徳童という地名
地名の初見と経過
徳童と云う地名は、何時頃から呼ばれたのでしょうか。手持ちの資料を調べてみますと、古くは厳浄寺の「観世音之縁起」に、延暦十七年(798)に建立されたと云う屏風山清水寺が、徳童に観世音像を贈った記事があります、これが最初のようです。
平安時代には、徳童を含む竹野新荘が、嘉承三年(1108)鳥羽天皇の荘園になります。この荘園を正応元年(1288)伏見天皇が受け継がれて、西大寺四王院に施入されます、その時の年貢は百十石とあります。
建久三年(1192)源頼朝が、征夷大将軍に任ぜられて、鎌倉に幕府を開きますと、将軍と御家人の主従関係が明確になります。
頼朝は御家人を、国々に置いて守護職に任じ、領内の治安と御家人の管理、京都大番の役を担当させます。郡・郷と荘園に地頭を置いて領内の治安と土地の管理、年貢の徴収を行なわせます。
弘安四年(1281)元寇の役が終わると、北条氏の権勢が強まって、全国守護職の半分を一門が掌握して、執権の得宗領を広げます。鎌倉幕府の末期になりますと、北條一門で全国の守護職の殆どを独占します。このとき竹野東郷は、北條高時の得宗領になります。
徳治三年(1308)の近藤文書によると、竹野東郷には、国分寺田字東坂、得同名、金丸名、田主丸名、清恒名、今永、小田が在ったと記され、徳童が荘園に粗み込まれている事が分かります。
元亨四年(1324)安芸道覚が嫡子貞鑑に、三池惣領分と竹野郡のうち得同名と金丸名の地頭職を譲るとの三池文書があります。
元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡します。
建武三年(1336)後醍醐天皇が吉野に入って、南北朝に分立します。
この年、足利尊氏が戦没士卒の亡魂を弔うため、竹野新荘が西大寺領である事を明確ににして、軍勢に宛行う事のないよう、筑後守護代九州探題一色範氏に令達しています。
この年、安芸貞鑑が嫡子貞元に、三池南郷惣領分と竹野新荘得童と金丸両名の地頭職を、譲与する文書が残っています。
暦応三年(1340)南北朝時代の初期、九州探題一色範氏が、次第に強力になってきた宮方を攻撃するため、大友勢に出陣を命じ竹野郡に滞陣して、生葉城を攻撃したので荘園が荒廃します。このため尊氏は竹野新荘に替えて、丹後志楽荘の地頭職を西大寺に寄進します。
永亨六年(1434)筑後守護職大友持直が、津久見兵部少輔・小河藤次郎・敷部弾正忠を竹野郡代職に命じます。これは荘園制度の地頭では、領内の支配が困難になった
事を物語っていて、この頃竹野東郷には兼本、得同、今永、松門寺、小田、金丸、国分寺田字東坂、田主丸名、清恒名、小河付があり、村の名に荘圃制度の名残である名の付く村付が少なくなって、村が領仁支配に移った事が分かります。
大永八年(1528)九月九日、五条良邦が大友義鑑から得筒村の内十町を与えられます。
五条氏はこの知行権を長く維持しています。下って天正十五年(一五八七)、竜造寺政家が五条鎮定に宛てた知行宛行状に、徳筒十町・寒田三町とあります。
元和二年(1616)竹野郡徳童に法音寺が開基します。この時から徳童と云う表記が定着します。
元和六年(1620)有馬豊氏が丹後福知山から久留米に入部しますと、竹野郡が柳川藩領(田中氏)から久留米藩領に替わります。この時の竹野郡の内容は、八十九ヶ村で石高は二万二千三百九十七石とあり、江戸期の徳童の村高は、元禄国絵図に百八十七石、天保郷帳で百九十七石余とあります。
宝永七年(1710)一月、徳童往還造出工事が始り、八月に巡見使が久留米藩を視察します。
享保五年(1720)六月耳納山麓に大山汐が発生して、大被害が起きます。
同十三年(1728)久留米藩で、夏物年貢改定に付いて、上三郡の農民が改定撤廃を要求して、城下に迫る騒動が起きます。藩疔は年貢増額を撤廃して解決しますが、後に首謀者が罰されます。
宝暦四年(1754)三月、久留米藩の人別銀の課税で、農民十万人が大騒動を起こしますが、「願いの通り仰せ付けらる」の御書渡で解決します。この後に首謀者が罰されます。
寛政元年(1789)藩庁の上三郡取調書に、徳童村人数百二十四人、牛馬十四頭、文化四年の耕地田二十七町余、畑田・畑二町余、作柄六俵半の田方、六俵の粟作、水利は大石・長野水道、豊後街道の中道通り添いの村とあります。
天保三年(1832)亀王騒動が起きます。原因は藩米売捌の命を受けた大庄屋が、代銀全額前納入のため生じた負債を、農民に負担させようとした事から、農民二千人が徒党を組み、大庄屋・庄屋・商人宅を襲って打ち崩す騒動が起きます。この騒動の後徳童で入牢・郡屋入と庄屋役差放・組構の処罰を受ける人が出ます。
町村合併
明治八年地租改正に伴い、徳童村、桧原村の今屋敷名、亀王村、蔵成村、八竜名を除く分地村、蔵八村、吉本村が合併して、秋成村が誕生。
明治二十二年四月一日、船越村、長栖村、鷹取村、秋成村が合併して、新しい船越村が誕生。
昭和二十九年十二月一日、田主丸町、船越村、水分村、水縄村、竹野村、筑陽村の一町五村が合併して、新しい田主丸町が発足します。