菊池武重と菊竹茂手木

 菊池武重

 菊竹茂手木光伸を、徳童に派遣した菊池次郎武重は、どんな人だったでしょうか。彼は菊池十二代武時の嫡男で、武時戦死の跡を継いで、菊池十三代の当主になります。
 元弘三年(1333)三月父武時が、鎮西探題北條英時を襲撃するに際し、戦死を覚悟して、再起のために嫡子武重を国許に帰します。
 肥後に帰った武重は、探題軍の追討を受けますが、密かに一族を率いて東上して、新田義貞の軍に入いります。
 元弘三年五月鎌倉幕府が亡び、六月後醍醐天皇が京都に還幸されて、建武元年(1334)十月、天皇親政の建武中興がなります。
 建武二年(1335)十月、足利尊氏が謀反を起して鎌倉に下ります。新田義貞が尊氏討伐に向いますが、途中で大友貞載の寝返りに遇って、京都に引返します。菊池黄重はこの引揚軍の殿軍を勤め、追撃してきた足利直義軍を、急造の千本槍で戦って箱根から撃退します。
 延元元年(1336)一月、武重は京都に攻め入ってきた尊氏軍を迎撃して、大渡橋の戦いで大叔父菊池武村を失います。
 京都に入った尊氏は、新田・北畠・楠木・名和の攻撃に遇って破れ、二月九州に落ちます。
 この年の四月、九州に入った尊氏は軍勢を整え、大友・小弐・島津を中心にした二十万の大軍を率いて、海・陸両道から攻め上ります。
 五月、氏重は大江田氏経と五百余騎の勢で福山城に籠もり、三十万に膨れ上って攻め上る尊氏軍を迎撃します。尊氏軍は「小城一つ捻り潰ぶせ」と、十重二十重に城を囲みます。この時武重は突如城門を開いて、目の前の敵に突撃して道を開き、長躯して岡山の三石まで一気に走って、新田軍に合流します。
 新田義貞は神戸で、攻め上る尊氏軍を迎へ撃ちますが敗れて、京都に引き返します。この戦いで寡兵よく戦った楠木正成も敗れて、湊川で自刃します。このとき武重の弟武吉も、正成と一緒に自刃しています。
 この年の九月後醍醐天皇は、懐良親王を征西大将軍に任じて、九州に派遺する旨を、九州の武士達に伝えられます。
 十二月後醍醐天皇は、尊氏が幽閉した京都の花山院を密か衣出られて、吉野に移られます。ここに「一天に二帝を戴く」南北朝時代が始まります。
 花山院の警護に就いていた菊地武重は、天皇から「九州に帰って南朝の勢いを盛んにせよ」との御沙汰を戴いて京都を発ち、延元二年(1337)の初頭肥後に帰着します。
 先に足利尊氏が九州から攻め上る時、一族の一色範氏を九州探題に任じて残し、侍所に佐竹氏義、監代に小俣道剰、仁木義長と一色頼兼を大将にして、松浦党を与えます。
また東上に際し、探題一色範氏が九州を統治するのに邪魔になる、少弐・大友・島津の豪族を引連れて東上します。 
 この時筑後守護職少弐頼尚は、問註所康行に竹野郡を与えて東上しますが、生業・竹野・山本の上三郡は、守護職不在の穀倉になります。
 肥後に帰った武重は、守護職のいない筑後上三郡の穀倉地帯を手にして・大宰府に進攻し、征西将軍懐良親王を迎えて、九州に号令しょうと考えました。

 菊竹茂手木、 徳童に入る

 武重は、大宰府進攻を達成するには、この作戦に寄与できる老練な武将を、上筑後に在住させる事が緊要と考えました。そこで全族の中で思慮深く・鋭い洞察力と判断力を持ち、気宇盛んな菊池茂手木を、これに当てようと考えました。
 彼は茂手木を呼んで現下の情勢を語り、後醍醐天皇の宣旨の趣を伝え・大宰府進攻するには、穀倉上三郡の確保が是非と必要と述べ、「貴殿は上筑後に進駐して・進攻作戦が成功するよう、格段のお働きをお願いする。同時に菊池・星野の協同作戦が円満に進むよう、配慮されたい」と命じました。
 茂手木は、延元二年(1337)早春、一族郎党を伴って、菊池の里を発して上筑後に向いました。
 茂手木は、次の事項に気を配って、徳童を屋形と定めます。
 一、戦場になるであらう耳納山麓を避け・広い農地と豊富な湧水が出ること。
 二、上三郡を東西に走る中道に添い、三津留川に沿って舟が使えること。
 三、古い観音堂があって、参詣人が多く情報が得易いこと。
 四、屋形の守りは、
北の三津留川と南の巨瀬川が外堀になり、湧水池が内堀になる。
中道に屈折を設けて、騎馬武者の直進走行を阻む。
屋形を塀で囲んで、表と裏に脇戸付きの門を設ける。
郎党の屋敷は、就農と防衛を考えて配置する。

 菊池茂手木光伸は徳童に入って、姓を菊竹茂手木光伸と改めます。
 茂手木光伸と云う人は、世に軍師と云われる戦略家で、本陣に在って謀り事を巡らし、勝を戦場に挙げる知略の人でした。
 この時期この場所に、智謀の軍師茂手木を送った武重は偉かったが、選ばれた茂手木も立派な人でした。

茂手木は徳童に落着くと、早速武重の親書を持って、武重の岳父星野実秀を訪ねました。彼は徳童に派遣された趣旨を言上して、これから開始される筑後進攻作戦に、星野と共に粉骨砕身戦う旨を上申し、星野の武将と懇談して、作戦の成功を誓い合いました。

 武重、上筑後に戦う

 延元三年(1338)正月、武重は穀倉の上筑後を掌握するため、武敏が籠もった石垣城に入ります。この時一色範氏の九州支配を、心憎く思っていた少弐頼尚の大叔父で御船城主の武藤資時が、茂手木の誘いに応じて、一族を率いて石垣城に入ります。
 足利尊氏は、九州宮方の活発な動きに驚き、少弐頼尚を筑前・豊前・肥後の守護に任じて大宰府へ、大友氏泰に豊後と肥前を与えて帰し、一色範氏を援護させます。
 三月探題一色範氏は姪ノ浜城を出て、少弐軍に松浦党を加えた大軍を従えて、石垣城と鷹取城を包囲しました。
 大軍に囲まれた武重は、この時中央突破作戦を決意します。敵軍は多勢を頼んで城を囲み、攻開始の命令を待っていました。そのとき城門が一斉に開いて、鬨の声とともに怒涛の勢いで襲い掛った菊池軍に、探題軍は成す術もなく道を開き、一色範氏が返せ!返せ!と叱咤する声も聞かばこそ百五十ばかりの死体を遺して、筑後川へと退散しました。

 四月武重が、肥後国府の今川助時を急襲して破ると、宇都宮隆房が菊池に降ります。八月武重が生葉の星野の妙見城に入ると、高良山に陣した大友時氏が、石垣城と妙見城を囲もうと画作します。これを知った武重が、新田・名和・宇都宮・天野の一万余騎で高良山を急襲しました。
 予期しなかった菊池の急襲に、大友氏時は家臣戸次氏季と新開萬輔に助けられて、漸く豊後に逃げ帰りますが、両家臣は戦死します。
 十月、象に少弐頼尚が大軍を率いて肥後に進撃しました。これを見た武重は北上して、竹野郡中尾の小清水山と畑城(田主丸町)に入って、少弐の大軍を迎え撃ちます。この戦いは両軍烈しく激突する戦いになりました。

 この戦いの後菊池武重の勇姿を戦場で見掛けることは、出来ませんでした。武重はこの年の暮に、二十六か七で亡くなったと思われています。

 禅師大智と武重

 武重は先に禅師大智から教えを受けます。禅師大智は肥後字土郡長崎村の出身で、能登の総持寺で修行の後、正和三年(一三一四)「元」に渡って学び、三十五、六歳の頃帰朝して、北陸加賀に祇陀寺を建立して修行している時、新田義貞の紹介で、武重は大智と出会います。肥後に帰った武重は、延元三年国見山に鳳儀山聖護寺を建立して大智を招聘します。
 武重はこの年、菊池家の家訓「寄合衆の内談の事」を制定します。
 寄合衆の内談の事
 一、天下の御大事は、内談の議定ありというとも、落去の段は、武重が所存に落ち着くべし
 一、国務の政道は、内談の議を尚すべし。武重すぐれたる議を出すとも、管領以下の内談衆一同せずば、武重が議を捨てらるべし。
 一、内談衆一同して、菊池の郡において、堅く畑を禁制し、山を尚して、茂生の樹を増やし、家門正法とともに、竜華の暁に及ばんことを念願すべし。謹んで、八幡大菩薩の名照を仰ぎ奉る。
   延元三年七月廿五日藤原武重(花押血判)

 九州探題一色範氏

 九州探題一色範氏の領地は筑後でしたが、半分は宮方が占領しているので、実収入は瀬高荘だけで、探題館は博多の聖福寺に仮住していて、館の日常経費の支出さえ苦しかったようでした。さらに探題として統制上大切な、裁判権が与えられていなかったので、守護、地頭かろ軽く見られ、討伐勢を召集しても予定の勢が集らず、出陣命令さえ拒否される有様だったと云います。
 このような有様だったので、範氏は度々尊氏に探題退任の願いを提出しましたが、その都度却下されていました。

 菊池武敏

 菊池武重が没した跡、庶子弟の菊池九郎武敏が、菊池軍団の指揮を執ります。武敏は武重の喪の延元四年中は兵を動かしませんでした。その撰題勢が小清水や畑城に攻め寄せましたが、菊池勢が城を固く守って戦わなかったので、探題勢は深追いせず引上げました。
 興国元年(1340)六月、武敏は得意とする騎馬隊を率いて、筑後豊福原の一色軍を急襲し、北野の赤司に走らせて軍を返し、生葉・竹野の探題勢を襲って博多に走らせます
 この武敏の攻勢に驚いた探題範氏は、尊氏に御教書を乞い、九州の武将を招集して、神社.仏閣に戦勝祈願を行わせ、探題軍の陣容を建直します。
 翌二年、陣容を新たにした探題軍が、生葉城の宮方軍に激しく攻掛かって来ました。文語の大友氏は泰は、この攻勢に紛れて問注所の生葉領に侵入し、さらに竹野郡の四郷に入って奪取します。
 興国三年(1342)、征西将軍宮懐良親王が薩摩谷山城に入ると、宮方の攻勢が烈しくなります。これに驚いた尊氏は大友氏泰に、至急生葉庄の宮方勢を討伐せよと命じますが、大友方の戦意は揚がらず、出陣を渋る武将が出る始末でした。
 怒った尊氏が「出陣命令に従わぬ者は、即刻処断せよ!」と厳命したので、上筑後の戦は一層烈しくなります。武敏は星野と合力して生葉城に入り、宮方勢を強化します。
 翌年五月になると、探題軍は大友方の田原直実を加えて、溝口・生葉・石垣・善院の宮方を攻撃します。
 この頃茂手木は、小勢の宮方が如何にして多勢の探題軍に、勝利するかと思索を巡らし、寡を以って衆を制する戦術を、機を捕らえて武将達に献策していました。

  玖珠城主大友貞順

 玖珠城主大友貞順は、探題一色範氏が尊氏の威勢を笠に、臣下扱いに指図する事に、憎悪の念を抱いていました。鎌倉以来の豪族大友氏を、これを感じた茂手木が、玖珠城に貞順を訪ね、懐良親王が薩摩に入った事、これから動く戦局の推移を語り、共に征西将軍宮の九州制覇実現に、力を合わせようと勧めて、両者の協力が成ります。
 興国五年(1344)三月、玖珠城主大友貞順が、宮方に変身して妙見城に入り、探題一色範氏に叛旗を掲げます。探題範氏は尊氏に「生葉庄兇徒討伐の御教書」を催促して兵を集め、六月に妙見城を落としますが、九月大友貞順と武敏が合力して、生葉城に蜂起します。
 探題範氏は、肥前の深堀時広に出陣を命じ、合わせた大軍で、阿弥陀ヶ峰.芋川城.牛鳴山を攻め落として、博多に引揚げますと、宮方はまた生葉城に蜂起します。

 菊池武光と菊池本城の変

 菊池武重が没した跡を、嫡腹の菊池又次郎武士が十四代を継ぎます。武士は、一族を統率して戦う資質に欠けた人で、庶子筋から惣領の責任を追及されていました。興国五年武士は、弟の乙阿迦丸を養子にして、十五代当主を譲って隠退し、「器量の仁」に惣領を譲ると宣言して、僧籍に入ります。
 この頃、大友勢が菊池領内に侵入します。興国六年(一三四五)筑後の吉木一族が探題方に変心したので、菊池武豊が攻撃に出ますと、その留守に合志幸隆が深川城に侵入して奪います。
 驚いた豊田庄の十郎武光が、阿蘇惟澄の援助を受けて奪還し、十六代の惣領を継承して菊池武光と名乗ります。
 大友貞順は、菊池家に起きた事件を聞いて動揺したようで、尊氏と兄の氏時から、度々受けた帰還説得に応じて、玖珠城に引揚げました。尊氏は貞順の味方復帰を喜んで、玖珠城主に安堵します。
 
 菊竹茂手木斃る

 この頃茂手木は、目まぐるしく変化する戦局の中で、体調を壊し病床に臥していましたが、大友貞順が宮方を離脱したと聞いて、「俺が元気なら帰さぬものを」と、口惜しそうでした。
 貞和三年(1347)三月、茂手木光伸は徳童に入って十年余、激変する時局の中を東奔西走して宮方に力を尽くし、心身の休まる暇のない毎日が続く半生でした。
 この年、知略の将茂手木光伸は、多くの人々に惜しまれながら、薄かに永眠しました。.享年五十歳。
 この後、正平十六年(1361)菊池武光が、征西将軍宮懐良親王を奉じて大宰府に入り・征西府を開いて九州に号令します。この征西府の開設は、菊池武重と菊竹茂手木が、只管念願して筑後の戦野を駆け巡ってから、二十四年の歳月が経っていました。
 征西府が開かれて長く続いた戦乱が収まり、九州に平和が戻ってきました。この平和は、武重と茂手木が念願した戦が、漸く実を結ぶに至ったものと云えましょう。