屏風山清水寺と徳童

屏風山清水寺

 田主丸町誌に、
 「耳納山麓の冠地区から、百済様式の軒丸瓦が出土している。瓦に伴う遺構は見つかっていない。
 樋ノ口厳浄寺所蔵の「観世音寺之縁起」に、延暦十七年(798)建立と伝えられる「竹野郡冠邑屏風山清水寺」の名前が見える。
 百済系の軒丸瓦を持った寺院は、延暦十七年に建立された清水寺に先行する、奈良時代初期の寺院が建っていたのかも知れない。浮羽町山北で、奈良朝時代の瓦窯跡が見つかっている」。
吉井町誌に、「清水城跡の山腹に、清水寺の跡と云う地点があって、仏具が発掘された。清水寺は初め天台宗であったという、現在の樋ノ口厳浄寺の前身であるという」とあります。
 これらの事から、飛鳥時代に建立されたと思われる、百済系の軒丸瓦を持った清水寺が建立された時代を、考えて見る事にしましょう。

 (660)年斉明天皇は、百済から救援の要請をうけて、(661)年五月に、朝倉の橘の広庭宮に皇居を移されます。ところが天皇は、この年の七月二十四日この地で崩御されます。
 天智天皇(中大兄皇子)は先帝の没後、娜大津に移って百済派遣軍の指揮を執られ、御母斉明天皇の菩提を弔うため、大宰府に大伽藍清水山普門院観世音寺の建立を命ぜられます。この寺は天平十八年(746)に落慶しています。
 朝倉の橘の広庭宮に滞在された弟宮の大海人皇子は(御母天皇の菩提を弔うために、この地に滞在した百済の仏師に命じて、冠村に持仏堂の屏風山清水寺を建立されたと、推察します。
 その当時わが国で建立された寺院は、四天王寺法興寺・法隆寺.観興寺など七堂伽藍形式の大寺で、これらの寺院は勅命によるか、勅許を受けて建立されています。

 冠村の清水寺は、当時としては珍しい百済様式の軒丸瓦を持った寺で、しかもこの寺の建築は、先帝没の(661)七月から、白村江敗戦の年(663)八月までの短じかい期間に完成していますので、大海人皇子が持仏堂として建立された、小さな寺であったと思われます。
 当時寺を建てるには、天皇家か天皇の許しがなければ、建てられない時代でした、まして百済様式の軒丸瓦で屋根を葺くなど、庶民には考えられない建物であります。
 この清水寺が建ってから、十五〜六年後の天武七年(六七八)に、耳納山麓に起きた筑紫大地震で、この寺は倒壊したと考えられます。
 「日本書紀」に記されている筑紫大地震は、久留米教育委員会によると耳納山地北側に断続的に連なる、活断層が活動して起きた地震で、この震度は「七・一以上」であったと証しています。・
 この地震によって、久留米市合川町に在った筑後国府の建物や、耳納山麓一帯の建物高良山の神護石まで動いていますので、清水寺は倒壊を免れなかったと思います。

厳浄寺「観世音之縁起」と徳童観音堂

 厳浄寺所蔵「観世音之縁起」に、延暦十七年(798)に建立とれた、屏風山清水寺と云う寺があります。この寺は(662)頃に建立された百済様式の屏風山清水寺が、筑紫大地震で倒壊した跡に、再建された寺と思われ、この寺の縁起に清水寺と徳童の関係が、次のように書かれています。
 一、清水寺から白い水を流したら、一方は徳童に、他方  は石垣に至った。
 二、正観世音のお姿の現れた栢の大木で、三体の観音像  を彫り、第一番を清水寺、第二番を徳童、第三番を石  垣に安置した。
とあって、清水寺と徳童は、何か特別な関係がありそうです。
 その頃徳童は、どのような村であったでしょうか。
 古い時代、この地方の人々は、耳納山から流れ下る山麓の谷辺に集って、集落を作りました。ところが徳童は、山辺から離れた三津留川に臨む、微かに高い扇状地の先端に、在る集落でした。
 この徳童には古い昔から、耳納山の伏流水がコンコンと湧き出ていました。
 この湧き水を求めて、人々が集まって徳童村が出来たと思います。
 また徳童は、耳納山麓の活断層から離れていたので、地震による被害が少なく、湧き水にも変わりがなく、村人の生活も平穏であった事が、清水寺の関心を引いたのかも知れません。
 平和に暮らす徳童村の人達は、伏流水が湧く所を「清水場」と呼び、穫れを許さぬ神聖な場所として清浄に守ってきました。村人達が湧き水を守り感謝する心が、観音信仰に繋がって、清水寺と徳童の結び付きが良好であったと考えます。村人は、清水寺から贈られた観世音像を、鬼経の「清水場」に観音堂を建てて安置し、香華を絶やさず拝みました。
村人は七月十七日の祭礼日には観音堂を提灯で飾って、「よど」のお祭を盛んにしました。

法音寺と観音堂の「よど」

 観音堂が建つてから八百年ぐらい経った頃、元和二年(1616)、禅宗の大悲山法音寺が、千光寺の末寺として鬼経の観音堂の境内に建立されます。
寛文十年(1670)、久留米藩庁に届けた法音寺の報告に、
一佛殿一宇、二間半四間茅葺本尊薬師木像。
一観音堂一宇、二間三間茅葺脇立、不動・毘沙門、三体共木像。
とあります。
延宝二年(1674)に、倉富胤久氏が法音寺を、鬼経から現在地に移します、その時観音堂はどうなったか、今では分かりません。また法音寺は明治に火災に遇いますが、観音様の「よど」は、その後も今に至るまで、絶えることなく村人によって、法音寺を提灯で飾って盛んに行われています。