中世、周辺の群雄たち
肥前の竜造寺氏
文治二年(1186)の源頼朝下文に、肥前北部の土豪南二郎季家に、「神埼郡住人海六大夫重実」の横暴を非として、「肥前国小津東郷内竜造寺村地頭職を与える」とあります。南二郎季家は、竜造寺村末吉名の名主的規模の小領主で、この人が竜造寺氏の初代と云われています。
竜造寺氏は代々少弐氏に仕えます。文永十一年(1274)の元冠役のあと、暮府は九州の御家人に、博多防塁石築地の築造を命じます、
「北肥戦記」に石築地普請に当たった、肥前の武士の中に、竜造寺左衛門尉季益の名があり、「竜造寺文書」に、竜造寺小五郎家清が、弘安五年から七年まで、異国警固番役を勤めたとあります。
鎌倉幕府の末期、竜造寺家泰は少弐貞経に従って、筑前の鎮西探題北隻時討伐に参加します。
建武二年(1335)足利尊氏が、新政府に叛旗を掲げると・肥前守護大友貞載がこれに応じて、肥前のの御家人を動員、竜造寺孫六入道実善がこれに応じています。松浦党は菊池武敏に加担しますが、多々良川の合戦で、尊氏方に寝返ったため菊池武敏が敗れます。
暦応元年(1338)竜造寺家種は、九州探題一色範氏の、軍勢催促に応じて出兵し、少弐頼尚に属しで、菊池武重と筑後竹野郡中尾で戦います。
延文四年(1359)大保原の合戦で、竜造寺・高木・草野は、少弐頼尚に属して敗れ。波多.後藤.稲佐は懐良親王方の菊池武光に従って戦います。
応仁元年(1467)応仁の乱が起きると、少弐教頼は東軍に応じます。大内政弘は西軍に応じたので、肥前で複雑な争乱が起きます。これを総括すると・大内氏が援助する九洲探題渋川氏に従う、肥前東部の武将と、少弐氏に従う神埼以西の武将の、二つの集団の争いに見ます。
応仁の乱が終わって、大内義弘が山口に帰り、九州の旧領回復の軍を進めますと、肥前では大内の勢いが強まります。
明応六年(1497)、大内義興が大軍を率いて、少弐政資を大宰府に攻めて肥前に追います。少弐政資は小城晴気城に逃れて多久で自刃し、嫡子高経も佐賀の里で自刃します。
残された幼少の資元は、少弐家臣の小田・馬場・江上・竜造寺に、護もられて成長しますが、少弐家の衰えは隠せず、鎌倉以来の盟友大友と詰ぶほかありませんでした。
永正元年(1504)少弐資元は、大友に謀反して妙見城に籠もる星野重泰攻めの援軍に、竜造寺胤知を筑後に派遣します。
この頃小弐軍の主力にまで成長した竜造寺一門の、家兼・家純・家門と、鍋島・小田・馬場勢が、肥前に進攻してきた大内義興の千葉興常・杉興運と戦って、神埼地区から追い払います。
少弐家の衰えに比べ日増しに勢を増してきた、竜造寺一門の台頭を怖れた、少弐一族の馬場頼周が、家兼の子の家純・家門と孫の周家・澄家・頼純・家泰を誘い出して謀殺します。このため家兼は一度に六人の家族を失います。.
その後、竜造寺本家の当主胤栄が没したので、周家の子胤信が、本家の娘以登の婿養子に入って、竜造寺本家を継ぎます。
天文十九年(1550)胤信は、大内義隆の敷奏によって、山城守を号し竜造寺隆信と改名して、大内義隆と結び、肥前・筑前・筑後に勢力を伸ばして、肥前全土を平定します。
九州北部を手にした隆信は、島津・大友と九州を三分する大勢力になり、五州二島の太守と誇称して武威を誇ります。
天正十二年(1584)三月義惟、北上を続ける島津と雌雄を決して・九州の覇者にならうと、島原で島津家久と戦って戦死します。
大宰府の少弐氏
少弐氏の三代経資は、肥前.筑前・豊前と対馬・壱岐を領する三前二島の太守として、元寇の役に日本軍を指揮して戦います。
鎌倉幕府の末期に菊池武時が、博多の鎮西探題北条英時館を、襲撃して敗れ憤死します。このとき盟約を破った小弐は、その後菊池と袂を分かって、足利尊氏に随身します。
九州における南北朝の決戦、大保原合戦で、少弐頼尚は北朝軍を指揮して、征西将軍宮懐良親王を戴く菊池武光と戦って敗れます。
応仁の乱が起きると、少弐`大友は細川勝元の東軍に属し、.大内政弘は京都に上り、山名宗全の西軍の主力になって戦います。
少弐教頼と大友親繁は、大内政弘が上京している留守に、豊前と筑前の大内の城砦を攻略しますが・応仁の乱が終ると、大内政弘は豊前の旧領を回復して、少弐政資を筑前に追います、少弐政資は大内軍の陶広仲と箱崎で戦い、箱崎宮が炎上します。
明応六年(1497)大内義興が大軍を率いて、少弐政資を大宰府から肥前に追います。政資は多久専称寺で、高経は佐賀郡の里で自刃し、政資の弟千葉胤資は、小城晴気城で戦死し、少弐家中興の望みは消えます。
かくて幼少の資元は少弐の家臣、馬場・小田・宗・江上.竜造寺に守られて成人しますが・これからは鎌倉からの盟友大友と手を結ぶほか、生き残る道はありませんでした。
資元は大友政親の娘と結婚し、資元の跡を冬尚が継ぎますが、宿敵大内と戦いを繰り返して、次第に衰退してゆきます。
中国の大内氏
大内義弘は、明徳二年(1391)明徳の乱の功で、周防・長門・石見三国に、和泉・紀伊を加えた、五ヶ国の守護に任ぜられ、大宰大弐に栄進しますがその後、幕府と堺で争って敗死します。幕府は義弘の跡を弟の盛見に継がせます。
応永十年(1403)幕府は、大内盛見を豊前の守護職に任じ、九州探題渋川満頼の後見と、博多の管理を命じました。九州に足場を得た盛見は、実質筑前を掌握して、博多を基地に勘合貿易を独占します。
正長元年(1428)盛見は、少弐満貞を追って筑前守護職になります。
永享三年(1431)盛見は九州に起きた、土一揆鎮定に出陣中、小弐満貞と大友持直に襲われて戦死します。
永享五年(1433)大内持世は、小弐満貞を秋月城に攻めて討ち、少弐資嗣は肥前与賀庄の戦で戦死します。
応仁元年(1467)応仁の乱が起きると、大内政弘は京都に上り、西軍山名宗全の主力になって戦います
文明六年(1474)応仁の乱の末期、政弘は幕府に降伏します。幕府は大内政弘に周防・長門・豊前・筑前と石見・安芸を買いとらせて、知行を安堵します。
同九年政弘は・山ロに引き上げ、九州所領の奪還を急ぎ、翌十年に豊前と筑前の旧領を回復します。
明応六年(1497)・大内義興が大軍を率いて大宰府に攻め込み、少弐政資と高経親子を肥前に追い,
政資は多久専称寺で、高経は佐賀郡市川の里で自刃しますと大内義興の肥前進攻の勢は一段と強まります。
文亀三年(1503)義興は、前探題渋川教直の子尹繁を、九州探題に復職させて肥前園部城に入れ、筑前守護千葉興常を、肥前に進めて東肥前を固め、下筑後に陶美作守を派遣して国人黒木・川崎・星野を味方に、上筑後に進出を図ります。さらに南の肥後に語り掛けると・大津山・大野などの国人衆が靡きます。かく大内義興は。肥前.筑後.肥後に勢力を伸ばし、東と西から豊後大友を包囲する体勢をつくります
将章義稙、追放さる
堺を基地に、貿易を行なっていた幕府管領細川改元が、明応九年(1500)十代将軍足利義植稙を追放して、十一代将軍に足利義澄を据え、大友・少弐に、義稙と大内義興の追討を命じました。
追われた義稙は、大内義興を頼って山口に下ります。義興は将軍義稙の名で、菊池を肥後、大友を豊後・筑後、少弐を肥前、大内を筑前と豊前の守護職に任じ、陶尾張守を豊前に派遣して、大友に圧力をかけます。
文亀二年(1502)新将軍義澄は、大友義長を豊後・豊前・筑後の守護戦に任じて、大内義興追討を命じます。
この時大友義長が、生葉妙見城主星野重泰に、出陣を催促しますが、重泰は出陣を拒否して、妙見城に叛旗を揚げます。
義長が、志賀・佐伯・臼井・古庄の万余の軍で攻めますが、妙見城を落とす事が出来ませんでした。義長は上筑後の武将を味方にして、激しく攻めますが城の守りは固く、落す事ができません。
義長は小河藤五郎を竹野郡代に、草野太郎・五条良邦に、上筑後の所領を与えて味方の体勢を固めて、妙見城を囲みました。
永 正元年(1504)少弐資元は、大友義長の妙見城攻の援軍に、竜造寺胤知を上筑後に派遣します。胤知は一族を率いて上筑後に入り、竹野郡森部村を居所と定めて妙見城攻撃に参加しますが、妙見城は落ちません。
胤知はこの城攻めは長期になると見て、永正三年森部村に天満神社を勧請して、武運を祈り併せて住民との融和を図ります。
永正十一年(一五一四)妙見城に手を焼いた義長は、老臣の献策を入れ、刺客竹尾新左衛門を、言葉巧みに妙見城に送り込みます。竹尾は忠実に働いて重泰を信用させて、入浴中の重泰に近づいて刺し、豊後に走りました。
義長は、こうして手に入れた妙見城を、京都公家の進言もあって、黒木の一族で大友に属した星野親忠に預けます。
大内義興、義稙を将軍に復職
永正五年(1508)大内義興は、九州.中国の二十万の大軍を率い、義稙を奉じて京都に上り、将軍義澄の官職を剥奪して追放し、義稙を将軍に復職させて、自ら管領になって幕府の大権を掌握します。追われた義澄は大友義長を頼って豊後に下ります。
この頃日本は、何れの国も城も、戦国闘争の真中にありました。どの城主も在野の武将も、一族存亡の懸かった、食うか・食われるか、熾烈な闘争の中を、懸命に生きていました。
永正十三年(1516)玖殊城主朽網親満が、大内義興の働き掛けを受けて、大友家綱の子宗心を、大友の家督に就けようと挙兵しました。この突然の挙兵に豊後中が右往左往し、騒然とした混乱が起きます。
永正十五年大友義長の跡を、義鑑が継ぎますと騒動は漸く治まり、宗心は周防に走ります。
大友義鑑は弟の重治を菊池家に入れます。重治が菊池家に入ると、肥後守護菊池義武と名乗ります。義武が肥後守になると、肥後守の立場を主張して、大友本家と対立するようになります。、、
この頃大内家においても、家臣杉武明が義興を廃し、出家中の尊光を控立しようとする、陰謀が暴露して敗れ、尊光は大友を頼って豊後に走り、大内高弘と名乗ります。
永正十四年(1517)、京都在中の幕府管領大内義興は、「出雲の尼子経久が、安芸北辺の大内城砦を攻撃する」との知らせに、急遽帰国して北辺の事態に対応しますが、これは大友の謀略と見て、大友攻勢を強めます。
これ以降、大内と大友の確執は、筑後の武将を二分します。下筑後の川崎鑑実が大内に応じて大友に背きますと、高良山・蒲池・西牟田・三池・草野・辺春・溝口、竜造寺胤知が参加して、大友に叛旗を挙げます。
この謀反の知らせは、五条・星野親忠・問註所から、大友義鑑に急報されました。
永正十六年(1519)二月、大友義鑑が出陣して、五条・星野を先陣に、生駒野城主川崎刑部大夫を討って叛乱勢を掃討します。「謀叛は日ならずして平定する」と記されています。
筑後動乱と竜造寺胤知
竜造寺胤知は、この動乱で叛乱軍に加わって、大友義鑑と戦いますが敗れて・竹野郡森部村に落居します。
森部に帰った胤知は、剃髪して名を道賢と改め、長男胤益・二男胤利と安超寺を建立して、三男道誓を住職に、戦死した一族の霊を弔います。
この時、胤知は姓を倉富と改めます。この胤知が筑後倉富家の祖と云われています。
(浮羽郡誌)
その頃肥前東部では、竜造寺.小田・馬場・江上の諸勢が、進攻して来た大内勢と・激しい戦いを繰り返していました。
竜造寺胤知は、筑後大友義長の救援に駆け付けながら、この度は大内に加担して・大友軍と戦って敗れます。その時故郷肥前では、竜造寺一族が大内勢と必死に戦っていますので、胤知は肥前に帰る事が出来なかったのであります。
大永二年(1522)大友義鑑は、問注所親照に、秋月方の備えに井上城を、星野方に対して立石城を築城させます。
この頃から筑後の西牟田・溝口・川崎・三池・草野・星野・辺春の城主と、肥後の大津山・小代・大野の城主が、若い大友義鑑から離れて、大内義興に従いましたので、筑後は再び険悪な情勢になりました。
大永五年(1525)二月、大友義鑑は筑後の謀反鎮定に、田北親員を大将に、高橋・吉弘・臼杵勢を急派します。これに黒木・星野親忠・上妻が先陣を承って、下筑後に攻め込みました。
その勢の鋭さに驚いた、高良山・蒲池・草野が大友軍に寝返りました。このため叛乱側は作戦を変更して、山崎の杜の林・溝口城で戦います。
この戦いで大友の援軍、吉岡・山下勢が到着して溝口城攻撃に加わって破ります。この戦いで星野正実は、豊前に走って大内の陣に入り、豊前の星野になります。
八月大内方の陶美作守が、尼子の備えを残した援軍を率いて到着しますと、大友方も挙兵して西牟田城と樽見・今山城を攻め落し、九月二十日に筑後の叛乱は、大友軍によって平定されました。
筑後動乱後の上筑後
享禄二年(1529)、大内義興が没した跡を義隆が継ぎますと、九州進出姦力に進めます。義隆は豊前.筑前の諸豪を懐柔して、陶美作守を筑後に派遣・三池.蒲池を内応させて叛旗を揚げさせます。さらに筑後から肥後に入って菊池義武と通じて大友に背かせます。
天文元年(1532)、先の筑後動乱の際、大友軍の先陣を勤めた星野親忠が・妙見城に叛旗を揚げます、怒った大友義鑑が、寄せ手を入れ替え入れ替え攻め立てますが・城は落ちません。困った義鑑は、幕府に援助を求めました。幕府は大内義隆に星野親忠.追討を命じます。義隆は大友.島津・菊池・少弐の軍十万を集めて妙見城を攻め、天文三年に攻め落し、星野親忠を大内の家臣桑野興国が、大生寺で斬って解決します。この戦いで大内義隆は名を挙げ、大友義鑑は非力を天下に晒しました。
星野氏が、度々大友氏に叛旗を掲げますが、これには訳がありそうです。
これより先、星野は南北朝時代、菊池と共に南朝軍の中心勢力となって、征西将軍宮に忠誠を尽くして戦いました。南北朝の合一が成ると、星野は大友に身を寄せますが、星野には祖先の偉業を継ぐ身との自負がありました。この思いに対して大友の扱いは、星野を常に先陣に走らせ、功を挙げても賞は薄く、常に家臣以下に処遇しました。この冷遇に耐え難い思を忍んでいた星野は、とうとう憤怒の思いが暴発して、闘争心が燃え上がり、挙兵するに至ったと思います。