徳童、法音寺と天満宮
大悲山法音寺
寛文十年(1670)法音寺は、久留米藩庁の開基調べに、次ぎのように報告しています。
一、竹野郡徳童村禅宗大悲山法音寺、曹洞宗石屋派、本寺千光寺、当寺末寺無之候
一、当寺開元元和二丙辰年(1616)、山本郡千光寺八世縦寅和尚被取立、
当年迄五十五年
一、仏殿一宇二間半四間茅葺本尊薬師木像
一、観音堂一字二間三間茅葺脇立、不動・毘沙門、三体共木像
一、縁起・記録・宝物無御座候
一、寺法規式、二祖三仏忌三時之行事、無僻怠相勤申候
一、寺領無御座候
一、拙僧位無御座候
右之通、相違無御座候
寛文十年戊八月二十八日
竹野郡徳童村禅宗法音寺国伝
稲次八兵衛殿
育馬主計鷲
法音寺の創建について、上記報告の他に次のように記載された小石碑が、隅墓地に建っています。
碑文に、「倉富胤直君ハ徳童倉富本家二代胤久君ノ嫡子ナリ、十八歳ニテ没ス、胤久君深ク之ヲ悼ミ、其ノ追福ノ為、大悲山法音寺ヲ創建ス、時二延宝二年(1674)三月ナリ、胤直君ノ法諡ヲ大悲院浄安清居士ト云ウ」とあります。
この創建の日は、法音寺が藩庁に開基届を提出した日から、四年ばかり後のことなります。
故老の話に「法音寺はもと鬼経に在ったが、ある時今の場所に移った」と言っている事から、延宝に創建とあるのは、この移転を申しているようです。
法音寺は、その後明治四十一年に火災に遭って全焼し、過去帖一切を焼失して、同四十三年に再建されます。
平成十四年、最近着任された住職に、現在の〃ご本尊"をお尋ねしますと、阿弥陀如来との事で、開基の時の本尊薬師が、いつ阿弥陀如来に変ったのか分かりませんが、多
分倉富さんがお寺を移された時か、明治四十一年の火災の後ではないでしょうか、との事でした。
また夏の観音様の「よど」についてお尋ねすると、.「よど」は村の人達がお祭りしてあります、寺の主催ではありません。との答えでした。
観音堂
樋ノ口厳浄寺の「観世音之縁起」に、延暦十七年(798)に建立された屏風山清水寺で、三体の観音像を刻み、一作目を清水寺に、二作目を徳童に、三作目を石垣に安置したとあります。
法音寺の開基報告に、観音堂は二間三間の茅葺で、観音像と脇立に不動・毘沙の三体を安置とあります。この観音堂は法音寺の開基より凡そ八百年前に、屏風山清水寺から、徳童に贈られた観音像を祭ったお堂で、法音寺が現在地に移ったとき、観音堂は取り残されたか、取り壊されたか、一緒に移ったが明治四十一年の火災で焼失して、再建されなかったのか、明らかでありません。
しかし徳童では、村人が観音堂は無くても、昔のままに毎年七月十七日を"観音様の「よど」〃と称して、法音寺を提灯で飾り、浪花節師など招いていましたので、娯楽の少なかった当時村人は、観音様の「よど」を楽しみにしていました。
また厳浄寺の「観世音之縁起」に「冠村の清水寺から白い水を流したらその水が徳童と石垣に至った」とあります。
徳童には太古から、耳納山の伏流水が湧き出ていて、その湧水を求めて人々が集った集落が、徳童村の起源と思います。
最近この湧水が、段々涸れているように見えていました。ところが近頃行われた三津留川の護岸工事で、法音寺の裏の川底を掘ったところ、ポンプで吸い上げきれない大量の湧水が出て、護岸工法が変更されたと云う事で、徳童は今も「湧水の里」である事が、改めて実証されました。
天満宮と秋葉様
天満宮壱体木像、神殿九尺・二間茅葺、善神王弐体、拝殿二間・三間茅葺。
毎年十一月四日二祭礼仕候。於神前、御供・御酒奉備・祓祝詞読執行仕候。開元之時代知不申候。縁起・記録・宝物・末社無御座候。
私義位階不仕候。南部守合神道執行仕候。何流ト申儀不奉存候。
併セテ高良山大祝手下ニテ御座候。
稲次八兵衛殿
有馬主計殿
竹野郡菅村社人 小野甚左衛門貞次
徳童で天満宮を勧請した時期は明らかでありませんが・旧拝殿の前左に三抱え半もある実を付ける銀杏と、右に五抱えは有ると思われる太い銀杏がありました・太い方の銀杏は、近年白蟻が入って切り倒されましたが、何れも古い歴史を偲ばせる大木です。
また旧拝殿に掲げられた絵馬には、色が褪せて何の絵か判らない額が揚げてあって・杜殿創建の古さを物語っていました。
徳童の氏子は、古くから天満宮を、農耕の神と崇め、作物の成長と収穫の加護を願い・併せて家内安全と子供の生長を祈願しました。毎年十二月四日に、収穫を感謝する祭礼を執り行っています。また天満宮は同時長子村民の総意を諮る、神聖な会議の場でもあります。
宮の境内に、古くから日伏の神「秋葉様」が祭られ、毎年一月十七日に祭礼を行って、家々を火災からお守りくださいと祈願しています。
天満宮の祭礼と宮座
天満宮の祭は、昭和の初め頃までは、氏子の小学生が春に獅子廻し、九月二十四日に夏の「よど」、秋には堂篭りの火祭に奉仕しました。.
子供達は神事を勤める事で、村の行事の一端を担当して、大人に一人前の村人と認めて貰う事が、何よりの喜びでありました。
天満宮には九軒の宮座があって、宮田を輸番に耕作して、天満宮の神事に奉仕しました。この宮座は昭和二十二年の農地改革の施行に伴って解散しています。
解散時の宮座
倉富啓 野口一三 菊竹健一郎 倉富堅五
菊竹官三郎 野口与太郎 野口岩太郎 菊竹万作 以上。
新しい天満神社
徳童の新しいお宮には「天満神社」の額が掲げてあります
新天満神社は、昭和の初め氏子に改築の議が起こり、改築と決まって着工、昭和三年五月に落成します
近郷の天満宮
当地近郷の天満宮で、記録を残しているものを挙げてみまししょう。
祭神菅原道真公は、延喜三年(903)に没し、同五年従臣味酒安行が、廟所に天満宮安楽寺を建立します。西暦四年(993)公に正一位太政大臣が贈られて、「学問の神様」と崇められます。
当地で天満宮が勧講された時期は、平安末期平氏が台頭し始めた頃からで、近郷の天満宮に次の記録が残っています。
行徳天満宮御神像台座に次の刻文が残されています。
保延年中(1135〜)勧請する。
延文年中(1356、)大友勢が乱入して、御像などを奪った。
文明十八年(1489)安楽寺法印により再建され、御神像を安置する。
天文十四年(1545)修理を行う。
北野天満宮
仁平二年(1152)天満宮の田楽政所職に、徳有法師が補任される。
鹿狩天満宮
文治二年(1186)草野永平が天満宮を勧請する。
野田天満宮敷板に刻文が残されて、建保四年(1216)「御原郡岩田荘司累代之所願而建保四年之創立也」岩田七郎が創建する。
村島天満宮
正応三年(1290)善三衛門が天満宮を勧請する。