百済救援と朝倉遷都

 朝倉の橘の広庭宮
 斉明天皇の六年(660)、わが国と親交の深かった百済が、新羅に攻められて、日本に駐留していた王子豊璋の帰国と、救援軍の派遣を要講してきました。
 時の斉明天皇は慎重な方で、大事な決定をなさるときは、何時も皇居御苑の池で禊して、天の声を聞いて決められたと云われています。
 いま奈良に残る酒船石・亀石・狂心(たぶれこころ)の渠等は、当時の御苑の遺跡と云う事です。

 この度天皇が百済救援のために皇居を筑紫に移し、大軍を朝鮮に派遣される事は、重大な国事でありますので、天皇は天に祈って声を聞き、中大兄皇子、大海人皇子、大友皇子、中臣鎌足や左.右大臣、国博士に諮られて、決定されたと思います。
 斉明七年(661)一月、天皇は水師を率いて、難波大津を船出され、三月耶娜大津の磐瀬の宮に入られます。ところが此の地は王城の地に相応しくないと、五月「朝倉の橘の広庭宮」に移られます。

 さて皇居になった、朝倉の橘の広庭宮の所在地は、朝倉町の須川地区が有力視されていましたが、昭和八年から四十九年に掛けて行われた、数回の発掘調査の精果、ここは古い寺院の跡らしくて、皇居跡の確証が得られませんでした。

 最近杷木町の志波台地が調査されて、計画的に配置された大規模な建物跡が発見され.朝倉町と杷木町に跨り、東に高山・西に恵蘇八幡、北の麻底良山に囲まれて、南に橘の広庭(橘田辺り)が開けた志波地区が、防衛上も皇居にも相応しい場所と云われています。
 その頃筑後川は、角間辺りから三津留川に流れ込み、橘田辺りは皇居前に開けた、広々とした田園であったと云われています。

 「小倉百人一首」天智天皇の御製に、
   秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
         わが衣手は露にぬれつつ
 この御製は、橘の広庭の秋の情景を、歌われたものと思います。

 皇居になった朝倉の橘の広庭宮には、斉明天皇を始め、皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、大友皇子(後の弘文天皇)、額田王や宮廷人、中臣鎌足・阿部・蘇我の高官豪族が随行したので、大掛かりな造営工事が始まります。

 新宮殿の工事が始まって間もなく、斉明天皇は俄かに病われて、七月二十四日御年六十八歳で崩御されます。
 天智天皇(中大兄皇子)は、践祚の儀式を行う暇もなく、斉明天皇のご意思を継いで、娜大津に移って百済救援の戦を進められます。また亡き御母天皇の菩提を弔うため、大宰府に清水山普門院観世音寺の建立を命ぜられます。
朝倉の宮に滞在の大海人皇子は、百済の佛師に命じて、耳納山麗冠村に百済様式の持佛堂、屏風山清水寺を建立されて、御母斉明天皇の菩提を弔むらわれます。
 さて朝倉に皇居が移ってから、この地一帯に都の風が吹きはじめて、美しく装った大宮人が見掛けられるようになります。若い里人達は初めて見る都人に興味の眼を向け、派手な衣装に目を見張り、宮廷女性の優雅な言葉と、華麗な立振舞に、心を惑わす人も現れた事でありましょう。
 謡曲に「綾の鼓」と云う曲があります。朝倉の木の丸殿に仕える御庭掃きの老人が、桂の池の御遊のとき、美しい女御の姿に心引かれます。それと気付いた女御が、「桂の池の木に掛けた鼓の音が聞こえたら、また姿を現しましょう」と云って、音の出ない「綾の鼓」を木に掛けます。
 老人がこの鼓は、打っても音の出ない鼓と知り、身の賎しさ故に謀られたと悲しみ怒って、桂の池に身を投げます。この事があってから、女御の耳には、老人の打つ鼓の音が、池の底から聞こえて、とうとう狂乱して倒れ伏す。と云う物語になっています。

木の丸殿
 新古今集に、天智天皇筑前朝倉なりし丸木造の行宮におわして、
  朝倉や木の丸殿に我居れば
     名告をしつつ行くわ誰が子ぞ。
 この御製は、当時の御殿の様子と、守衛の厳しい皇居の御門を、名乗って通る若者の姿が見えるようです。
 さて朝倉の皇居は、百済派遣軍の大本営になり、朝倉郡と対岸の生葉・竹野地区は軍事基地になって、国内はもとより、百済の要人・軍人や仏師が出入りし、大勢の兵馬が駐屯して、武器や兵糧の集積貯蔵が行はれ、武具・兵器や軍船の製造が始ります。
 同時に、多くの若者が動員されて、平穏だった村里には緊迫した空気と活気が漲ります。
 百済救援には、多数の軍船が必要でした。当時の軍船は丸木舟様に割り抜いた楠を船底材に、上部を杉材で造った軍船で、船には兵士二〜三十人と馬二頭、食糧と武具が搭載されたと云われています。
 その頃筑後川と巨瀬川の流域には、大きな楠と立派な杉が茂っていました。この地区では、昔から大きな楠には、神様が宿ると信じ、注連縄を張って拝んでいました。
 この度大きな楠が、どんどん切倒されて行くのを見た古老は、"恐ろしい事ぢゃ!神様の崇りが無ければ良いが"と、囁き合いました。

百済救援の戦い
 ここで百済救援軍の規模と戦いの経過を見ましょう。
(662)五月、天智天皇は、百済王子豊璋を、大将軍大錦中安  曇比羅夫に、軍船百七十隻の水軍を与えて、 百済に送ります。
(663)三月、前将軍上毛野君稚子、間人連大蓋。
  中将軍巨勢神前臣訳語、三輪君根麻呂。
  後将軍阿部引田巨比羅夫、大宅臣鎌柄。
  以上の本隊、二万七千を百済に派遣します。
 第三陣は、援軍として、大伴部博麻、弓削連元宝児、氷連老、土師連富杼、筑紫君薩、夜麻を派遣します。これで派遣軍の総勢は、三万を越す大軍になりました。
 当時の百済の情勢は、白村江近くの州柔で、百済軍が新羅軍の攻撃を受けていました、そこで日本軍は錦江を遡航して、州柔の百済軍を救援しようとしますが、錦江の川口に唐の大船団が停泊して、日本軍の錦江進入を阻止していました。
 このため日本水軍は八月、多数の軍船を以って、白村江口の唐の船団を撃破して錦江に進入し、州柔の百済軍を救援しようと、唐の大船団に襲い掛かりました。
 日本水軍に襲われた唐船は、高い船縁から攻め掛かって来る日本船に、松明を投げ込みました。日本の軍船は船縁が低く、船体が楠と杉で出来ていて燃え易く、船火事を起こして大敗しました。
 旧唐書はこの海戦を、「船四百艘焚く、煙と焔は天に漲り、海水は皆明し」と書いています。
 日本はこの戦いに大敗して、全軍を朝鮮から引き揚げます。この引揚げによって、我国は長年朝鮮半島に持っていた権益を全て失います。この引揚げの時、大勢の百済人が九州に渡来して亡命します。
 (664)唐の使、郭務棕が二四〇〇人を率い、国交の回復を求めて、対馬に来航して威力偵察を行います。時の大宰府政庁は「日本鎮西筑紫大将軍の牒を授けて帰す」とあります。
 大宰府政庁は、唐・新羅の連合軍が、筑紫に来寇する事を怖れました。そこで急遽筑紫の民を動員して、水城の堤の増強を行ないます。
 天智天皇は、東国の壮丁を動員して、対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し、唐・新羅連合軍の侵攻に備えます。
(665)天皇は、百済の帰化将軍に命じて、大野、橡・長門に山城を築かせ、百済の男女四百人を近江に送ります。この年の九月、唐使劉徳高が筑紫に来て、日本の情勢を偵察して帰ります。
(667)天皇は、都を朝倉の橘の広庭から、近江の大津に遷都して、大和の高安・讃岐の屋島.対馬の金高に城を築き、唐・新羅の来冠に備えます。
(668)朝鮮半島では、新羅が北上して高句麗を討ち、朝鮮半島を統一して、唐と.不仲になりましたので、唐と新羅の連合軍が、日本に来冠する危険はなくなりました。

大伴部博麻
 大伴部博麻は、今の八女地方の人で、先に百済救援の第三陣として渡海しますが・敗戦で捕虜になって唐都に送られます。その時、唐の日本侵攻計画を知りますが、金が無くて帰れませんので、自分の身を売った金で、弓削連元宝児たちを報告のため帰国させます。
 博麻はその後三十年間唐に留まって、持統天皇の四年、学問僧と一緒に筑紫に帰ります。
 天皇は、博麻の国を思う心を喜ばれて、務大肆(七位下相当)の位と・子々孫々に至る水田四町の外、数々の褒賞を下賜されます。