禅定尼と比丘尼滋春

 禅定尼

 徳童隅墓地の菊竹家先祖墓の基壇上に、次の三基の墓碑が建っています。
 菊竹茂手木妻
   貞和三亥年
 菊竹茂手木墓
   九代之孫建之
 建徳二年七月初九日
○帰一自雲知性禅定尼

この三基の内、○帰一自雲知性禅定尼の碑は、鎌倉時代の姿をした高さ一米程の古い墓石で、俗名と建てた人の名が刻まれていないので、禅定尼とはどんな人であったか、推理してみましょう。

茂手木と禅定尼の推定生年と没年

碑名 推定生年 徳童入り年齢 没年
茂手木 永仁五年(1297) 延元二年(1337)
推定四十歳
貞和三年(1347)
推定五十歳
禅定尼 元享元年(1321) 同年
推定十六歳
建徳二年(1371)
推定五十歳


 右の表から禅定尼は茂手木二十四歳の娘と云う事になります。
 彼女は幼少の時期を、肥後の水清い菊池の里で、茂手木夫妻の愛情に包まれ成長します。
 延元二年(1337)の早春、禅定尼十六歳の春、父茂手木は一族郎党を引き連れて、筑後国竹野郡徳童村に移住します。この時父茂手木は四十歳でした。

 禅定尼と上筑後の戦い

 禅定尼が徳童に移住して間もなく、菊池武重は上筑後に進出して、石垣城に入ります。
 武重が上筑後に進出したと知った九州探題一色範氏が、大軍を率いて石垣城に攻め寄せるとの知らせに、茂手木は一族郎党を率いて石垣城に入城しますと、九州探題一色範氏の大軍が石垣城を包囲しました。
 武重は一色軍の配備を見て、一挙に城兵一丸となって出撃し、烏合の探題軍を撃ち破ろうと決心しました。
 武重は城兵を集めて出撃の部署を定め、太鼓を合図に城門を開き、武重を先頭に鬨の声と共に、怒濤の勢いで一色軍に突撃して行きました。
 探題軍は多勢を頼み、城攻め開始の指図を待っていた処に、予期せぬ菊池軍の猛攻に、成す術もなく道を開き、一色範氏が返せ!返せ!と、叱咤する声も聞かばこそ、百五十ばかりの死体を残して、筑後川方向に退散して行きました。
 戦いが終って、徳童に帰った若者達が、緒戦の手柄話を誇らしげに、若い娘達に語ってくれます。当時まだ十六歳の禅尼は、住み慣れた菊池の里を離れて、まだ慣れぬ徳童に移ったばかりで、気持の落ち着かぬ、心寂しい多感な乙女でした。
 いま若者達が語る戦さ話は、彼女には唯虚に聞こえて、何故か討死にした敵の若者が哀れに思えて、その子を失った母が可哀想で、なぜ殺し合うのだろう、どうして殺すの、なぜ殺さねばならないの、と小さな心を痛めました。
 その後徳童には、暫く戦いの話が遠のいていましたが、暑い夏が過ぎて秋の収穫が始まるころ、少弐の大軍が竹野郡に攻め寄せてくるとの知らせに、菊池武重は肥後を発って、急遽中尾の畑城(田主丸町)に入り、攻め寄せてくる敵に備えました。
 少弐頼尚は、先に一色勢が石垣城合戦に敗れた復讐と、大軍で攻め掛かって来たので、烈しい戦いになりました。菊池軍は小勢ながら、武重が良く指揮して、少弐軍を追い返しました。
 この戦で、先の石垣城の戦で手柄話をした若者が、重傷を負い楯に乗って帰って来ました。
 驚いた村人達が集って騒ぐなか、戦場の傷に手馴れた老人が、手早く手当をしてくれたので、一先ず平静を取り戻しましたが、手当の間だ愛し子の傷を気づかって、傍を離れぬ母の心配げな様子が、周囲の人達に感ぜられて、言葉に出ない同情と、母心の痛々しさが察せられて、静かな部屋に重い空気が漂っていました。
 若い彼女も村人に混じって、看護の手伝をしましたが、その甲斐もなく明け方若者は、とうとう亡くなってしまいました。
 初めて人の死に立ち会った彼女は、人の命の優さと死の重さ、残された母の歎きを目にして、彼女の足は何時の間にか、部屋から観音堂に向かって、観音様の前で静かに掌を合わせていました。

 禅定尼と大智

 彼女の悩む姿を見た茂手木夫妻は、武重が建立した菩提寺鳳儀山聖護寺に、禅僧大智を訪ねるよう勧め、一書を持たし従者を付けて旅立たせました。
 聖護寺は筑後と豊後・肥後三国の境にある、国見山の山懐に抱かれた竜門朴木村の、深山幽谷の地に在りました。
 禅尼は、静寂な山寺の聖護寺を訪ねて、父茂手木の手紙を添えて入門をお願いしました。大智は禅尼の話を聞いて修行の厳しさ語り、彼女の並々ならぬ決心を知って入門を許しました。
 彼女は、初めて会った大智の、心の底まで見抜きそうな温かく深い眼差し、一切の悩みを包み込むような人柄、穏やかな中に秘めた叡智に敬服して、教えの捉を守って、一心に修行しょうと決心しました。
 
 これより先菊池武重は新田義貞の紹介で禅師大智と出会います。武重は大智の大きな人柄に敬服、以後大智を菊池一門の精神的中核の人と尊敬して、聖護寺を建立して肥後に招聘していました。
 禅尼は聖護寺に入山して大智の教えを受けて、僧形の尼になります。
 それからの彼女の修行は、周囲の人が驚く程真剣でした。払暁座禅して心を清め、読経して道を探り、滝に打たれて迷いを払い、先達の尼僧に教えを乞い、悟を求め修行する毎日が、何年も続きました。
 修行の期間、大智の傍に在って修行する禅尼は、若い日の思いや考えが、大智の人柄と聖地聖護寺の清浄な寺風に導かれて、「もの」を見る目と考え方が、次第に成長して
ゆくようでした。
 禅尼はその後大智の許しを得て、宝満山や英彦山の霊場を訪ねて修行を重ねます。禅尼は霊場の修行で、霊山の霊気に触れ霊感を感じる尼僧になり、更に修験の道を極めて、遂に禅定の境地に達しました。
 このように修行を積み重ねた禅尼は、墓石に刻まれた「○帰一自雲知性禅定尼」の通り、流れる雲のような広い知性と、人の心を安らげる円満な徳、困難に立ち向って弛めぬ強い心を身に付けた、禅定尼になったのであります。
 彼女は一心に若者の冥福を祈りました。拝んでいると何時の間にか、苦しい思いが、安らかな気持に変ってくるようでした。
 この戦いの後、水縄山麓一帯で宮方と武家方の戦いが何時までも、何時までも続いて、若い乙女の心を苦しめ続けました。禅定尼の弔問の旅
 このところ世の中を見回すと、何時までも止む事なく戦いが続いて、戦場に夫を亡くした妻、子を失しなった母の嘆きが、絶えませんでした。
 禅定尼はこの有様を見聞する度に、これら不幸な人々をなんとか救いたいと、思うようになり、不幸な人々を訪ねて話を聞いて、共に不幸を嘆いて悲しみ、一緒に亡き人の菩提を弔って冥福を祈りました。
 禅定尼の慰問は、不幸を嘆く遺族に心の安らぎを与えました。この慰霊の旅は禅定尼にとっても、大切な修行でありました。
 こうした禅定尼の慰霊の旅は、誰にも妨げられず、憚ることなく続けられ、遣族には禅定尼の来訪を待つ人が増え、また禅定尼を訪ねて来て、心の安らぎを求める人が増えてきました。

 父茂手木を喪う

延元の頃、菊池と阿蘇宮司に、薩摩谷山城の懐良親王から、北上のご意向が伝えられます。一方足利尊氏は京都室町に幕府を開き、九州探題一色範氏軍を増強して、上筑後の攻勢を強めます。
 この頃茂手木は、玖珠城主大友貞順を、宮方説得に成功します。大友貞順は妙見城に入って一色探題に叛旗を揚げて、菊池武敏と共に探題軍と戦います.この頃菊池家では、当主菊池武士が惣領を引退して僧籍に入ります。
 筑後では吉木一族が宮方を離れて武家方に変身したので、菊池武豊が討伐に出た隙に、菊池の本城が会志幸隆に奪われます。菊池竹光が菊池本城を奪還して菊池家の当主になります。
 このように急激に変化する情勢の中で、茂手木は心身の疲れから、体調を崩して臥すようになっていました。禅定尼の弔問の旅
 このところ世の中を見回すと、何時までも止む事なく戦いが続いて、戦場に夫を亡くした妻、子を失しなった母の嘆きが、絶えませんでした。
 禅定尼はこの有様を見聞する度に、これら不幸な人々をなんとか救いたいと、思うようになり、不幸な人々を訪ねて話を聞いて、共に不幸を嘆いて悲しみ、一緒に亡き人の菩提を弔って冥福を祈りました。
 禅定尼の慰問は、不幸を嘆く遺族に心の安らぎを与えました。この慰霊の旅は禅定尼にとっても、大切な修行でありました。
 こうした禅定尼の慰霊の旅は、誰にも妨げられず、憚ることなく続けられ、遣族には禅定尼の来訪を待つ人が増え、また禅定尼を訪ねて来て、心の安らぎを求める人が増えてきました。

 父茂手木を喪う
 
 延元の頃、菊池と阿蘇宮司に、薩摩谷山城の懐良親王から、北上のご意向が伝えられます。一方足利尊氏は京都室町に幕府を開き、九州探題一色範氏軍を増強して、上筑後の攻勢を強めます。
 この頃茂手木は、玖珠城主大友貞順を、宮方説得に成功します。大友貞順は妙見城に入って一色探題に叛旗を揚げて、菊池武敏と共に探題軍と戦います。この頃菊池家では、当主菊池武士が惣領を引退して僧籍に入ります。
 筑後では吉木一族が宮方を離れて武家方に変身したので、菊池武豊が討伐に出た隙に、菊池の本城が会志幸隆に奪われます。菊池竹光が菊池本城を奪還して菊池家の当主になります。
 このように急激に変化する情勢の中で、茂手木は心身の疲れから、体調を崩して臥すようになっていました。正平元年(一三四六)大友貞順が、突如宮方を離れて玖珠城に帰ります。この事を病床で聞いた茂手木は「俺が元気なら引き留めたものを」と口惜しがっていました。この大正平元年(一三四六)大友貞順が、突如宮方を離れて玖珠城に帰ります。この事を病床で聞いた茂手木は「俺が元気なら引き留めたものを」と口惜しがっていました。この大友貞順の難脱が、父の命を縮めたようでした。
 貞和三年(1347)三月、父茂手木は禅定尼に見守られ薬石の効もなく、人々に惜しまれながら享年五十歳で亡くなりました。
 急を告げる筑後の戦局は、茂手木の活躍を期待していただけに、彼の死は多くの人々に惜しまれました。この年の十一月懐良親王は谷山城を出て菊池隅府に向われます。
 禅定尼は父茂手木の死を看取ってから、父の命を奪った戦を厭うようになりました。彼女は母や一門の長老に、戦いを止めて農事に就くよう頻りに勧めます。この勧めは一族の考えを次第に帰農の方向に動かし、段々就農する者が多くなってゆきました。
 禅定尼の遣族慰問の旅は続き、戦に難れた遣族を訪ねて、不幸な人々の心を痘し、多くの人々から敬まわれ慕われました。
 建徳二年(1371)七月、慰霊を勤めた禅定尼が亡くなりました。享年五十歳。多くの人に借しまれる一生でありました。
 この年の十二月、九州探題今川了俊が、大軍を率いて九州に上陸し、翌年八月大宰府の征西府の攻撃を始めます。武光は懐良親王を奉じて戦いましたが、敗れて高良山に退きます。
 戦が嫌いだつた禅定尼が、この大きな修羅を見なかった事は、後世の私達に取って、救われる思いがいたします。
 さて禅定尼は生前、修行と遺族慰問に明け暮れて、父茂手木と母と一諸に過ごす時間が少なく、没後に漸く父母の膝下に帰る事が出来たのであります。

 比丘尼滋春

 比丘尼滋春は、菊地武時の夫人で武重の母堂であります。
 夫武時は元弘三年三月十三日、一族二百五十余人を率いて鎮西探題北條英時の館を襲撃して玉砕します。
 この日の武時の襲撃は、大友・小弐が約束を破った事から、単独で決行したのでありました。

 夫人滋春は夫武時が、菊池を発ったのは、鎮西探題から「地頭・ご家人、博多出頭せよ」、の触れで、一族を引連れて出向いたもので、要件の済み次第帰ってくると思っていました。ところが国許に届いた知らせは、
   故郷に今宵ばかりの命とも
       知らでや人の我を待つらむ
 の一首と、「一族全滅」の悲報でした。
 この知らせを聞いた慈春は、涙している暇はありませんでした。直ぐに攻め寄せてくる探題の追討から、一族を守らねぱなりませんでした。
 この事件があった十三日の午後、事件を知らずに博多に向かっていた、武重の幼児と若衆十余人が、筑後横隈で探題方に捕えられて討たれます。
 十七日には、豊前の規矩高政が、肥後の地頭と御家人を率いて、菊池城を攻撃、その一隊は阿蘇大宮司惟直館を襲って焼きます。
 十八日、大宰府政庁では、菊池入道導空等三十五人が、大友勢に捕えられて討たれます。
 肥後に帰った武重と阿蘇大宮司惟直は、日向境の鞍岡に篭って戦いましたが、敗れて跡を晦らまします。
 
 慈春は菊池城の戦いの後、佛門に入って比丘尼慈春と称し、聖護寺に尼寺を建て、戦に発れた一門の菩提を弔い、不幸になった女性達の、心の安らぎを求めて寄合う場にしました。この頃は烈しく続く戦いで、父や兄弟・子を失う不幸な女性が絶えませんでした。武家の男子は戦場に散り、残った女性は戦いの蔭で泣く時代でした。このような不幸な女性の中には、尼僧になって亡き人の菩提を弔う人、または仏に帰依する篤信婦人が増えていました。
 その後、正平十二年には菊池武澄夫人が、武澄の没後了悟尼になって、広福寺を建立して、夫と戦いに発れた人々の菩提を弔らいます。