馬一〇四疋流れ死す。
田主丸町誌に、
享保五年、六月二十一日、大山汐、宮本・徳間・竹野の三ヶ村を、大量の岩石と水が屏堂を打ち破り、村を押しかぶせてしまった。
田主丸歴史年表に、
享保五年、耳納山筋大雨洪水、生葉被害甚大、六月十九・二十・二十一日雷雨性集中、死者六十一人、負傷者三十二人、山崩れ大小七十余箇所、安富・大村全滅。
嘉永四年(1851)六月二十日、蔵八村分およそ一町荒地となる、二十七日より下見役衆検分始める。
大昔の人々は山汐を、耳納山に住む大蛇が、大雨を降らし暴れ廻って起こすと信じていました。そこで村人は、大雨が降ると山の大蛇に、「どうか暴れないで下さい」と祈りました。また反対に日照りが続いて旱魃になると、八大竜王に、「どうか雨を降らして下さい」と祈りました。
山汐菜
山汐菜について、田主丸町誌は次のように記しています。
山汐菜は辛みを帯びた青菜で、浅漬けの爽やかな味が、格別美味しい野菜です。
享保十年(1725)三井郡北野町付近で、筑後川の蛇行部を新川道に改修する工事を行った時、旧川道跡に自生した青菜で、この青菜は山津波が齋したと、云い伝えられています。
この青菜は、筑後川の源流に土着していた、久住高菜のゆかりの品種であろうと云われています。当地では山津波を山汐と呼びますので、この青菜に山汐と名をつけています。